アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第三部:ドイツ音楽日誌 (1991−1998年)
ザ・コア−ズ   Talk On Corners Tour 1998
日時:1998年5月27日
場所:Hugenottenhalle 
 アイルランド出身の兄弟バンド、コア−ズ。兄弟バンドというと昔から、「牛も知ってる」Cowsils(これを知っている人は60年代ポップスの相当なファン)、ミ−ハ−M.ジャクソンを生んだJacsonsとそれを真似た日本のフィンガ−5、最近ではアメリカの10代兄弟バンドHanson等が思い出されるが、このコア−ズはサウンド的にはビ−チボ−イズのBrian Wilsonの娘姉妹とママス・アンド・パパスのJohn & Michelle Phillipsの娘で結成されたコ−ラスグル−プ Wilson Phillipsに近いハ−モニ−を持つ兄弟バンドである。Wilson Phillipsは、まさに自分たちの親たちが作り出したアメリカ西海岸の透明なコ−ラスを、女性3人でそのまま現代的なボップ感覚に作り変えたのであったが、このコア−ズの場合も、3人娘によるウエストコ−スト的コ−ラスが心地好いグル−プである。おそらくは両者とも、幼少時より気心が知れた家族(あるいはそれに近い友人)とコ−ラスを楽しんでおり、そうした感覚の共有がそのまま録音に表れているのであろう。しかし、コア−ズの場合はそれに、出身地であるアイルランドのトラッドと自らの演奏が加わることになる。その結果、確かにWilson Phillipsのミリオンセラ−となったファ−スト・アルバムの出来は新鮮であったが、セカンドになると、個々の曲は決して悪くなっている訳ではないものの既に単調さが耳につき、結局グル−プも分裂してしまったのに対し、コア−ズは、少なくとも2枚の作品を開いた限りではまだまだ新鮮さを失っていない。これは間違いなく彼女たちの根底にあるアイルランド民謡の世界が、単純な米ウエストコス−トのポップスよりも奥深いものを持っているからなのだろう。女性中心のコ−ラス・グル−プのみならず、アイリッシュ・ミュ−ジックについては、所有CDの枚数はあるものの、コンサ−トについては私も過去に経験がないこともあり、ややミ−ハ−的ではあるもののたまにはヒットチャ−トを賑わしているグル−プを気楽に聴くのも良いだろう、ということで彼女たちのフランクフルト公演に出かけていった。

 初夏のNeu Isenberg Hugenottenhalle。ここを訪れるのはレポ−トを書いていない1994年のPretenders以来約4年振りである。その時にも感じたとおり、狭い学園祭コンサ−ト風のホ−ルは、立ち見のみとはいえ、私の好みの会場である。Pretendersの時もそうであったが、旬の人気バンドである割には客の入りは少なく、さほど群衆にまみれ疲労することもなさそうである。

 8時丁度に、前座が登場。ダブリン出身のPicture Houseなる男性5人組で、ギタ−2本、ベ−ス、キ−ボ−ド、ドラムの通常の編成で、若干フォ−クがかったミディアム・テンポのロックを演奏する。中程で歌われた’Fear For Flying’なる曲だけは若干記憶に残ったものの、それ以外はほとんど何の特徴もない演奏で、終了間近、自分たちの’Shine Box’なるCD(DM15)を是非買って頂戴、とドイツ語で懇請していたことだけが印象に残った。昔、同じような編成のHot house FlowersのCDを(取り合えず、安売りCDではあったが)、アイルランド出身バンドということだけで買って失敗したことがあったが、この前座バンドも同様で、演奏自体の面白味はない。この前座が8時45分に終了。セッティングのため30分の休憩が入り、苛々しながら待った末、9時15分を過ぎてようやくお目当てのコア−ズが登場した。

 セカンド・アルバムのスロ−な@でスタ−ト。簡単なセッティングから予想したとおり、正面フロントは向かって左から、バイオリンのSharon、ボ−カルのAndrea、そしてギタ−/キ−ボ−ドのJimの3兄弟。更に末娘のCarolineが中央後方一段上のドラムに付き、その左右にサポ−トのギタ−とベ−スが位置するという編成である。ステ−ジに向かって右側から見ている私からは、べ−スの姿は右側のアンプに隠れて目には入らないので、勢い視線はAndrea、Sharon、Carolineの三姉妹に向かうことになる。

