ユダヤ人の〈ドイツ〉−宗教と民族をこえて
著者:G.モッセ
第二次大戦前に大陸からの民族大移動でアメリカに亡命したユダヤ人によるドイツ・ユダヤ近代の精神史である。方法としては、ドイッチャ−が大昔に指摘したとおり、「非ユダヤ的ユダヤ人」としてユダヤ意識を越え、普遍を目指し、その点においてドイツ文化を代表するに至ったユダヤ人の系譜を、19世紀初頭のユダヤ人解放から第二次大戦前夜にナチス体制の成立と共に崩壊するまでの時代の精神を体現した数々の人物を追いかけながら、コンパクトに描いている。その意味で私が大学時代から親しみ、欧州文化・思想史の中核に常に置いてきた巨大な知的流れを、ユダヤ・ドイツ人によるドイツ精神史への同化という観点から、やや早足ではあるが久々に復習させてくれる書物であった。
この精神史を表現するために著者が使用するキ−ワ−ドはドイツ語の〈教養:Bildung〉という概念である。これは、簡単に言うと英語の"教育"の意味に、人格形成と道徳教育を結びつけた概念である。即ち「人間の可能性を信じ、人間の自律性を信頼する楽観主義。知識を習得すれば道徳的要請が活性化されるという信念。そして最後にすすんで理性を働かせて、のばそうとする者は、誰でもこの理想に到達することができるという信念」こそが〈教養〉の中核的概念であった。まさにユダヤ人が解放された19世紀初頭、ドイツ市民意識が覚醒し、啓蒙主義の影響が広がる中で、ユダヤ人はこの近代意識の流れを自らの拠って立つ基盤として選択し、それによりドイツ人以上にドイツ的なこの時代の精神文化を形成していったのである。この意識は、個人的には生涯終わることのない自己教化を目指し、政治的にはこの姿勢は自由主義と社会主義に向かうことになる。
その意味で19世紀のユダヤ人は「古典期−ゲ−テとフンボルトの時代−の市民階級を形成したあの人文主義者の後継者であった。」ドイツ・ユダヤ人の大憲章が、この影響下に啓蒙精神を体現したレッシングの「賢者ナ−タン」であり、その結果19世紀末にはユダヤ社会の中で、レッシングの復興運動が起こったのも不思議ではない。
しかし問題はユダヤ人がドイツ社会に融和しようと接近し、且つ先頭に立って追求したこうした〈教養〉概念が、彼らをむしろドイツ民衆から孤立させる契機となったことにある。即ち、「個人と大衆、教養市民階級と多くのいわゆる無教養な人々のあいだにはいちじるしい相違があり、それがユダヤ人にとっては常に彼らの同化を脅かす潜在的な脅威であった」のである。まさに第四章で取り上げた「ドイツ教養市民層の歴史」でも指摘されていたとおり、ユダヤ人が同化を目指したこうした市民層は、英国と異なり、そもそも一般大衆から遊離した少数者であり、同じ自己発展への意識が覚醒したとしても、実際にドイツ民衆の信仰と文化の間に広がったのは、国民化され、ロマン主義化された自己教化の概念だった」のである。
著者は、ドイツ・ユダヤ人が文化の前線で最も活躍したワイマ−ル期を中心にこうしたドイツ・ユダヤ人の現代史を象徴する人間たちに焦点を当て、この逆説を浮かび上がらせようとしている。第七章で見たとおり、ワイマ−ル文化の傑出した部分は、主としてこの書物でも後に登場するフランクフルト学派の人々のような左翼知識人が作り出したものであったが、それでもより大衆に接近しようとした者たちの中には、「労働者階級がその適切な媒体ではない」と考えた者もいた。例えば、ステファン・ツバイクやエミ−ル・ル−ドビッヒの歴史評伝はドイツ国民の間で人気を博したが、「彼らが提起した問題は個人主義的、人文主義的、平和主義的な高尚な文化は、いかにして民衆文化と交流しうるのか」という問題であった。しかし、ビスマルクやラッサ−ル、ラテナウといった大衆的人気を有する人物を取り上げ、それを通し人々を教育し、〈教養〉を広めようとする彼らの評価は、既に1920年代には「情けないほど廃れていた」と言う。ファシズムの足音がそこまで迫っている時に「エラスムス」を書きながら「人文主義は絶えず情念に脅かされる」と書くのは余りに呑気ではないのか、と著者は言う。