アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−2020年)
Deep Purple Live in Singapore
日時:2010年5月12日                                   会場:Indoor Stadium 
 何とシンガポールでこのバンドのライブに足を運ぶことになろうとは、とても予想していなかった。

 この英国のロック・バンドが、「Hush」でデビューしたのが、1968年。当時この曲が、米国ヒットチャートであるビルボードのトップ10内に上昇し、続けて発表したアルバムが、当時勢いを増していた「アート・ロック」のフォロアーとして、米国を中心に、それなりの人気を獲得することになる。個人的には、2枚目のアルバムである「Book of Taliesyn」(1969年)を、当時なけなしの小使いで購入し、続けて、デビューアルバムを友人から何らかの理由で譲り受けることになった。当初のマーケットでの評価は、この2作のアルバムで、カバー曲が多かったこともあり、同じようにカバー曲を斬新なアレンジで演奏するVanilla Fudgeの2番煎じと呼ばれていたが、個人的には、Vanilla Fudgeよりもアップテンポの作品が多かったため、このバンドをより好んで聴いていたのである。

 しかし、3作目を発表し、キーボードのJ.ロードのリーダーシップで、英国ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの競演アルバムを発表した後、彼らは、メンバー交替を行う。ボーカルのR.エバンスとベースのN.シンパーが、力不足を理由に解雇され、後任ボーカルに、当時ロンドンのミュージカル・シーンを中心に活動していたI.ギランと、ベースにR.グローバーが迎えられ、再編第一弾として1970年、「In Rock」が発表される。これが、まさにこのバンドの、所謂「ハードロック」バンドへの転換を高らかに歌い上げる作品となり、そして間に「Fireball」(1971年)を挟んで発表された「Machine Head」(1972年)の成功により、ハードロックのスター・バンドとしてブレークすることになるのである。その後、1974年に今度はI.ギランとR.グローバーが脱退し、替わりにD.カバーデイルとG.ヒューズが参加した第3期、続けてR.ブラックモアが抜け、T.ボーリンが参加した第4期(彼は、その後まもなくドラッグ中毒で死亡する)を経て、再び、1984年に第二期のメンバーで再結成される。

 その間、抜けたメンバーも、第一期では、R.エバンスが「Captain Beyond」、N.シンパーが「Warhorse」に参加し傑作アルバムを残した外、I.ギランは再結成までは自身のバンドである「Ian Gillan Band」で、R.ブラックモアは「Rainbow」で活躍し、そしてD.カバーデイルは、「Whitesnake」で新たな英国ハードロック・バンドの流れを作ると共に、90年代に入ると短期間ではあるが、Led Zeppelin解散後のJ.ページとの競演等も行うことになる(「Coverdale・Page」)。

 このバンドのライブ体験は、まず「Machine Head」でブレークした後、初来日した武道館公演に行ったのを記憶しているが、これが何時のことであったかは正確に記憶していない。当時のライブで常にやっていたとおり、小さなカセット録音機を持ち込み、そのライブを録音し、しばらく後生大事に聴いていた記憶がある。しかし、その時期のライブは、その後「Live in Japan」というベストセラー・アルバムとなり公式発表されたので、それ以降はそのテープを聴くモチベーションはなくなったものである。そして、その後は、ロンドン時代に「Whitesnake」の1983年のライブに参加したが、これはロンドン音楽日記に記載したとおり、長髪の若者に混じり、やや違和感を抱くことになったのである。

 1990年代後半になると、全盛期のライブを撮影したモノクロ映像のDVDや、第三期の「California Jam」、そして、その他再結成後のライブ映像等が数多発表されることになったこともあり、個人的には、もはやこうしたタイプのバンドのライブに足を運ぶということはなくなり、むしろこうした映像を自宅で時折眺めるのが、彼らとの接点になった。それでも、かつて若き頃のエネルギーをぶつけた映像や音源に接するのは、大きな気分転換になったことは確かである。実際、ここシンガポールに来てからも、時折散策するCDショップで、彼らのリミックス版などが安売りされているのを見つけると、喜んで買ってきて聴いている。

 ところが、このバンドが、まさにここシンガポールでライブを行うということになった。既にメンバーの多くが還暦に近くなっている(あるいは既に迎えている?)こともあり、力の衰えは隠せないだろうという想いを抱きながらも、会場であるインドア・スタジアムに出かけていったのである。