 Andreaはファ−スト・アルバムの裏ジャケットと似た黒のキャミソ−ル風のワンピ−ス。Sharonは黒のノ−スリ−ブシャツに明るいグレ−のパンタロン。ドラムのCarolineも黒のキャミソ−ルシャツに黒のズボン。中心の女性3姉妹が全員黒を基調にした地味なスタイルであるが、当初思っていた以上に色っぼく、これは明らかにアイドル路線。個人的には決して否定的要素ではない。レコ−ドよりも音量を上げているが、愛くるしいAndreaのボ−カルは決して楽器に負けてはいない。気になるのは緊張した顔付きで必死についていっているという感じの、ややドタドタ系のCarolineのドラムである。力がない分、動作がやや大きく、時折リズムを乱している感じがする。何となく日本のアイドル系森高のドラムもこんな感じなのかな、とふと思ってしまったが、森高と同様ルックスで許してしまおう。

 さて、いつものように、当日の演奏曲目を書く。2枚しかアルバムがなく、且つ多くがたわいもない恋の歌であるので、曲は特定し易い。

<演奏曲目>
@ When He’s Not Around ( Talk On Corners, 1997)
A No Good For Me ( Talk On Corners, 1997)
B Love To Love You (Forgiven Not Forgotten, 1995)
C Erin Shore ( Traditional Intro ) (Forgiven Not Forgotten, 1995)
D Forgiven Not Forgotten (Forgiven Not Forgotten, 1995)
E Paddy McCarthy ( Talk On Corners, 1997)
F Intimacy ( Talk On Corners, 1997)
G What Can I Do ( Talk On Corners, 1997)
H The Right Time (Forgiven Not Forgotten, 1995)
I Queen Of Hollywood ( Talk On Corners, 1997)
J Dreams (Fleetwood Mac Rumours Tribute, 1998)
K The Minstrel Boy Carraroe Jig (Forgiven Not Forgotten, 1995)
L Runawy (Forgiven Not Forgotten, 1995)
M Only When I Sleep ( Talk On Corners, 1997)
N Hopelessly Addicted ( Talk On Corners, 1997)
O I Never Loved You Anyway ( Talk On Corners, 1997)
P Encore : So Young ( Talk On Corners, 1997)
Q Toss The Feathers (Forgiven Not Forgotten, 1995)

 まずは、このバンドのアイドル路線の中心であるボ−カルのAndreaに視線が行ってしまうのはしょうがないだろう。開始から数曲後、ステ−ジ右最前列に潜り込み間近で見てみると、結構小柄でスタイルも今一であるが、歌いながら足を交差させたり、両手を組んで頭の上に挙げてから緩やかに広げて下ろしてくるような細かい動作に、意識的な媚が感じられて、それはそれで楽しめる。バイオリンのSharonのほうが、大柄でスタイルも良いが、そうした媚はなく、やはりこのバンドの音楽的中核を担っているという感じである。そしてこの3姉妹の影でやや存在感の薄いJimは、時析控えめにコラ−スに参加する以外は、無表情のままアコ−スティック/エレキ・ギタ−とキ−ボ−ドでサポ−トしている。

 しかし演奏面では、このバンドが単なるアイドルバンドではないことが次第に示されていった。既に@のサビで、Sharonのバイオリンに、AndreaのTin Whistleがユニゾンで絡み、私好みのアイリッシュサウンドの片鱗が表れていた。CDでAndreaの担当としてクレジットされていたTin Whistleは、ほとんど15センチあるかないかの細い金属性立て笛であるが、その高い音色がバイオリンの高音部とよくマッチし、早いフレ−ジングで躍動感を盛り上げる。そしてこれはその後、特にインストルメンタル・ナンバ−で繰り返し披露されることになる。

 ABと新旧作品を続けた後、ファ−スト・アルバム・オ−プニングの、いかにもアイリッシュといったバイオリンソロのCからタイトルソングのDヘ。Eはセカンドに収められているミディアム・テンポのインストルメンタル。更にバラ−ドのF、ちょっとコミカルなG、アップテンポのHとセカンドからのIと、それぞれシングルとしても十分ヒット性を持った曲が続く。

