ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
序文
音楽は、私の生活の中ではまさに空気と同じ、あるいはそれ以上に必要不可欠なものになっている。なかんずくロック、ジャズについては、中学校入学直後の12歳の頃からアメリカのヒット・ポップスやビ−トルズ、スト−ンズを聴き始めて以来、起きがけから、夜床につくまで、可能な限り片時とも私の側を離れることがなかった。それはあたかも空間を空虚のまま残しておくことに何らかの精神的な不安を持っているのではないかと自分自身で思える程である。そしてそうした心が常に新たな音を求め続けてきた。
私がこうした音楽に心奪われ始めた時代、所謂ポップ音楽は大きく変化しつつあった。アメリカのポップ音楽は、フラワ−・ム−ブメント、サイケデリック・ム−ブメントと呼ばれた60年代終わりの文化革命の中で、次第にジャズやブル−ス、あるいは場合によってはクラシックやインド音楽に代表されるワ−ルド・ミュ−ジックも取り入れつつ、新しいタイプの音楽を生み出しつつあった。アメリカを発信地とするフラワ−・ム−ブメント、サイケデリック・ム−ブメントが一段落すると、続けて今度は英国から、プログレッシブ・ロックの波が押し寄せてきた。飛躍的に向上した演奏能力に裏付けられたこの潮流は、私にジャズやクラシックに対する興味も植えつけることになるが、続いて大きな流れになったフュ−ジョンと呼ばれたタイプのジャズは、プログレッシブ・ロックからの自然な延長として入り易いジャンルであった。
こうして約15年にわたり、日本でこうした音楽を追いかける生活が続いた後の1982年、仕事でロンドンに赴任する機会が訪れることになる。約6年間、私の年齢で28歳から34歳まで続いたロンドン時代は、私の音楽生活にとってはかけがえのない貴重な時代となった。それまで日本で言わば輪入された文化としてのロックやジャズを受容していたのに対し、ロンドンではそれをまさに文化そのものとして享受することができるようになったのである。町の至る所にあるライブ・スポット。あるいはかつてレコ−ドでのみ接することのできたミュ−ジシャンが、狭いパブで気楽なセッションをやり、休憩時間にはピ−ルを片手にして歓談することができる文化。毎週発行されるタウン誌には、ロック、ジャズ、フォ−クといったジャンル分けで、連日数多くのコンサ−ト・メニュ−が掲載され、それをチェックし、「A to Z」と呼ばれる地図で場所を探して駆けつけるというのが、私の余暇の日常性となった。友人の同人誌への掲載も含めた音楽レポ−トを記録するようになったのはこの時代からである。
1988年日本に帰国し、ワ−プロを購入した。英国滞在時、いくつかのコンサ−ト評を書き残したものの、手書き原稿の形では多くを記録するインセンティブが湧くはずもない。しかしワ−プロの入手により、そうした作業が格段に容易になった。書物の読後感想にしろ、旅行、演劇、映画にしろ気楽に記録を残すことが私の新たな日常性になったのである。こうしてロンドンの帰国直後からコンサ−トについても随時書き留める慣習が身に付くことになった。
日本に帰国して3年半経過したところで、今度はドイツ、フランクフルトヘ赴任する話が持ち上がった。社会思想的には大きな関心があったドイツであるが、音楽的には余り興味のある国ではなかった。もちろん、クラシックのファンにとっては、バッハからモ−ツアルト、ワグナ−あるいはカラヤンに至るまで、幾多の天才作曲家、指揮者、演奏家を輩出したドイツ文化圏の重みは否定できないものであろう。実際私の周辺でもクラシックのファンはミュンヘンやベルリン、あるいはウィ−ンのコンサ−トヘ頻繁に顔を出していた。しかし私にとっては、こうしたクラシック音楽の世界は、ドイツ社会思想を追いかける上で文化史的な観点からフォロ−する必要のある課題に過ぎず、音楽それ自体として感覚的に魅かれるものではなかった。その意味で、私のドイツにおける音楽生活は、かつてロンドンに滞在していた時とは異なり、むしろ日本にいた時と同様に輪入文化としての英米音楽を受け入れる生活となっていった。