 行きがてら友人たちと、今回の公演は、アジアでの休暇を兼ねた気楽なツアーなのだろう、等と話していたが、コンサート終了後に見かけたこのツアーのTシャツには、欧州を含めた結構多くの公演地が記載されていた。終了後、彼らのオフィシャル・サイトを覗くと、何とこのツアーは、7月までの前半が、アジアはシンガポール、マレーシア、韓国から始まり、ロシア、南アフリカ、東欧、北欧を経て7月中旬のポルトガル、スペインまで、そして10月から12月の後半が、再びチェコ、ポーランドから始まりフランス、ドイツ各地を転々とし、最後にフランスのリールで終了するまで50回以上に渡る大ツアーであった。本国英国とアメリカ、そしてアジアでは日本が入っていないことの意味は不明であるが、少なくとも今回の公演が、一時的なものとして計画されただけではないのは明らかである。

 インドア・スタジアムでのイベントに参加するのは、こちらに来てから初めてである。昨年始め、元Chicagoのベーシスト/ボーカルであるP.セテラのソロ・コンサートがここで開催される予定でありチケットを取っていたものの、直前に(恐らくは客が集まらなかったのであろう)キャンセルされたことは、別の場所で書いたが、今回ようやくこの会場の中に入ることになった。今回のチケット購入は、当初どうしようか迷い、ややアクションが遅れたことから、S$111と、2番目に高い席であるが、ステージを左側に臨む、横の位置である。但し日本の武道館などに比べると、会場がそれほど広くないことから、ステージまではそれほど離れていない。しかし、演奏が始まってすぐ気がついたのであるが、ステージ左右の上方に釣られたスピーカーが邪魔をして、キーボードがほとんど見えず、またドラムも丁度シンバルの影に入ってしまうという、やや不満の残る位置であった。

 今回のメンバーは、オリジナル・メンバーが、ドラムのI.ペイス、第二期からボーカルのI.ギランとベースのR.グローバー、そしてギターが、90年代から行動を共にしている元カンサスのS.モース、そしてキーボードが、セッション・ミュージシャンのD.アイリー。特にD.アイリーは久々に聞く名前であるが、80年代に、英国の名ドラマー、J.ハイズマンが結成したColosseumUで、ギタリストのG.ムーアと激しいバトルを演じたキーボード・プレーヤーであるだけに、懐かしい想いである(因みに、コンサート後、アマゾンで彼らの最近の新作を眺めてみたが、D.アイリーは、2003年発表の「Bananas」あたりから参加しているようである)。世代的には、S.モースだけ一世代若いと思われるが、他の4人は間違いなく還暦前後のおじさんバンドである。

 開演の8時丁度に席に着くと、10分ほどして、会場が暗転、この日のコンサートが始まった。第二期メンバーでの再結成以降は、80年代にロンドンで購入したアナログ2枚の他は、90年代後半以降、安売りや中古CD屋で見つけた2枚を購入しているが、あまり聴き込んでいないこともあり、これ以降の曲は、馴染みがない。その4曲を含めたこの日の演奏曲目は、分かった範囲では以下のとおりである。
 
(演奏曲目)
@Highway Star (Machine Head,1972)
A?
BStrange Kind of Woman (Fireball, 1971)
CMaybe I’m a Leo (Machine Head,1972)
DPurpendicular Waltz (Purpendicular Waltz, 1996)?
EFireball(Fireball, 1971)
Fスローバラード ?
Gミディアムテンポ ?
Hギター・ソロ→Lazy (Machine Head,1972)
INo One Came (Fireball,1971)
Jキーボード・ソロ→Perfect Stranger (Perfect Stranger,1984)
KSpace Truckin’ (Machine Head,1972)
Lベースソロ→Smoke on the Water (Machine Head,1972)

アンコール
MHush (Shades of Deep Purple,1968)
NBlack Night(Single,1971)

(尚、末尾に紹介した当地新聞でのレビューによると、最近の曲としては「Rapture Of The Deep (Rapture Of The Deep, 2005)」が演奏されたとのことである。)