そして例えばル−ドビッヒはむしろムッソリ−ニやスタ−リンを尊敬や畏敬を込めて表現することにより、結局彼の理想をドイツ国民に伝えるのに失敗するのである。他方「ドイツ民衆文化に流れる自由主義の傾向は、ドイツに根をはった革命の伝統をとおして、一見対立する流れと結びついた。黙示録的歴史解釈がそれだ。」この革命待望の伝統はむしろ左翼よりも右翼を強靭にしたとは言え、ブロッホやブ−バ−はその不吉な力を理解し、「それを自分たち自身の思想の中で利用しようとした。」こうした「大衆文化の革命ユ−トピア的要素」は確かにツバイクやル−ドビッヒには理解しえないものであり、その意味でドイツ・ユダヤ人のドイツ民衆文化へのアプロ−チのための新たな一つの選択肢でありえたが、これさえも後年米国で初めて大衆規模のエネルギ−を持ったのみで、この危機の時代においては〈哲学的な希望の原理〉以上のものになることはできなかった。
更にドイツ・ユダヤ人の中には人気作家ヤコブ・バッサ−マンのように〈民族主義〉的ビジョンのために、自由主義の教養を捨てたいと思う者さえもいた。彼はユダヤ的「東方趣味」とドイツ魂を総合することで、ドイツ人のユダヤ人嫌いを払拭し「本当のヒュ−マニズム」を獲得できると考えていたが、これも結局のところ「自己完成」という、大衆から遊離したドイツ・ユダヤ知識人の伝統から一歩も出ていなかったのである。しかしそれにもかかわらず著者は、彼らがベストセラ−作家として「ドイツ民衆との対話」に入った点は評価している。最終的には歴史に流され、ル−ドビッヒのように第二次大戦後は忘れ去られてしまったとしても、ドイツヘの同化と啓蒙の伝統を維持しようと試みた彼らの営為を単に無意味と断定することはできない。
ドイツ民衆文化に接近したこうした流れを越えたところにアカデミズムの世界があるが、ここはユダヤ人たちが得意とする、因習に囚われない個人主義と合理主義に基づく表現活動を行える特権的世界であった。啓蒙の過程で、ドイツ古典主義の伝統により悪に打ち勝つことができる、という確信を抱いていたユダヤ人たちは、「知性に汚されず、心が清く、善意にみちた純朴な人間」という右翼の国民主権的理想と戦う最良の場を学問の世界に見出していく。
こうした学問的戦いは、まず従来は国民主義の預言者たちと解釈されていたゲ−テ、シラ−、レッシング、ヘルダ−、フィヒテといった古典文学者たちに、〈教養〉階層の先駆者として独自の文化概念を付与する試みとして現れた。特にフィヒテの場合は、ナポレオン占領下での有名な演説でナショナリズムの高揚を促した人物であるだけに、ユダヤ人たちの彼に対する再定義は彼らの思い込みの強さを示していると言えなくはない。しかしゲ−テの場合は、彼がまさに啓蒙期の教養市民層を体現していただけに、ユダヤ人にとっても感情移入が容易であり、その結果1920年代のゲ−テ協会でユダヤ人が主要な活動を担っていたというのも頷ける。ドイツ・ユダヤ人にとっても「ドイツ文化の英雄と同一化すれば受け入れられる」という確信があった。更にユダヤ知識人にとっての巨人ハイネさえも、ゲ−テの弟子として位置付けられ、ドイツ文化とユダヤ文化の同化の象徴とされたのである。
他方、アカデミズムの世界ではドイツ民族主義が持ち出すゲルマン神話を普遍化し、人類全体が共有する実体として把握し直そうという動きが現れる。著者は「フロイトが、個人の神話を合理的に分析しようと努めた背景には、中央ヨ−ロッパにおこった最初の大規模な反ユダヤ主義大衆運動があった」と指摘しているが、これはユダヤ人たちがアカデミズムに依拠して、迫り来る大衆政治の圧力に対抗しようとした最初の動きの一つであった。またワ−ルブルクのように、ルネサンス期の神話と象徴の分析を行う−それは「不合理なものに脅かされる世界でどう生きるかを示す〈啓蒙主義者〉の処方箋であった」−と共に、後にワ−ルブルク文庫として知られる膨大な文献収集を行うことにより、ドイツ・ユダヤ人たちのアカデミズムからの戦いの基礎を作った人間がいることも忘れてはならないだろう。そしてこの文庫の研究から美術史のパノフスキ−や哲学のカッシ−ラ−のように、不合理・非合理性を分析することでそれらを克服しようとする作品群が生まれていくが、これらが、特段直接の対話も影響もなかったフロイトが意図したものと結果的に同一であったのも、ユダヤ的普遍主義の共通性を物語っている。