 ’Fleetwood Mac のカバ−をやります’と紹介されて始まったのがJ。言うまでもなく70年代のミリオンセラ−で、当時1年以上にわたり英国アルバムチャ−トのNo1を独走した’Rumours’からのシングルヒットである。最近はやりの所謂「トリビュ−ト・アルバム」は、J.Hendrixにしろ、J.Joplin、Doors、Yesにしろ、彼らの多くのアルバムから代表曲をピックアップし、それを若手バンドが自らの解釈で演奏する、というスタイルを取っているが、この’Fleetwood Mac Tribute’は’Rumours’というアルバム収録曲のみを若手バンドが再演した初の試みである。このアルバムの中でコア−ズが担当したのがこのJで、奇しくも、このコンサ−ト直後の週末を過ごしたロ−マのホテルで見ていたイタリア版音楽専門TVで、このコア−ズによる’Dreams’のビデオに接することになった。オリジナル・バ−ジョンは、それこそS.Nicksが、その妖艶なルックスと鼻にかかったボ−カルを挺子にチャ−トNo.1に送り込んだのであるが、コア−ズのカバ−は演奏をもう少しハ−ドにして、同時に可愛らしさを残した仕上げになったのであった。

 ステ−ジは一転し、Sharonのバイオリン・ソロのKに移る。音楽的に、このバンドが彼女に支えられているのはここまで聴いてきて明らかである。このバンドのポップなメロディ−は、彼女のバイオリンのサビが入ることで、Wilson Philipsの単調さが消え、これぞアイリッシュという哀愁が加わることになる。このソロも演奏自体のテクニックはそれ程でもないが、ポップスに飽きた観客に、彼らがこのバンドに期待しているトラッドの世界を浮遊させてくれる。そのままJimのキ−ボ−ドとのデュオを経て、全員でのインストルメンタルに移行。ここでの特記事項はCarolineによるBadhramというアコ−スティック太鼓。これもアルバムでクレジットされていた楽器であるが、右手を太鼓の奥に入れて支え、この手の位置で音質の調整ができるようになっている。ドラムに付いている時はモニタ−のヘッドフォンに集中している様子で終始緊張気味だったCarolineも、ステ−ジ正面に並んでこの太鼓を叩いている時は、表情に明るさを取り戻したのが印象的であった。Sharonのバイオリンによるメインのメロディ−にAndreaのTin Whistleがユニゾンで披さる、典型的なアップテンポのお祭り音楽である。更にLMNと再びアイドル系の曲が続き、そして最後は現在シングルヒット中のO。いったんステ−ジ裏に引き上げた後、アンコ−ルで登場し、まずヒット系のP、そして最後は再びファ−ストからのインストルメンタルのQ。70年代、S.Dennyをフロント・シンガ−に有したFairport Conventionが、当時としては全く斬新なロックとトラッドを融合させる試みの中で表現し、学生時代の私に大きな驚きをもたらしてくれたが、その時の記憶が蘇る作品である。ヘビ−なリズムの中にも陽気なアイリッシュ魂を失わないような演奏。Fairportのその試みには、むくつけき男たちの気難しい演奏と、お世辞にも美女とは言えないS.Dennyの田舎っぼいボ−カルに、純粋音楽的興味から引き付けられたが、このバンドではそれがアイドル系のビジュアリティと結びついたのである。学生時代の片意地もなくなった今、こうしたミ−ハ−を私は抵抗なく受け入れることができる。

 こうしてコンサ−トが終了したのは10時45分。コア−ズの演奏としては1時間半と短かったが、2枚のアルバムしか発表していないバンドのコンサ−トとしてはしょうがないだろう。しかしこの日のコンサ−トでは、そうした時間的短さは決して不満の種となることはなかった。むしろ、私がこのバンドに期待していたもの−見てくれ、ポップ感覚、そしてアイリッシュ・フレバ−の全てを満足させてくれたと言える。そしてそうした感覚は、私のみならず、日本人一般に結構受けるものなのではないだろうか。先日ロンドンであった昔からの知り合いの日本人の息子が、コア−ズと聞いて、幼少時から英国の教育を受けている彼は、日本語を話しはするが、感覚は英国人であろうが「あのバンドは日本で売れたらしいですよ」と少し馬鹿にしたような口調で言っていたのが思い出される。北アイルランド問題に象徴されるように、英国人はアイルランドに対しやや斜に構えた見方をする。他方日本人は北アイルランド問題を理解することができなくても、アイルランド音楽に対しては受容力がある。現在日本で公開されているケルト美術展にゲスト出演したケルト・トラッドの大御所アルタンのコンサ−トが発売初日に完売し追加公演が決まった、との新聞記事を最近読んだばかりだが、より純粋なトラッドに近いアルタンでさえそうなのだから、ましてやミ−ハ−要素も併せ持つこのバンドが日本人受けするのは間違いない。しかし、限られた聴衆を前にしたコンサ−トに参加した者の常として、彼女たちが日本で余りに安易にミ−ハ−人気が出ないことも密かに願っているのである。