アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第三部:ドイツ音楽日誌 (1991−1998年)
アジザ・ムスタファ・ザデ−  Seventh Truth Tour
日時:1996年11月26日
場所:Alte Oper 
 音楽情報が欠如するフランクフルトの生活の中で、数少ない情報源は、日本より取り寄せている「ミュ−ジック・マガジン」を除けば、CDショップでの試聴であるが、このアゼルバイジャン生まれの女性ピアニスト/シンガ−の場合は、この試聴を通じて出会い、気に入った数少ないミュ−ジシャンの一人である。96年夏、彼女の新作「Seventh Truth」が発表された際、フランクフルトで最も充実したCDショップである、百貨店ヘルティ内のW0Mのジャズコ−ナ−に掲示されたこのジャケット写真のポスタ−が私の目をひいた。胸を両手で隠した上半身ヌ−ドのエキゾチックな美貌は、ジャズコ−ナ−に掲示されるには余りに違和感に満ちており、正直なところを言えば、私はそのポスタ−にひかれ試聴のヘッドフォンを耳にしたのである。まず飛び込んできたのは、ジャケット写真で気をひかせるまでもなく、しっかりしたタッチのピアノ、そして特徴のあるやや奇声にも近いボ−カルであった。これだけのポスタ−キャンペ−ンが行われているのであるから、ドイツではそこそこの知名度なのであろう、と考えたものの、その新作ソロ・アルバムを買うまでは踏み切れずにいたが、彼女の旧作に、Al Di Meola、Bill Evans、Stanley Clarkeらのサポ−ト・クレジットを見つけることになった。それではDi Meolaコレクションの一枚として揃えておこう、という気持ちで購入したのが、1995年発表の前作、「Dance of Fire」であった。Chick Coreaファミリ−のサポ−トにより、確かにこの作品は、Chick Corea Electric Bandを彷彿とさせるサウンドを作り出していたが、それでもどこか決定的にChick Coreaとは異なる世界を作っているのが気になった。残念ながらCD自体には何の説明もなかったことから、Azizaが旧ソ連のアゼルバイジャンの出身である、ということ以外は、彼女の音楽世界に入っていく契機を見つけることは出来ずじまいであった。

 そうこうしている内に、町の掲示板で彼女のコンサ−トのポスタ−を見かけることになった。直前まで仕事の不透明感から迷っていたものの、当日何とか行けそうな状況になったことから、急遽当日券でアルテ・オパ−のコンサ−トに参加することにした。先日1回限りのドイツ公演が行われたMariah Careyのように、前売りで完売というようなア−チストではなかったのは幸いであったが、それでも当日会場に到着すると、アルテオパ−の広い観客席は8割方埋まっており、私が知る以上にこの国での人気が高いことを感じさせた。
今回のコンサ−トは言うまでもなく新作ソロCD「Seventh Truth」のツア−であるが、この時点ではまだ私はそのソロCDをじっくり聞いてはおらず、その意味で、彼女のソロでの音楽自体への親しみを持っている訳ではなかった。私の中ではむしろ前作で植えつけられたサポ−トに対する期待(例えばDi Meolaが突然参加するのではないか、という期待。しかし考えてみれば彼はこの時期、10数年振りに再開したス−パ−ギタ−トリオのワ−ルド・ツア−の準備中でそれどころではなかった)の方が大きかった、というのが正直なところで、実際会場に入り、グランドピアノに若干のパ−カッションを配しただけのセッティングを目にした時には、果たしてこれからのコンサ−トを退屈しないで過ごせるだろうか、という懸念が頭をもたげたことを告白しておこう。こうした気持ちの中、午後8時の定刻、司会の「Princess of Jazz from Orient」という紹介を受けてこの日のコンサ−トが開始された。

 黒いノ−スリ−ブのロングドレスで登場したAzizaは、私のいる二階席から見てもなかなか妖艶な雰囲気を漂わせている。幾つかのジャケット写真を特徴付けている腰まであるウエ−ブのかかった黒髪。歩き方もどことなくモデル風である。しかし英語での簡単な挨拶を聞く限り、言葉はぎこちなく、むしろ線の細いシャイな女性という印象。まずはピアノに向かうとまずスロ−なタッチでのロ−ト−ン主体の曲からスタトした。後で分かったのであるが、これは最新作からの「I’m sad」(但し歌も入っていたのでメドレ−で他の曲も演奏されていたのだろう)。Keith Jarrettの「Vienna Concert」を思い起こさせるような、やや暗い、内面に籠る感情表現である。彼女の声は決して美声ではないが、それでも特徴のある広い音域には強い表現力がある。続けて2曲目は、「父に捧げる」という紹介で、私の購入した前作エンディングに収められているピアノ・ソロ「Father」。ジャズというよりもクラシックの小品といった趣きの美しい曲である。3曲目は「スパニッシュをやります」という紹介。私はただちにChick Coreaの「My Spanish Heart」を連想したが、実際にはChickの解釈よりも、よりアラブ色が出た、しかも力強いピアノ伴奏による作品で、彼がジャズサイドから、自分の出身地であるプエルトリコ/スペインに回帰していったのとは異なり、そもそものスペイン音楽の源泉であるアラブからジャズに近づいていったという感覚を抱かせるものであった。しかし、続いて演奏された4曲目は、明らかにスタンダ−ドなジャズ音階に基づく作品で、彼女がアメリカジャズの影響下で育ったことを意識させたのである。ピアノソロの5曲目から、再びアップテンポのジャズヘ。通常のボ−カルに加え、Ella Fitzgeraldが完成させたと言われるスキャットも、ピアノとのユニゾンで見事なアンサンブルに仕上げている。ジャズの影響を受けているという以上に、彼女が正規のジャズ教育を受けているのは疑いない。
 
