アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第二部:東京編@ (1988−1991年)
フィル・コリンズ But Seriously Live
日時:1990年3月9日
場所:代々木体育館 
 仕事でほぼ徹夜の日もあった一週間がようやく終った週末金曜日、フィル・コリンズ初の東京公演が開催された。いうまでもなく、彼は英国のロックバンドであるジェネシスのドラマ−兼リ−ド・ボ−カリストであるが、バンドの他のメンバ−と同様、多彩なソロ活動を行っている。今回の日本公演は、今年初めに発表された彼の4枚目のソロ・アルバムである「But Seriously」のプロモ−ションのためのワ−ルドツア−の一環として行われたものである。

 日本は今やジャパン・マネ−を狙う外タレにとっては欠くことのできない公演地である。特に今年に入ってからは、ロ−リング・スト−ンズやポ−ル・マッカ−トニ−等の大物が相次ぎ来日、前者は10日間の公演で、約50万人を動員したと言われている。フィル・コリンズは英国ではこれらのア−チストと並ぶ人気を持っているが、日本ではジェネシス同様、必ずしもス−パ−スタ−という訳ではない。実際今回の公演についても、チケットが相当売れ残っている、という噂もあったくらいである。しかし、この日は、3日間の公演の最終日であったこともあってか、会場の代々木体育館はほぼ満席の状態で、開演前から、メリ−ゴ−ラウンドのイラストに飾られ、半円形にアリ−ナに突き出した垂れ幕の向こう側で行われようとしている演奏への期待感はそこそこ高まっていた。

 さて今回の公演に入る前に、ジェネシスの歴史と重ね合わせながら、フィル・コリンズの音楽活動を振り返っておこう。

 ロンドンから北へ約50キロほどの位置にあるアインズレ−という町のフライヤ−ズ・クラブでジェネシスが最初のショウを行ったのが1970年4月。その後ロンドンのロニ−・スコッツ・クラブでの演奏がカリスマ・レコ−ドのスカウトの目にとまり事実上のファ−ストアルバムである「Trespass」を録音したのが同年6月から7月であったことから、彼らの音楽性が早くから注目されたいたことは間違いない。

 しかし、ジェネシスの音楽性が確立するのは、翌1971年、ドラマ−としてフィル・コリンズが参加してからである。フィルに加え、P.ガブリエル、M.ラザフォ−ド、T.バンクス、S.ハケットで構成されたジェネシスは、その後、キング・クリムゾン、EL&P等と並ぶブリティッシュ・プログレの中心として次々に話題作を発表していくことになる。

 しかし、当初のジェネシスの方向性を担っていたのはリ−ド・ボ−カリストのP.ガブリエルであり、次第に彼の持つ演劇性とアバンギャルドな音楽性が前面に打ち出されることになる。4枚目のアルバムである「The Lamb Lies On Broadway」は、彼らの初期の集大成であると同時に、P.ガブリエルと高度なテクニックに裏付けられつつも、より洗練されたメロディ−ラインを求める他のメンバ−との相違を示すものとなった。このアルバム発表を最後にP.ガブリエルは独立する。

 彼の脱退により空白となったボ−カリストに抜擢されたのがフィル・コリンズであった。それまでは彼はドラマ−として、その力強いプレ−と変則ビ−トにおける正確なドラミングで注目されていたが、これ以降は次第にボ−カリストとして頭角を顕していくことになる。

 ジェネシスは1976年の「A Trick Of The Tail」以降、シンフォニック・ロック・バンドとしての最盛期を迎えることになるが、後の各メンバ−のソロ・アルバムから考えると、この時期の指導権を握っていたのは、むしろキ−ボ−ドのT.バンクスであったと考えられる。そして、1977年のS.ハケットの脱退後は、オリジナル・メンバ−3人に加え、ギタ−のD.ステルマ−、ドラムにC.トンプソンを迎え現在のラインアップが確定する。

 こうした中で1981年、フィル・コリンズの初のソロ・アルバムである「Face Value」が発表されたが、これはジェネシスのボ−カリストとしてのフィル・コリンズの音楽性が表面に出たものになった。ジェネシスよりD.ステルマ−が、そしてメンフィス・ホ−ンが加わった録音メンバ−は、その後の3枚のアルバムでも変わらず続くことになる。そしてこのアルバムに見られたポップな方向性は、次第にジェネシス自体の方向性となっていく。1982年、Three Sides Live ツア−として行われたロンドン、ハマ−スミス・オデオンでのステ−ジと、1987年ロンドン、ウエンブレイ・スタジアムで行われたInvisible Touchツア−の違いは、前者が3000人程度の小ホ−ルで、より洗練された音楽性を示したのに対し、後者は3万人規模のフットボ−ル・スタジアムでのス−パ−スタ−のコンサ−トであった、という点に端的に示されている。この過程は即ちフィル自身がス−パ−スタ−となっていく過程とまさに附合していたのである。

 さて当日のコンサ−トは最新のソロ・アルバム「But Seriously」全曲を含む過去のソロ・アルバムの主要曲に加え、彼が担当した映画の主題曲も交え3時間にわたって行われた。メンバ−はD.ステルマ−、メンフィス・ホ−ンらソロ・アルバムのレコ−ディングに参加したア−チストに加え、ジェネシスからC.トンプソン、それにベ−シスト、キ−ボ−ド及び3人編成のコ−ラス・グル−プから成る12名。Sussudio、Don’t Lose My Numberといったアップテンポのナンバ−、In The Air Tonight、One More Night等のスロ−バラ−ド、そしてThe West Side等、メンフィス・ホ−ンをフュ−チャ−したインストゥルメンタル・ナンバ−を組み合わせながらステ−ジは進行していった。曲の間には、紙を読みながらではあるが、日本語で挨拶や曲の解説等を行っていたが、この姿勢は、他国の観衆に自身のメッセ−ジを伝えたいと言う、彼のプロ意識の現れとして十分評価できる。

 「朝起きて部屋が寒い、と文句を言う。味噌汁がしょっぱいと文句を言う。でも世の中には、それさえも天国だと思う人たちがいます。」という解説で始まったのは、ニュ−ヨ−クのホ−ムレスを歌った Another Day In Paradise、「この曲を作った後でネルソン・マンデラが釈放されました」と始まったのは、南アフリカの人種差別を歌った Colours 等々。途中、Easy Lover、Two Hearts、You Can’t Hurry Love 等のヒット・メドレ−をはさみ、7時に始まったコンサ−トが終了したのはもう10時に近かった。2回目のアンコ−ル曲である Take Me Home のリフレインが徐々に小さくなり、あがっていた垂れ幕が下りた後、ただ一人残ったフィル・コリンズが静かに去って行った時、私はかつて住んだイングランドの遅い春の訪れをそこに確かに見た。イギリスの長い重苦しい冬の中で育まれてきた重厚なブリティッシュ・ロックの良き伝統が間違いなく彼の音楽の中で開花しているのを感じたのであった。

(後記)

このツア−のライブ・アルバムは、「But Seriously Live」として発表され、映像版(当初はVHF、2003年にはDVD版も発売された)が続いた。私はまだ入手していないが、特に映像版は、この3時間にわたるこのツア−を略全編収録しているということである。こうした姿勢も、フィルのエンタ−テイナ−としてのサ−ビス精神を示している。とにかく器用で、まめな男である。