しかし、こうしたアカデミズムに依拠した不合理・非合理との戦いはまだ政治的位相を有していなかった。彼らと出発点を一つにしながら、マルクス主義の普遍主義の影響を受けながらそれを政治化していったのがユダヤの左翼知識人たちであった。
こうしたユダヤ系左翼知識人たちは、私が学生時代から特に親しみ、影響を受けてきた人間たちであるが、著者は彼らを「前の時代の〈教養市民階級〉から受け継いだ独自のドイツ文化の伝統」の下に位置付けている。彼らは「労働者階級の最終的勝利と財産所有関係の廃止とは、人間性の勝利をみちびくだろう。しかしそのような勝利も、〈教養〉と啓豪主義にもとづくものでなければ意味がない」と考えていたのである。マルクス主義をヒュ−マニズム化する試みは、既に若きルカ−チが端緒を付けていたが、これをより推し進めたのは、言うまでもなく、ホルクハイマ−、アドルノ、マルク−ゼといったフランクフルト学派の人々であった。こうして社会的諸関係の構造を分析するだけではなく、「人々の精神を支配する思想と文化の暴虐的抑圧メカニズム」を解明しようとする彼らのユニ−クな試みが開始された。また同派の影響を受けつつも、ベンヤミンやショ−レムはより自己のユダヤ性に回帰しつつ独白の文化論を生み出していく。
しかし、アカデミズムでの戦いと同様、彼らも基本的には〈教養市民階級〉の遺産から出発しつつも、ドイツ・ユダヤ人が中産階級に同化したことに疑問を投げつけ、むしろ〈教養〉概念と中産階級との、それまでは存在した関係を、むしろ否定するに至ったのである。その意味で、フランクフルト学派の営為は、フロイトらと同様、勢カを拡大するドイツ民族主義により中産階級が国民主義化されていく最終過程での抵抗であったと言える。しかし、彼らがドイツ中産階級を蔑視した時に、彼らの政治的運命は既に決定付けられていた。彼らのアメリカヘの逃亡は、19世紀以来のドイツ・ユダヤ人の同化過程の終焉を象徴することになったのである。
こうしたドイツ・ユダヤ人の知的伝統は挫折せざるを得なかったが、その基本思想は戦中・戦後を通じてのシオニズムにも受け継がれた。著者はこの流れを「一国民の復興を地域主義的な狭いビジョンから、より大きな人間主義の理想に向けようとした、近年における数少ない試みであった」と評価する。そして何よりも、解放以降のドイツ・ユダヤ人の精神史に共通する「自己教化と寛容の合理性の理想は、今なおこの不安定な世界の中で、将来に希望を抱かせてくれる。」ドイツ−ユダヤの対話は確かになされた。そしてドイツの最良の伝統を、このユダヤ人たちは戦後に受け継いでいった。「独裁、戦争、ホロコ−スト、敗戦を超えて、ドイツのよりすぐれた自己を保持しつづけたのは、いかなる単一の民族グル−プにもまして、他ならぬドイツ・ユダヤ人〈教養市民階級〉だったのである。
第四章で取り上げた野田宣雄の「ドイツ教養市民層の歴史」が、通常のドイツ人中産階級の発展と崩壊を社会学的に分析したものであるとすれば、この作品は、ユダヤ人論の観点からその先鋭的な表現を位置付けたものと考えることができる。そしてそこにおいて私の精神的原点として不動の位置を占めているフランクフルト学派の群像とワイマ−ルの文化をもう少しスパンの長い歴史の中で捉えることを可能にしてくれる。野田の分析が、日本の転向論にも見られた、インテリの土着性への回帰とパラレルに考えられるとすれば、このユダヤの先端的営為は、まさにドイツ的特殊性として日本にはないものとして認識することができる。そしてそれが実はドイツ・ユダヤ人のドイツ文化への積極的な同化過程で生まれたとする見方がこの書物の特徴である。その意味で、欧州文化史の中における異質なものの攻めぎ合いが革命的な先端文化を作る契機になってきたという、私が常日頃抱いている感覚を、大雑把な形ではあるが、また新たな形で提示してくれたのである。
読了:1998年3月30日