アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−2020年)
Musical - A Chorus Line
日付:2012年5月19日                                                            会場:Sands Threatre 
 今から遡ること24年前の1988年始め、ロンドンでの6年弱の勤務を終えて日本に帰国する途上で、1月のニューヨークに立ち寄った。その直前、熱帯のバルバドスで数日の能天気な時間を過ごし、3時間半のフライトの後到着したニューヨークは極寒であった。恐らくバルバドスとの気温差は40度以上あったのではないだろうか?ロンドンを飛び立った時よりももっと寒い空気に凍えながら、私の、現在に至るまでの唯一の3日間のニューヨーク滞在が始まった。

 その初めてで最後のニューヨーク滞在は、寒さにも関わらず結構楽しい思い出で溢れている。お上りさんよろしく五番街で、摩天楼を背景に喜んで写真を撮ったり、エンパイア・ステートビルに昇ったり、そしてそこで生活している古い友人たちと再会したりした。そしてその滞在時のもう一つの目玉が、ブロードウェイでロングランを続けていた、このミュージカルの観劇であった。

 当時ロンドンでは、アンドリュー・ロイド・ウエーバーが全盛期で、彼の作品を中心に多くのミュージカルが上演され、人気を集めていた。私も、ロックやジャズのコンサート以外にも、こうした多くのミュージカルを楽しんだものであった。そしてこうしたミュージカル発祥の地であるニューヨークはブロードウェイでロングランを続けていた、このミュージカルにも大きな期待を持って出かけたのである。

 しかし、結果はやや落胆であった。当時ロンドンで人気のあったミュージカルは、そのほとんどが言葉よりも音楽とダンスが中心の作品であった。「キャッツ」や「スターライト・エクスプレス」、「ラ・ミゼラブル」、あるいはその時点では私はまだ見ていなかった「オペラ座の怪人」等は、ストーリーはそれほど複雑ではなく、他方で音楽とダンス、そして演出はそれなりに分かりやすく印象的であった。言わば、ロンドン・ミュージカルは、言葉が分からない外国人でも十分楽しめるエンターテイメントであったのである。

 ところが、そうした感覚を持って出かけたニューヨークでの「コーラス・ライン」は、随分違っていた。簡単なステージ・セットと延々と続くダンサーの自己紹介の独白。それが例えば会場の笑いを誘うところではなかなか付いていけない。もちろんダンスは素晴らしかったが、歌ではそれほど心に残るメロディーもなく、またストーリーは単純なオーディションであり、昨年末にこちらで見た「Wicked」ほど複雑ではないので、疲れるということはないが、逆に単調であった。結局、終わって劇場を出てきた時のブロードウェイの殺伐とした雰囲気(その時米国経済は既に90年代初めにボトムを迎える景気後退が始まっていた)と共に、ミュージカルに関しては、その時点ではニューヨークよりもロンドンの方が圧倒的に面白いな、という印象を持ったのであった。

 そのミュージカルが、ここシンガポールのマリーナ・ベイ・サンズ劇場で、「Wicked」の後継ミュージカルとして、5月4日から5月27日までの1か月弱の公演が行われることになった。今まで「Wicked」を含め、ここでのミュージカルは3−4ヶ月続けて公演されていたが、今回この開催期間が短い理由は不明である。しかし逆にそのことで、チケットの入手が難しいのではないかと懸念して、24年前のニューヨークであまり良い印象を持っていなかったにもかかわらず、早速チケットを手配したのである。

 まず、この公演が開始された直後に、当地の一般紙(The Straits Times、5月7日)に掲載されたレビューを、予習替わりに見ておこう。

 「ブロードウェイは常にある種の自己愛が強い。多くのミュージカルが、それ自体や、その業界の個人を題材にしているのは、それが理由である。“42nd Street”は、そこで主役となるコーラス嬢の話であるし、“Gypsy”は野心的なステージ・ママとその娘の複雑な関係を描いていた。このミュージカルは、その流れを受け継いでいるが、違うのはこのミュージカルが、スターではなく、普段はただのバックコーラスとしてしか観客には映らない人々に焦点を当てていることである。17人のダンサーたちは、ミュージカルの8段階からなるオーディションに参加し、そこで振付師から自分自身について語るように促されるのである。そこで彼ら、彼女たちは、如何にバレーにより不幸な子供時代から脱却できたとか、背が低い悩み等、といったことを打ち明けていくのである。」

