アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第八章 民族
第一節 ユダヤ人問題 
ユダヤ人とドイツ
著者:大澤 武男 
 第五章で取り上げたフランクフルトの郷土史を共著で発表している著者によるドイツ・ユダヤ人の歴史入門書である。著者はビュルツプルグ大学に留学した後、ドイツ人と結婚し、現在はフランクフルト日本人学校の事務局長の職についているが、そうした環境から私の身近にある事象に言及しつつ、ドイツ・ユダヤ人の歴史を語っていく。この書物が与えてくれるのは、そうしたフランクフルトでの日常生活の中で我々が触れることのできるユダヤ人問題の痕跡である。従って、この書物については一般理論的なところは省略し、我々の生活との接点に注目して見ていこう。

 まず第一章の挿し絵に使用されているフランクフルト・ユダヤ人センタ−の写真が目を引く。旧オフィス時代の私の通勤路に位置していたこの建物は、常に警察の車が脇に停車しているのが印象的であったが、この建物の外壁にある亀裂が、著者によると、ユダヤ人とドイツ人の関係を象徴している、という。具体的解説は本文中にはないが、まずはそうしたものと仮定して本文に入っていこう。

 続いてドイツにおけるユダヤ人社会の古代史。ウォルムスから出征したロ−マ軍兵士が、エルサレム攻防で戦功をたて、与えられたユダヤ娘を連れ帰ったことから、ドイツ最古のユダヤ人団体がウォルムスに成立したという伝説。更に資料で裏付けられるものとしては、4世紀のコンスタンティヌスの勅令に登場するケルンのユダヤ人団体がある。ライン、マイン、モ−ゼルが「祝福された地」としてパレスチナの代償となったという。

 こうしたユダヤ社会は11世紀の十字軍によるポグロムに代表されるとおり、多くの苦難を舐めてきた。物理的にも13世紀のラテラノ会議以降、「キリスト教徒への悪影響を防ぐため」という名目でゲット−に押し込まれることになる。著者はフランクフルトにあった典型的ゲット−の復元図(長さ300m、幅50mに一時は3000人が押し込まれていたという)を挿入しつつ、市交通局の建設現場から見つかったこのゲット−跡の処理を巡る1987年の論争を紹介しているが、これは丁度ゲ−テ・ハウス再建を巡る議論と酷似しているのが興味を引く。更にこの論争を契機に市政がキリスト教民主同盟から社会民主党に移行した、というのも、遣跡の処理が政治論争になる、この国の社会風土を物語っていて面白い。

 ユダヤ教徒を改宗させようという試みが失敗した後のルタ−のユダヤ人憎悪について触れた後、今度はユダヤ人が宮廷で勢カを増大させる様が描かれるが、その際たる者がロスチャイルドであり、特にアメリカ南北戦争の北軍の戦費がこのフランクフルトのロスチャイルドに担われていたことは、現代のアメリカにおけるユダヤ勢カの起源を示している。

 しかし経済的実権を握ったユダヤ人も政治的には抑圧される時代が続き、フランスのユダヤ人が革命直後の1791年に市民権を獲得したのに対し、ドイツのユダヤ人が解放されるには、これから遅れること70年を要したのである。著者はこの遅れを「分裂、領邦体制を19世紀まで繰り返していたドイツの政治的、社会的、思想的後進性、市民意識の低さ」と「ユダヤ人を解放し、同胞市民とすることに対するドイツ人の自信のなさ、恐れ、一段と根深い対ユダヤ人嫌悪」に由来するとしているが、それも頷ける。しかもその解放の契機となったのはナポレオンのフランス軍によるドイツ占領という外圧であった。フランクフルトに関して言えば、1796年に、町を包囲したフランス軍が砲撃を浴びせ、これによりゲット−が焼失したのが、ユダヤ人と一般市民が隔離されずに生活する契機になったという。

 しかし1848年のフランクフルト国民議会が失敗し、反動期が訪れると、ユダヤ人のアメリカ移民が急増することになる。反面その後の産業革命期にはユダヤ資本の力は一層拡大し、フランクフルトに関していえば、1880年には既に210の銀行が存在し、その85%がユダヤ系であったという。トライチュケの「ユダヤ人は我々の不幸だ」という発言に見られるように、そうしたユダヤの経済権力拡大への怒りと不安が、第一次大戦に向けての反ユダヤ主義を増長させていくのである。

 ワイマ−ル。ゲ−テが半世紀以上にわたり活躍し、宗教改革者ミュンツア−縁の地。クラナッハやパッハ、シラ−、リストがその主要な作品を発表し、18世紀以来、自由主義の伝統を担った文化都市。ニ−チェが晩年をおくったのもここであったという。ここで生まれたワイマ−ル憲法はナチスの台頭の中で、反ユダヤの標的となる。ロ−ザ・ルクセンブルグからウォルタ−・ラテナウに至るまで、政治的信条故に右翼の凶弾に倒れた多くのユダヤ人がいる反面、1905年からワイマ−ル時代にかけノ−ベル賞を受けた44名中、11本がユダヤ人であるとの統計もある。都市の民、としてのユダヤ人の特徴を示すには、全国では人口の1%でしかなかったユダヤ人が、19世紀以降のフランクフルトでは常時人口の10%を占めていたという事実を指摘すれば十分である。しかしそのワイマ−ルが「敗戦の中で生まれ、混乱の中で生き、そして悲惨な死を遂げた」(P.ゲイ)経緯はもう毎度も反芻したので、ここではこれ以上触れる必要はない。そしてまたナチの政権掌握から戦争とユダヤ人大量虐殺に至る歴史についてもこの書物の記載を追う必要はない。ただ、このワイマ−ル、私の思想的原点であり、ユダヤ文化に限定されることもなく、欧州近代の文化史に敢然と輝くこの町を、私がまだ訪れる機会を有していないのは残念なことである。著者が居を構え、私も6年半という期間を過ごしたこのフランクフルトにおけるドイツ・ユダヤ人の歴史に思いを馳せながら、同時にドイツ滞在の最後に、山口知三とこの大澤の書物を頼りに、このワイマ−ルと、その郊外にあるブ−ヘンパルド強制収容所跡を訪れる計画を立てている今日この頃である。

読了:1998年4月27日