しかし、それでもフランクフルトというドイツの中規模都市での音楽生活は、東京やロンドンのような大規模都市でのそれとはまた様子が異なっていた。更に英米のミュ−ジシャンにとって、ドイツは距離的にも気楽にツア−ができ、また市場自体としても魅力的な地域であるせいか、多くの重要なロック/ジャズ・ミュ−ジシャンがこの国を訪れることになった。もちろん、分権的伝統と地理から、ドイツ・ツア−と言っても、どこの都市を訪れるかによって参加の可能性は大きく変わってくる。しかし、多くの場合フランクフルトあるいはその近郊は重要な会場であった。
こうして輸入文化としてのロック、ジャズをフランクフルトでもまた継続的に享受することになった。もちろん、家族構成の変化により、ロンドン時代のように、頻繁に動けるわけではなかったが、時折こうした音を求める衝動は抑えきれずそこへ出かけていくことになった。こうして参加したコンサ−トの一部がここで紹介する一連の評論である。
これは、別に掲載した「ドイツ読書日誌」と対をなすものである。但し、前者が、ドイツでしたためたことが本質的な構成要素になっているのに対し、こちらでは、たまたまドイツで参加したコンサ−トである、という程度の意味しかなく、むしろ12歳の時からポップ音楽を聴き始めた人間が、それから30年以上経った後に、その延長線上でどのような音楽を如何に受け止めたかを記録したものに過ぎない。しかしそれにもかかわらず、読者には、そこに90年代のドイツの一地方都市におけるロック、ジャズ生活がどんな具合であったかを感じてもらえるのではないか、と考えている。
1998年7月、再度日本に帰国し、日本のロック、ジャズシ−ンも大きく変化しているのを感じている。かつて同じ嗜好を持つ友人たちの問で、ある歌手やバンドは共通の話題となった。音楽の量自体が限られている環境下では、主要な新作を誰もがほとんど耳にすることができた。しかし現在は明らかに、同じロック/ジャズといっても多様な音楽が過剰なまでに巷に溢れている。日本のロックからあらゆる地域に広がるワ−ルド・ミュジック、リズム的にもドラムン・ベ−ス、ヒップ・ポップに至るまで、今や一人で聴くことができる範囲は限定され、各人各様の多様化した趣味から、かつてそうであったように共通に話題としうる音楽も少なくなってきているように思える。そしてこうした状況を念頭に置くと、私がここで取り上げたミュジシャンたちは、どうしても過去が刻印された人々が多いとの印象は免れない。しかしそれにもかかわらず、少なくともドイツの聴衆はこうした音楽をドイツ人なりの抑えた熱狂をもって迎えていたのである。90年代の現地のそうした雰囲気も合わせて伝えることができればそれも私の喜びとするところである。
1999年6月
(追記)
今回のHP化にあたり、フランクフルトでのライブ体験に加え、それ以前のもの、そしてドイツから帰国後の日本で参加したライブについても付け加えることにした。80年代のロンドンからのレポ−トは、既に当時、日本で友人達が発行していた同人誌に「ロンドン音楽通信」として掲載されたものに、当時手書きで残したものを追加した他、当時の記憶を辿って今回書き足したものを追加している。東京でのライブは、80年代末から90年代始めの、バブル期に書き残したものに、90年代末から最近までのものを加えてある。今後も、新しい体験は適宜加えていくつもりである。約20年にわたる私のロック/ジャズ経験を共感していただける方がいれば、嬉しい限りである。
2004年5月
(追記2)
最初のHPを立ち上げてから既に5年が過ぎた。今回そのHPを全面的に改定するにあたって、その後のコンサート評を追加した。既に他の場所にも書いたとおり、その間、私は生活の基盤をシンガポールに移すことになった。文化的な刺激はほとんど皆無に近いと言われていたこの都市国家であるが、国民全体の生活水準の上昇に伴い、音楽を始めとする文化活動も少しづつであるが改善しているようである。そこで、続けてここシンガポールでの音楽ライブ・レポートも継続することとした。現在進行形で、灼熱の土地ここシンガポールでのコンサート報告もご覧頂ければ嬉しい限りである。
2009年10月