 「これは1975年から1990年まで公演されたブロードウェイの古典のオーストラリア版である。この時代では、これは最長の公演が行われたミュージカルで、トニー賞も受賞している。このレトロなショウは、確かにうまく上演され、ラインダンスとダンサーの告白の融合という戦略も魅力的であった。しかし、その古さは、余り現代では似合わない、しかし可愛い衣装と古いジャズーバラードによる振付に現われていた(エド・サリバン・ショウを連想させる?)」

 「脚本は所々で弱さを見せていた。長い告白は、必ずしも哀愁を誘う訳ではなく、最後に良く知られたバラードである“What I Did For Love”が演じられるが、これを待ちわびてしまう。それでも、Marvin Hamlischの音楽と Edward Klebanによる歌詞は、曲から曲へ心地良く飛び回り、“At The Ballet” の痛み、陽気な“Sing !”、そして心地良い厚かましさのある“Dance :Ten ;Looks :Three”等、依然魅力的であった。」

 「何よりも時を経ても新鮮なのは、ダンスを大胆に使って物語を語らせるという演出である。冒頭、大勢のダンサーが、監督のZachから色々な指示を受けるが、この指示が歌詞となっているのはなかなか見ていて愉快である。これを見ていると、最近はミュージカルの演出が薄っぺらになっているように感じられたのである。」

 「オーストラリアの劇団は、力量はあるが単調であった。際立っていたのは、例えばDebora Krizakが演じた高慢なSheilaであるが、彼女は氷柱のように佇んでいた。豊満なVal を演じたHayley Winchやセクシーな Val (Dianaの誤り)を演じたKarlee Misipekaも好演していた。」

 「コーラス・ラインは野心的なミュージカルである。しかし、それはダンサーが主人公であることから、その技術はある程度の水準に達していなければならない。確かに素晴らしいダンサーはいたが、その内の何人かは歌うことが出来なかった。逆に何人かの素晴らしい歌手は、ダンサーとしては中級であった。この集団を誰がリードしていたかと言うと、それはCassieであっただろう。彼女は、無名なコーラス・ガールからスターになることを夢見て、結局果たせないのであるが、この失意のうちにまたコーラスの一団に戻っていく女性を演じたAnita Louiseはしっかりした歌唱力のある名女優であった。

 しかし、彼女が続いて“The Music And The Mirror”で披露したダンスは物足りないものであった。それは熟練したものではあったが、彼女の物語を説得させ感動させるほど素晴らしいとはいえなかった。とは言え、ミュージカルは進行し、その終盤に全員で“One”が披露されるが、この管楽器で演奏される曲に合わせ、全員が揃って、完璧なラインでタップし、金銀のタキシードが輝き、帽子をかざすダンスは血をわくわくさせるものであった。そこでは一人一人は、完璧なラインの中に溶け込んでいたのである。」

 「この公演にはやや不満が残るところもあったが、それでも観客は高揚した気持ちと劇場への評価は感じたであろう。それは、ステージで微笑む彼らの裏にある血と汗と涙であり、それは人生そのものなのである。重要なことは、愛のためにあなた方が何をするかということなのである。」

 またもう一つの予習として、ネットに掲載されていた、このミュージカルの音楽と、主要な登場人物の紹介を以下に見ておくことにする。

(音楽)
• "I Hope I Get It" – Zach, Tricia, Paul and Company
• "I Can Do That" – Mike
• "And..." – Bobby, Richie, Val, and Judy
• "At the Ballet" – Sheila, Bebe, and Maggie
• "Sing!" – Kristine, Al, and Company
• "Montage Part 1: Hello Twelve, Hello Thirteen, Hello Love" – Mark, Connie, and Company
• "Montage Part 2: Nothing" – Diana
• "Montage Part 3: Mother" – Don, Judy, Maggie, and Company
• "Montage Part 4: Gimme the Ball" – Greg, Richie, and Company
• "Dance: Ten; Looks: Three" – Val
• "The Music and the Mirror" – Cassie
• "One" – Company
• "The Tap Combination" – Company
• "What I Did for Love" – Diana and Company
• "One" (Reprise) – Company

(登場人物)
• Zach, the imperious, successful director running the audition.
• Larry, his assistant.