 いきなり最大のヒット曲である@でのオープニングである。1995年のインドはボンベイでのライブDVDを見ると、既に今から15年前のこのステージにして、この曲の高音部でI.ギランの声が出ていなかったことから大丈夫だろうか、と懸念していると、それ以前に、PAが全く調整されていない。ライブであるので、ある程度はしょうがないとは言え、楽器の音が全く分離されておらず、それ以上にボーカルが全く通っていない。声が出ているかどうか確認する以前のレベルで、同行した友人と「ちょっとこれは学園祭だね」と話していた位である。その後、私の聴きなれない曲と、よく知った曲が交互に演奏されたが、しばらくこのひどいPAの状態は改善されず、後半になって、ようやくI.ギランの声が聞こえてきたような状態であった。

 先に述べたように、ドラムとキーボードが、スピーカーの壁で見難かったこともあり、もっぱらフロントの3人を目で追いかけることになった。I.ギランは細身のジーンズにTシャツ姿であるが、老年に差し掛かりながらも、スタイルの良さは昔ながらである。かつての長髪をばっさり切ったこともあり、結構爽やかな印象である。R.グローバーは、昔と替わらぬ赤いバンダナを頭に巻いたスタイル。S.モースも、タンクトップのTシャツにジーンズと、いかにもメタル系のギタリストといったいでたちである。

 PAの悪さはあるが、やはり曲目としては「Machine Head」や「Fireball」等全盛期の作品が盛り上がる。S.モースのギターは、R.ブラックモアのワイルドな個性はなく、またブラックモアの聴きなれたフレーズが出てこないことへの一抹の寂しさはあるが、腕はもちろん言うことはない。Hの冒頭で披露されたソロも、彼なりの感性が滲み出たものであり、それからこの曲のお馴染みのイントロが出てくるところなどは感動的である。唯一オリジナル・メンバーとして参加しているI.ペイスは、かつてほどの迫力はないものの、最悪のPA環境でも、しっかりとしたリズムを刻んでいるのが分かる。但し、この日は、短時間のつなぎを除けば、多くのライブで披露されている彼のソロは見せることはなかった、というのは歳のせいなのだろうか?Jでは、イントロでD.アイリーがソロを演奏するが、シンセからピアノに移り、プロコフィエフなどのクラシックのフレーズを加えながら、最後にシンセの効果音に移り、そしてJが始まる。Kは、かつてR.ブラックモアがギターを壊すなど荒れ狂った曲であるが、還暦ロッカーたちには、もはやそうしたパフォーマンスは似合わない(実際、そのリッチーも現在は、再婚した若い奥さんのCandice Nightとデュオで、アコースティック中心のヴィクトリアン・ミュージックをやっているのだから、尚更である)。しかし、なかなか盛り上がる曲であるのは間違いない。R.グローバーによるアップテンポのドラムに合わせたベースソロから、大ヒットのLに移行し、取り敢えずステージが終了する。

 アンコールで登場した彼らがまず演奏したMはやや意外で、また故に、この日一番の感動であった。冒頭に述べたように、まさに彼らが音楽シーンに登場したデビュー曲で、これまでは、どの音源でもライブ演奏はなかったものである。第一期はもちろん、それ以降のメンバーでも、このライブ演奏を聴くのは初めてである。そしてまさに、重厚なハモンド・オルガンと鋭角的なギターが交差する中、私は、自身が10代であった時代を思い出していたのであった(帰宅後、You Tubeを眺めていたら、実際には第一期メンバーでの映像を含め、結構出ていた!)。続けてアンコールの最後はシングル曲であったN。公演が終了したのは10時を少し回ったところ。2時間弱のステージであった。

 久し振りの轟音が少し耳に残る中、会場の外に出ると、雨が降り始めていた。傘がない我々が、最適な帰宅ルートを探していると、4月終わりに開通したばかりの地下鉄Circle LineのStadium駅が正面に見えてきた。こんなに近かったのか、ということで、自宅最寄りの駅まで、コンサート後にも拘らずたいして混雑もしていない地下鉄で5駅、10分程度の乗車で帰宅したのであった。

 週末14日(金)の当地一般紙(Strait Times)に、いつものようにコンサートのレビューが掲載された(イベントが少ない国なので、こうしたコンサートは必ずレビューが掲載される!)。最後にこのレビューを簡単に見ておこう。