 こうして1時間余り、ほとんど緊張感が途切れないまま演奏を続けた後、彼女はピアノから離れ、正面マイクの前に歩み出て、その横に置かれたパ−カッション2つを左脇に抱える形で「伝統的なアゼルバイジャンの曲を演奏します」と紹介する。脇に抱えた2つとテ−ブルに置かれた木魚風の小さなパ−カッションのみを伴奏に、確かにアラブ音階の民謡に近い作品を歌い上げる。こうしたエキゾチズムは、長くやられると退屈するのであるが、短時間であれば、それまでの演奏の緊張感が高かっただけに軽い息抜きになる。

 ピアノに戻り、スタンダ−ドの「My Funny Valentine」が8曲目として演奏される。オリジナル曲を全く自己流に解釈しての歌唱と演奏ではあったが、ベ−スとしてのジャズは残っている。続いてChick Corea風のスパニッシュ/アラブ・フレ−バ−のかかった、アップテンポのジャズ。そしてスキャット中心の、やはりAziza風に解釈し直された「Take Five」。ステ−ジ前に進み出て挨拶をした後、再びピアノに戻り、短いフレ−ズを早弾きして、とりあえずメインのコンサ−トは終了。歓声の残る中、アンコ−ルヘと移った。

 アンコ−ル1曲目は、この日私が彼女の作品で、唯一始めから認知することのできた「Dance of Fire」からの「Bana Bana Gel (Bad Girl)」。そしてLeon Russelの「Song for You」を思い起こさせるポップ・ブル−ス・ナンバ−。最後に「子守歌をやります」という紹介が、皮肉にしか聞こえないような、短いながら追力のあるハ−ドなピアノ・ソロ。そしてパ−カッションによる小品で締めくくり、最終的にこの日のコンサ−トが終了した。終演は10時丁度。ピアノとパ−カッションのみのソロ公演で、休憩なしの13曲、2時間。全く退届せずに時間は過ぎていった。

 この日のコンサ−トで私がまず強く印象付けられたのは、彼女のやや内気そうな雰囲気からは想像も出来ないくらい力強いピアノのタッチであったが、しかしそれ以上にジャズ、クラシックそしてアラブが見事に融合した彼女の音楽が、いったいいかなる過程を経て形成されてきたのか、という興味が私を捉えて放さなかった。その週末、それまで躊躇していた彼女のソロ作を購入するのにためらいはなかった。同時に前作CDのクレジットに「Artist Contact」として記載されていた人物に電話しようと思い立ったのである。

 フランクフルトのあるヘッセン州の隣に位置する、ラインランド・ファルツ州の州都マインツ。中世に、神聖ロ−マ帝国皇帝を決める7人の選定候の最上格に位置していたドイツ・カトリック司教の本拠であるド−ムを有するこの旧都のあるホテルが、このジャズピアニスト/シンガ−の連絡先である。Ludwig Jantzerなる人物に電話をする。通常のホテルの事務部門という雰囲気が感じられる中、当人が電話口に現れる。

 「フランクフルト在住の日本人であるが、是非Azizaの情報をもらいたく電話をした。」そして先のコンサ−トを聞いたこと、CDのクレジットを見て電話をしたことを話した後、彼女がほとんど日本では知られていないことを説明した。

 「そんなことはない。彼女は(日本の会社である)ソニ−ミュ−ジックの所属であり、日本でも彼女のCDは、数千枚は売れているよ。」もしかしたら、私の日本でのジャズ情報が少ないだけかもしれない、と思いつつ、続けて彼に「あなたはAzizaのファンクラブの代表なのですか。」と質問すると「私は彼女のマネジャ−だ。」との返事。ホテルの一スタッフがマネジャ−というのもややおかしい気もするが、いずれにしろ情報を捜して送ってくれることを約してくれたのである。