(オークション参加者)
• Don Kerr, a married man who once worked in a strip club.
• Maggie Winslow, a sweet woman who grew up in a broken home.
• Mike Costa, an aggressive dancer who learned to tap at an early age.
• Connie Wong, a petite Chinese-American who seems ageless.
• Greg Gardner, a sassy Jewish gay man who divulges his first experience with a woman.
• Cassie Ferguson, a once successful solo dancer down on her luck and a former love of Zach's.
• Sheila Bryant, a sexy, aging dancer who tells of her unhappy childhood.
• Bobby Mills, Sheila's best friend who jokes about his conservative upbringing in Buffalo, New York.
• Bebe Benzenheimer, a young dancer who only feels beautiful when she dances.
• Judy Turner, a tall, gawky, and quirky dancer.
• Richie Walters, an enthusiastic black man who once planned to be a kindergarten teacher.
• Al DeLuca, an Italian-American who takes care of his wife.
• Kristine Urich (DeLuca), Al's scatter-brained wife who can't sing.
• Val Clark, a foul-mouthed but excellent dancer who couldn't get performing jobs because of her looks until she had plastic surgery.
• Mark Anthony, the youngest dancer who recounts the time he told his priest he thought he had gonorrhea.
• Paul San Marco, a gay Puerto Rican who dropped out of high school and survived a troubled childhood.
• Diana Morales, Paul's friend, another Puerto Rican who was underestimated by her teachers.

 以上の予習をした上で、劇場に出かけていった。

 昼間の暑さが少し緩み、涼しい風が吹き始めた夕刻、食事を済ませてから7時過ぎのマリナー・ベイに地下鉄と徒歩で到着した。今回の席はステージに向かって右側の20列目ほど。今回のS$125というチケットは、ミュージカルとしては安い価格であるS$165、125、105、85、55というランクの、高い方から2番目である。

 予定の7時半きっかりに公演が始まる。アップテンポの "I Hope I Get It" に乗ってスタジオでのダンスのレッスンが行われている。演出家のZachの掛け声に乗りながらの、まず全員、そして何人かのグループに分かれながらのダンスである。意図的なのであろうが、その中の何人かは動きを間違えたり、遅れたり、あるいはついていけずダンスを止めてしまったりする。Zachのダンスは、さすがにリーダーだからという設定だろうか、際立って切れが良い。ひととおりのダンスが終わったところで、Zachが、その内の何人かに、「もう帰ってよい」と告げ、男女3−4人ずつ位が、舞台端に置いてあった自分の荷物を持って消え、そして男8人、女9人のオーディション最終候補者が残ることになる。

 ステージに一列に並んだ彼らに対し、ステージから消えたZachが、舞台後方からの声だけで、各人に自己紹介を行うように指示し、そして、その後は基本的にこの自己紹介に合わせて、歌とダンスが披露されることになるのである。誰かが、「何人が必要なの?」と聞くと、Zachは「男女4人ずつだ」と答える。

 こうして各人の自己紹介がMikeによる "I Can Do That" から始まる。最初のソロでもあることから、彼の歌とダンスはなかなかで、最後にはバック転と側面宙返りも披露して喝采を浴びていた。男女2人ずつによる "And..." に続き、女3人による "At the Ballet" 歌われるが、ここではSheila, Bebe, Maggieという3人が、それぞれ個性的であった。SheilaとMaggieは恐らく180センチ近い長身であるが、Sheilaは細身であるのに対し、Maggieはがっしりした体格。それに小柄のBebeが絡むという組合せが印象的である。そしてその中で、不幸な幼少期を語るSheilaが、新聞評にもあるように、30歳を越え、未だにスターの座を掴めないにもかかわらず、ひたすら高慢で冷たい性格の女を演じている。そのセクシーな仕草と際立ったスタイルで、私もその後度々視線が行ってしまったのであった。
 
 その後、個人の独白やダンス、そしてアンサンブルによる歌とダンスが続くが、ここでは唯一の黒人ダンサーであるRichieの動きが際立っていたことぐらいで、それ程印象に残っている場面はない。そして一つのハイライトとも言えるCassieによる "The Music and the Mirror" となる。