 「Rock mammothのDeep Purpleはまだ健在である。週半ばの忙しい中、5500人の観客が、家族や仕事を捨てて、青春の勢いと可能性を感じるために集まってきた。このメンバーの多くが60代に入った英国のヘビー・メタル・バンドは、何を残して行ったのか?」

 記事によると、観客の多くは、「髪の毛の薄くなったベビーブーマー世代、またインド人の駐在員も目立っていた」とある。確かにインド人も結構目に付いたが、圧倒的に多かったのは「欧米人のベビーブーマー世代」であったというのが、当日の私の印象である。

 演奏については、ギランの歌唱のみならず、グローバーとペイスのリズム部隊は往年の力を失っていないとし、それにモースのギターが古典に新たな解釈を加えたと評価している。更に彼らは、受けを狙ってただ昔の大ヒット曲だけを演奏するのではなく、あえて最近の曲も演奏することを厭わず、ファンもそれを受け入れたという。特にそうした新しい曲では、モースやアイレーの演奏が際立っていたと評価しているが、一方でグローバーやペイスにとっては、一晩だけのコンサートでは(あまり多くの曲を披露できず)かつての名曲で自分たちの力を見せることができないというのは残念であったろう、と書いている。

 会場のPAについては、「バンドの力が会場の音響システムを上回り、特にモースが音響エンジニアを不満そうに眺めていた」とコメントしている。ステージでは余計なMCや照明もなく、淡々と音楽だけが続けられ、10時にコンサートが終了した時、外では降り始めた雨に雷鳴が轟いていた。誰かが「Smoke on the water, a fire in the sky.」と呟いた。「そう、神もまた彼らの演奏を聴いていたのである。」レビューはそのように結ばれている。

 この記事に書かれている通り、ベビーブーマーの末端に位置する私は、ある意味、この日のコンサートの観客の中心層であったと思われる。この層にとっては、こうしたナツメロ・ロックバンドは、演奏の質云々よりも何よりも、大ヒット曲と共にかつての「熱い」時代を回想することが出来ると言うのが、一番のモチベーションである。そして私にとっても恐らく30年振りのこのバンドのライブで感じたのは、ロックという音楽が、決して若者だけの特権ではなく、私のように既に中年をとうに越えて、老年にさしかかろうとしている世代にも充分楽しめるエンターテイメントになっているという事実であった。もちろんファッション的には明らかに若いバンドが、勢いも人気もあるのは間違いないが、こうしたおじさんバンドにも確かに固定的なファンドがついているのである。私は同世代の人間に比べれば引続きこうした音に頻繁に接していると思うが、私ほど日常的に聞いていなくとも、多くの私と同じか、上の世代も、少なくともこうした機会があれば、喜んで馳せ参じるのである。その意味で、こうしたコンサートは、このバンドの音楽を聴きながらかつて同じ青春を過ごした者たちの同窓会のようなものなのである。そこでは、新たな刺激に接することもないし、また新たな文化創造の場面に立ち会っているといった感動はないが、他方で古い友人に久々の出会った時に感じる、あの落ち着いた懐かしさを感じさせてくれたのであった。

2010年5月16日 記

(追記)

 2012年7月17日、オリジナル・メンバーであるキーボードのジョン・ロードが、急性肺塞栓症で71歳で死去したとの報道が入ってきた。ジョンは、パープルの結成・再結成を繰り返した後、既に2002年からはソロ活動に集中していたとのことで、上記のシンガポール公演には参加していない。またその頃から膵臓がんを患わっていたとのことである。

 初期のパープルは、リッチーのギターがまだ不安定であったこともあり、圧倒的にジョンのキーボードの存在が印象的であった。その私の青春期を彩ったこのバンドの中核メンバーが、今や老齢により去っていくという時代を迎えていることで、彼の逝去報道に接した時には、私もやや感傷的にならざるを得なかった。ロック・ミュージッシャンが、ドラッグその他不摂生な生活習慣等から夭逝することは多かったが、これからは、長く生き延びた者たちの訃報に次々に接していくことになるのだろう。当然のことながら、それは彼らの音楽と40年以上に渡って共に生きてきた私自身の時間も徐々に限られてきていることを示唆している。それでも最後の瞬間まで、こうした音楽は私の人生の最良の伴侶の一つであることは確かであるし、この時間をまた最大限に楽しんでいきたいと改めて思うのであった。

2012年7月22日 記