アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第三部:ドイツ音楽日誌 (1991−1998年)
カンサス  In The Spirit of Dust In The Wind Tour
日時:1994年12月15日
場所:Volksbildungscheim 
 KANSASのあの名作、「Leftoverture」を始めてF/Mラジオで耳にしたのは大学時代の始め頃だったろうか。それまでは、アメリカの音楽は、シンプルなロックンロ−ル又はウエストコ−ストの楽天的なものが中心で、所謂プログレは英国の独壇場という雰囲気が漂っていた時だった。米国プログレというキャッチフレ−ズでStyx等と共に登場したKANSASは、バイオリンをフュチャ−しているものの、それ以前に同じバイオリンをフュチャ−したFlock等と異なり、ジャズ的なアプロ−チではなく、よりロックンロ−ル的且つメロディ−ラインのしっかりしたバンドとして、私の趣味にぴったりとフィットした。このアルバムから始まり、初期のアルバムに遡ると共に、その後も新作がでるたびに買い集めていった。1979年に発表された2枚組ライブアルバム「Two For The Show」は、1978年8月テキサス、エルパソでのKANSASコンサ−トの帰途、交通事故で失明した14歳の少年に捧げられた。その少年「ジョンにとってKANSASが最後の視覚体験となった」というノ−トが、オ−プンエア−でのジャケットの演奏写真ともあいまって、当時の私の記憶に、このバンドのイメ−ジを植えつけたのだった。しかし、その後のロンドン時代を通じ、相変わらず彼らの新作を追い続けたものの、メンバ−の脱退が続く中、次第にバンドのエネルギーは枯渇していった。80年代は、既にこのバンドは創造力を喪失してしまったかのようであった。しかし、それにもかかわらず、彼らの最盛期の3枚のアルバム「Leftoverture」「Point Of No Return」「Monolith」は私のフェイバリットアルバムであり続けた。

 その後、日本に帰り、テレビで彼らの「Dust In The Wind」がコマ−シャルに使われているのを耳にした。30代半ばを過ぎ、そろそろ私の世代がテレビでも一人立ちし始めたのか、というのがその時の感慨で、特にこのアコ−スティックの名曲がコマ−シャルに使われることには何らの違和感もなかった。しかし同時に、何人が、この穏やかな曲から、実際のKANSASのアルバムの多くを占めていた、変拍子と刻々と展開するテ−マに満ちたこのバンドの世界を想像できるのだろうか、という密かな優越感も禁じえなかったのである。

 またこの時期に発表された新作「In The Spirit Of Things」は、個々の曲の完成度とアルバムとしてのまとまりは長い沈滞期を全く感じさせないものであったが、かつての最盛期を飾った変拍子と壮大な構成はなくなっていた。そして最近では、フランクフルトで、旧作中心にまとめられたライブアルバム「Live at the Whisky」を購入した。これを手にした時、これは昔の録音の再発なのではないか、と錯覚したほどこのバンドの現実感はもはやなくなっていた。そして、この過去になってしまったバンドをここフランクフルトで見ることになろうとは全く予想もしていなかったのであった。しかし、それは事実となった。ドイツの暗い冬が、クリスマスの喧騒と混じりあう12月のある日、始めてこのバンドの音楽を聞いてから17、8年の歳月を経た後、私は初めて、あの少年が、事故で視力を失う直前に見た光景に接することができたのであった。

 会場のFrankfurt Volksbildungscheimは、町の中心に聳える中世の物見の塔であるEscherheimer Turmに向かい合う交差点にある、演劇劇場やバ−、レストランの入った雑居ビルにある。おおよその位置は、ドイツ人に聞いていたものの、入口がどこにあるかも分からないまま、開演時間の8時、いつものように、日本食の弁当を会社で流し込んでから会場に到着した。

 コンサ−トに向かっていると見られる人々に従いながら、交差点に面した狭い入口を通って中に入ると、小さな体育館といった感じのホ−ルは既に多くの観客で溢れている。前売り33マルクという値段から予想されたとおり立ち見のコンサ−トであるが、この過去のバンドにこれほどの人が集まっているのは全く意外であった。先日見たPretendersのコンサ−トでは、新作アルバムがそれなりに評価されているにもかかわらず、この日よりも狭いホ−ルががらがらだったのと大きな違いである。観客は、アメリカ人かというとそうでもない。このバンドはドイツでは特別な受け止められ方をしたのだろうか、と考えながら、ス−ツ姿に若干の違和感を持ちながら、ステ−ジに向かって左側の窓の横に位置を定めた。

 前座である、元Totoのボ−カリストであるBobby Kimballに率いられたバンドの退屈な演奏(Toto時代の曲で「Africa」など聞いたことのあるメロディ−も出てきたが、私はTotoの熱心なリスナ−ではなかった)の後、9時を少し回ったところでKansasのステ−ジが開始された。まず例の通り、気がつく限りでノ−トした当日の演奏曲目を記しておこう。

@0verture:Lampside Suite
APoint 0f Know Return
BSong For America
C0pus lnsert
DENew Album
FWall
GHold 0n
HWhat’s 0n My Mind
IDust ln The Wind
J0n The 0ther Side
KNew Album
LCarry 0n Wayword Son
Mアンコ−ル:Icarus‐Borne 0n Wings 0f Steel