 Cassieは、上記の説明のとおり、演出家であるZachのかつての恋人であり、且つ以前はソロのダンサーであったが、現在は目立たず必死で仕事を探しているという設定である。Zachが舞台に戻り、二人の昔の関係等にも触れながらCassieが必死で仕事を与えて欲しいと懇請し、彼女のソロの歌とダンスが披露される。前述の新聞評で、「歌は素晴らしいが、ダンスは凡庸である」と書かれていたことを思い出しながら見ることになったが、そこはやはりプロ。私のような素人には、歌もダンスもなかなかのもののように思えた。

 しかし、このあたりから、次第に進行がダレてくる。24年前もそうであったが、独白のセリフが長くなってくると、確かに今回はそれなりに予習をしていったので、内容は追いかけられるが、しかし、笑いを誘うところ等は、必ずしもついていけない。そうすると早く歌やダンスが始まらないか、と考えて集中力がなくなってしまうのである。それが頂点に達したのは、若いダンサーであるシャイなMarkが、牧師に自分が淋病に感染しているのではないかと告白した時のことを、延々と話した時であった。「まだセリフが続いている」と思いながら、うとうとしてしまい、気がついたら舞台はダンスに移り、そこでMarkが足に怪我をして、担がれながら退場していったのであった。その間の展開は、意識がなくなっており、覚えていない。

 こうしてステージは最後のオーディションに移り、冒頭と同様、全員又はグループに分かれてのダンスが繰り広げられる。そして小柄なDianaがソロを取る "What I Did for Love" が演じられたところでオーディションが終了することになる。

 全員が一列に並び、Zachの指名を待つ。一人一人名前が呼び上げられ、呼ばれた人間は喜びの表情を浮かべて列の前に出る。その中には、自信に満ちたSheilaや、かつての恋人に仕事を懇請したCassie等も含まれている。右端にいた小柄な女性は、呼ばれた後で、Zachが「ああ間違えた」ということでガッカリして列に戻る。男4人と女5人が選ばれ、「あれ、数が違うな」と考えていたところで、Zachが「前に出た人たちは、帰宅してよろしい」と告げる。残っていたのは、確かに男女4人ずつ。「なるほど、こういう演出だったか」と妙に納得したのであった。退場者の最後にSheilaが不吉な笑いを残しながら舞台を去り、そしてZachがオーディション通過者に今後のスケジュールを手短に告げたところで、ダンスのメイン音楽である "One" が始まり、そして最後にあのキンピカ衣装に着替えた全員が一人一人カーテンコールとして登場し、最後に全員でのダンスを披露して、この日のステージが終了するのである。最後のダンスには、ZachとそのアシスタントであるLarryは登場せず、17人のオーディション参加者だけで演じられ、それが終わると、そのまま会場の照明が照らされ、それ以上のカーテンコールはないまま舞台が終了することになった。時間は9時40分。インターバルなしの2時間ちょっとの公演であった。

 確かに24年前の記憶が、もう一度蘇る舞台であった。舞台は、これまでシンガポールで見たミュージカルの中でも格段にシンプルで、舞台奥に時折スタジオを思わせる鏡の壁が出てくることと、Cassieのソロ・ダンスで、半円形の鏡が天井から降りてきたことを除けば、特段のセットはなく、その意味でこの演目は、まさに歌とダンス、そしてオーディション参加者の自己紹介だけで如何に観客を楽しませるかという、演出家にとっては厳しい舞台であると言える。そして24年前にニューヨークで見た公演が、細部についてどのような演出をしていたかは記憶にないが、例えば今回は、個人の独白の最中に、個人が身振り手振りだけになり、他の人びとの歌とダンスで、その個人の独白を補強するような演出上の工夫もこらされていた。しかし、それにも関わらず、私は時間の経過と共に集中力を失い、Markの独白からダンスに移る間に意識をなくしたことに示されるように、やはり今回もエンターテイメントとしてはやや物足りず、記憶に残るだけの感動は得ることが出来なかったのである。そして他方では、これだけシンプルなセットであるが故に、この公演のチケットも、それまでの公演に比べれば、圧倒的に値段が安かったのだろうと思わざるを得なかった。この公演が、当初ニューヨークでロングランしたのは、もっと他の演出上の工夫があったのだろうか、とか、日本語で見たら少しは印象が異なるのだろうか、等と考えながら、まだ昼間の暑さの火照りが残るマリーナを後にしたのだった。

2012年5月20日 記