 こうして数日後、今回のCDのキャンペ−ン用と思われるドイツ語パンフレットとその英語訳が送付されてきた。以下そのパンフレットの情報を簡単に紹介しよう。

 彼女の出身地は、カスピ海に面したアゼルバイジャンの首都バク−。カスピ海油田で採掘された石油を原料とする、旧ソ連内では有数の石油精製・石油化学の中心地である。父親のVagifはジャズピアニスト、母親のElizaは歌手という環境で育ち、バク−音楽院でクラシックの教育を受ける。しかし理由は不明ながら、彼女は1991年にマインツに移住し、その直後に初のソロアルバムである「Aziza Mustafa Zadeh」がリリ−スされる。最も興味深い、この間の彼女のキャリアと、この1991年のデビュ−に至る経緯については残念ながらこのパンフレットでは何も触れられていない。あるいは最も音楽的な影響を受けた父親が1979年に「悲劇的」な死を遂げた、というのも、彼女の移住の伏線になっているのかもしれない。1993年にはChick CoreaファミリといえるJ.PatitucciとD.Wecklをリズム・セクションに迎え、ピアノ・トリオでの第2作「Always」を発表し世界から認知され、更に1995年にはDi Meolaらのサポ−トを得て前述の「Dance of Fire」を送り出すことになる。父親の死後、母親のElizaが人間的にも、音楽的にもAzizaをサポ−トしており、この母親は新作CDでは初めてCo Producerも務めているという。そしてこの新作CDでは、Azizaはより個人的な世界に踏み込み、ジャズピアノとバッハ的な合唱スタイルとアゼルバイジャン民謡のバイブレションの融合を試みたり、インド出身のパ−カッショニストのサポ−トを得ると共に、コンサ−トでも聴かせたように、彼女自身もパ−カッションを初めて演奏したという。特にこの新作においては、録音スタジオ入りしてからの即興が重要な役割を果たしており、例えばこのCD中の「Desparation」の歌詞はピアノ部分のレコ−ディングが終了した時点ではまだ出来上がっておらず、また「Aj Dilber」の4声のバロック・コ−ラスはインド人パ−カッショニストのサポ−ト部分と同様、レコ−ディング時のアドリブであった。アルバムの最後の「Sea Monster」ではピアノにオ−バ−ダブされた波の音の合間から’please,please’という呟きが聞こえる。Azizaは言う。「それは私です。」アルバムタイトルが示す様に、これは’地球のどこにも見つけることのできない’真実の形を求める旅であり、この中で既に彼女は’オリエントのジャズ・クイ−ン’から’海の妖精’に変貌したのである。Take a look at the album cover..昨年のアルバムでサポ−トしたDi Meolaは彼女をこう評したという。「Azizaはシンガーとしてのみならず、作曲家としても素晴らしい。」

 このパンフレットでも繰り返し触れられているように彼女の音楽は、クラシックの素養とジャズヘの愛着、そして伝統的なアゼルバイジャン音楽と歌唱への嗜好の混淆である。しかしこの商業宣伝が主目的のパンフレットで触れられていないのは、そして私が最も不思議に思うのは、彼女のジャズヘの傾倒が形成されてきた過程である。クラシックの素養は、旧社会主義ソ連では珍しくはなく、アゼルバイジャン音楽の影響は彼女にとっては全く自然である。しかしジャズの影響は何故なのか。それはジャズ・ピアニストであった父親の影響と説明されているが、その父親は、旧社会主義ロシアでは偏狭に位置する中央アジアの共和国でいかなるジャズを演奏していたのか。あるいは私が知らないだけで、この中央アジアの旧都はロシアにおけるアメリカン・ジャズのメッカであったのか。コンサ−トの際に私が感じたのは、彼女のジャズ感覚は、米国生活の中で、感覚的に受容されてきたに違いないという確信であった。しかし、このパンフレットを読む限り、1991年のマインツヘの移住前に米国に長く滞在したという説明はない。バク−での音楽活動の中だけでこれだけの感覚が形成されてきたとすれば、それはまさに驚異的である。

 こうしてこの日のコンサ−トは、私に更なる将来への楽しみを与えてくれた。ひとつは、言うまでもなく彼女の将来の音楽的展開と、より詳細な彼女の個人デ−タヘの興味である。そしてそれに加え、そもそも私が政治的、歴史的、文化的に関心を抱いてきた旧ソ連(特にその辺境部)でのジャズの浸透という、一人のジャズ・ミュ−ジシャンを越えた文化論的な広がりを持つ全く新しいテ−マである。マインツのマネ−ジャ−との再度の接触を含め、今後このテ−マを追いかけてみることにより、場合によってはスタ−リンにより壊滅させられた1920年代ロシアの文化的アバンギャルドが、戦争と粛正の時代を密かに生き延びたことを検証できるかもしれない、と考えるのは余りに大袈裟に聞こえるであろうか。