 ラジオ、車のクラクションにうがいの音が交錯する効果音の中、Kansasのメンバーが登場する。メンバ−は、おそらく前記の再録物と私が誤解した「Live at the Whisky」と同じと思われるので、ステ−ジに向かって右から、べ−スのBilly Greer、バイオリンのDavid Ragsdale、ドラムのPhil Ehart、ギタ−のRichard Williams、キ−ボ−ドのGreg Robert、そして中央にボ−カルのSteve Walshを配した編成である。言うまでもなく、Steve、Richard、Philの3人がオリジナルメンバ−である。最新ライブアルバムと同様に、まずは初期の作品の一部を繋ぎ合わせたインストルメンタルでのオ−プニングである。Steveはかつてのライブアルバムの写真と同様、インストルメンタルでの演奏時は、ステ−ジ右奥にセットされたキ−ボ−ドに張り付いている。残念ながら、私の位置からは右端のGregは全く見ることが出来ない。更にフランケンシュタインのように背の高いドイツ男が私の眼前に突っ立っていることも視界を狭くしているが、外国での立ち見の際はこれも己むを得ない。

 前奏曲から、すでに新規加入のバイオリニストであるDavidの存在感が際立っている。ブロンドがかったストレ−トな長髪に、赤のハ−フコ−トという衣装が、女のような印象を与えているが、それ以上にはっきりと聞こえるメロディ−ラインで演奏全体を引っ張っている。Aが開始されると、この傾向がより鮮明になる。Steveのボ−カルは、このバンドの数ある個性の中でも好きな部分であり、昔見つけた、おそらく日本でこんなアルバムなど買った人間などいないのではないか、と思われる程ひっそりと出た彼のソロアルバムでさえ、私はずいぷん聞き込んだものだった。最盛期のアルバムのこのタイトル曲が、私にとってはこのSteveのボ−カルに生で接する初めての機会となったが、PAが悪く、最初声が全く通らない、という状態であった。かわりにサビでのDavidのバイオリンが、オリジナルメンバ−であったRobby Steinhardt以上に鮮明なソロを聞かせる。続いて初期のシンフォニックロックの名作であるB。展開は最新ライブアルバムとほぼ同じで、全盛期の作品中心の演奏である。Cも「Leftoverture」Bサイドのオ−プニング、今まで発表された2枚のライブには含まれていない曲である。「近々発表予定のニュ−アルバムからの曲だ」として演奏されたのがDEであるが、これは残念ながら全く印象に残っていない。

 ここでDavidがギタ−に持ち替え、Fが演奏される。バイオリンをフュ−チャ−した曲は紛れもないプログレであるが、ツインギタ−になったとたんに曲想が全く変わってしまうのは不思議である。それまではアップテンボの曲の間奏でやや生彩のないフレ−ジングをきかせていたRichardのギタ−も、Kansasが得意とするこの重々しいスロ−バラ−ドの中でやや蘇ってくる。ギタ−によるユニゾンでこの曲が盛り上がり終息すると、続いてDavidがアコ−スティックに持ち替えGが、そして再びエレクトリックのツインギタ−となり、ややアップテンポのHヘと移っていく。そしてアコ−スティック2台での名曲I、更に工レクトリック2台でFと同様の雰囲気のJと、このあたりは、ギタ−バンドとしての聞かせどころである。

 新作からのKを挟んだ後、ついにあの名曲のLが演奏される。コ−ラスによるイントロから重々しいツインギタ−が被さり、キ−ボ−ドの伴奏による静かなテ−マからまたツインギタ−の交錯へと、テ−マは目まぐるしく展開する。ギタ−とキ−ボ−トのソロが交錯するサビでは、変則リズムに思うように付いていかないRichardの指がややまだるっこしかったが、それでも感動的なエンディングである。更にアンコ−ルでは再びDavidがバイオリンに持ち替えMが演奏されるが、この曲も、1979年のライブアルバムに収められている、初期Kansasの典型的な変則ビ−トと複数のテ−マを展開させるプログレ曲である。

 結局この日のコンサ−トを振り返って見ると、前半はバイオリンをフュ−チャ−したプログレ・パ−ト、後半はツインギタ−のロックンロ−ルという構成で、最後に再びバイオリンを登場させるという展開であったことが分かる。そして、この2つで、音楽の質が大きく変わってくるのが面白い。そして考えて見れば、初期のKansasではギタ−とキ−ボ−ドをかわるがわる演奏したKerry Livgren(最新ライブアルバムにはゲストとして登場している)が、まさにこうした曲想の変化を担う役割を持っていたと思えてくる。その意味では初期のKansasを特徴付けていたのは、単にバイオリンを前面に出した、というこということだけではなく、こうした器用な人間が、バンドの音楽のスタイルをより広げていたことにあったと思われてくる。Kerryの脱退後、バンドの音楽が急速に退屈なものになっていったことが、それを物語っている。そして、最近の2枚のスタジオ録音が、曲としての完成度の割に印象が薄いのもそこに原因があったのである。今回Davidという新たな才能を得てKansasはようやく蘇ることができたのである。しかし、最新ライブアルバムと同様、最新2作のスタジオ録音を含めて、1980年代半ば以降の作品は一切やらない、というのもやや寂しいものがある。ドラムのPhilがかつてと変わらない雰囲気を漂わせているのに対し、見るも無残に太ってしまったRichardと、かつての精悍さを全く失い、やや薄汚いチンピラ兄さんの外観になってしまったSteveの姿の中に時の流れを感じながらも、この日印象に残らなかった次作のスタジオ録音で、彼らはDavidのバイオリンとギタ−をどう使いこなすのだろうか、という興味のみが残ったコンサ−トであった。