ユダヤ人の教養
著者:大澤 武男
ドイツ・フランクフルト滞在時に、当地の日本人学校の幹部で、今までも何冊かドイツ関連の著作を読んできた1942年生まれの著者による、2013年出版の「ユダヤ人教育」論である。今まで読んだ著者の新書は、ヒトラー関係とユダヤ人関係の二種類があるが、後者は、それこそフランクフルト滞在末期の1998年に読んだ「ユダヤ人とドイツ」(別掲)と、その後2008年に読んだ「ユダヤ人 最後の楽園」(別掲)であるが、それ以外にも著者は数冊の「ユダヤ人」論を出版している。今回は偶々その中で、ブックオフで見つけたこの新書を読んだ訳だが、その他の著者の作品も踏まえた「ユダヤ人教育論」になっている。この手の「ユダヤ人」論は、今まで他の著者のものを含め多く接してきたが、改めてこの著作に接すると、著者の長年に渡る「ユダヤ」研究の成果が随所に見られるものになっている。
ここでの大きな主張は、1000年以上に渡り迫害され、流浪の民となってきたこの民族の歴史的宿命を受け、キリスト教世界での差別を跳ね返すために蓄積してきた狡知と知識が、この民族の生き残りにとって不可欠であったと共に、それが新たな力と、それに伴う新たな迫害を呼んできた、そしてそのためにこの民族は、その基礎になる教育につき格段の力を注いできた、という、この手の著作のどこにでも見られるものである。しかし、それを著者が今までの研究で蓄積してきたと思われる数々の研究の引用と、長年に渡るドイツでの人的交流やフランクフルト日本人学校の幹部としての経験を使いながら、読み物としてたいへん面白くまとめている。
「旧約聖書」に始まり、日常生活を規定する律法(トーラー)等に基づく学習。しかし、それは常に対話と批判を通じて夫々の時代に適合するよう議論される。「よい、優秀な生徒とは、すぐれた質問や疑問を持ち出し、教師を利口にする子供である。(ユダヤ人教育者、ツヴィ・フリーマン)」。そうした「自ら考える力」を養うことがユダヤ的教育の根幹であり、そうした自主性や創造性を重視する姿勢は、知識の押し付けと短期的な受験志向が主体の日本の教育とは大きく異なっている。しかし、今やグローバル化の流れの中で、日本人にとってもこうしたユダヤ的教育は必要になっている、ということを著者は繰り返し主張することになるのである。
こうした視線から、著者は、中世ドイツからのユダヤ人の都市集住とそこでの金貸し業を通じた封建諸侯との関係強化と、そこでも継続的に発生していた借金の踏み倒しを含めた迫害の歴史を辿ることになるが、その辺りは、著者の過去の作品で何度も描かれてきた世界である。また「宗教的偏見や信仰問題を越えて」宮廷側近待医として多くの医師を輩出したのも、この民族の特徴である。また市内に店をかまえることが許されていなかった彼らが「行商」として各地を周り交易したことが、地域間の「貿易」を促したこと、そしてそれは戦時の武器弾薬等の取引に広がり、例えばオスマン帝国の攻撃からハプスブルグ家を救ったことも、良く知られている通りである。そして近代に至り、ナポレオンによる「ユダヤ人解放」やその後の反動などの動きの中で、ユダヤ人教育も変わっていくことになったという。従来は、ドイツのユダヤ人学校での教育は、ヘブライ語やイディッシュ語で行われていたが、一般社会での「ユダヤ人解放」の雰囲気の中、ユダヤ人側からも、そうした「一般社会の文化、言語理解の必要性が意識され」「ドイツ語で祈りの本を編集し、ドイツ語でユダヤ教の祈りを子供たちに学ばせようという試み」がなされたという。こうして17世紀末以降、ヨーロッパ各地の大学でユダヤ人も勉学する機会を得ることになるが、そこでは教育の伝統に支えられたユダヤ人の成績が抜きんでており、それが再び彼らに対する嫉妬や経緯を生み出していくことになったのは皮肉であった。またこうしたユダヤ人生徒が、成績は優秀であったが、学習態度はそれほど勤勉ではなく、むしろ「生意気」や「早熟」と評価されていたことも、その後の迫害の理由になったと思われる。
以降、近代の「アンティセミティズム」の高まりと、それに対抗する「シオニズム」運動の歴史が語られるが、その辺りは、著者の作品を含めた復習であるので省略する。そして最後に改めて、著者は、こうした議論と批判を通じて創造性を刺激するユダヤ教育と、協調性に配慮し、受験に向けた短期的な知識押し込みに重点を多く日本の教育を比較し、現代のグローバル化の中で、日本の教育が変わらなければならないことを改めて強調し、本書を締めくくることになる。
日本の教育問題について、私自身が強い意見を持っている訳ではないし、もちろん著者が述べてきたユダヤ人教育とそれが多くの優秀な人間を生んできたことを否定するものではない。ただ、日本人の歴史的な同質性を考えると、当然ながら、そうした大きな教育原理を変えることは簡単ではないことも明らかである。ただ日本の教育が、現在の国際化を踏まえそれなりに変わってきていること、そして学生の側でも早い時期からそうした国際化の波に対応していこうという機運が出てきていることも間違いないと思う。そう考えると、今後の国としての日本の命運は、教育制度の問題というよりも、そうした世界の変化を受け止めて現在の若者たちがどのように考え方、行動していくかにかかっているとしか言えないような気がする。
いずれにしろ、著者のドイツに根差した旺盛な研究と著作活動には改めて深い敬意を払うと共に、現在80歳近くなっている著者の今後の活動にも注目したい。同時に、かつてのドイツ勤務時代の同僚で、博士号を持っていたエコノミスト(恐らく私と同年代位であったが、当時の私の会社では唯一のユダヤ人であった)は現在どうしているのだろうか、という感慨も抱いたのであった。
読了:2022年10月21日