アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日記
第五部:シンガポール編 (2008−2020年)
Musical - Phantom Of The Opera
日付:2019年4月27日                                                                      会場:Sands Theatre 
 前回2013年1月に観て以来、6年振りの Phantom of the Opera。今回も、4月24日から6月8日までの1か月ちょっと期間、同じ Sands Theatre での公演である。

 このミュージカルと私の関わりについては、2013年の評に書いたので繰り返さないが、この演目を観るのは、90年代のロンドン、2013年の日本での劇団四季版と当地での前回の公演に続き4回目になる。もちろん90年代のロンドン公演が、固定劇場での本場公演と言うことで、圧倒的な存在感を持っているが、2013年の当地での公演も、久々の英語版ということで、感激したものである。

前回の公演後、2013年に、このミュージカルの25周年を記念するロンドンは、 Royal Albert Hall での公演の DVD を手に入れ、結構な回数眺めていたことから、演目としては以前のような希少価値はなくなっている。しかし、劇場で見る公演は、やはりビデオとは違うアウラがあるのは間違いないだろうということで、開演直後の週末マチネに足を運ぶことになった。

今回の席はS$129の3階席。開演の5分ほど前に席に滑り込むと、予定時間の午後2時から5分ほど遅れて、見慣れたオークション場面からステージが始まる。客席は、私の席の遥か後方に至るまで、ほぼ満席である。

 ストーリー展開も前回の評にも書いたので、あまり繰り返さない。冒頭のオークションではステージに置かれているシャンデリアが上昇していくのに合わせ、あのパイプオルガンによる聴きなれた壮大な序曲。そして「ハンニバル」リハーサルで起こる最初の事件。そこで抜擢されたクリスティンが最初のソロである ”Think of Me” を披露するが、冒頭ではおどおどと歌い出し音を外すが、直ちに通常の音程に戻るという演出も、いつものとおりである。25周年記念公演のロンドン・キャスト等と比べてどうかということはあるが、それでもクリティーヌやラウル、ファントムの歌唱力は当然のことながら問題ない。ステージまで距離があることから、夫々の俳優の顔を判別できないのは残念である。

 プログラムによると、今回の配役は、怪人が Jonathan Roxmouth、クリスティーヌが Meghan Picerno(ダブル・キャストではあるが、まだ始まったばかりなので、こちらであろう。ただ週末はマチネと夜の2回公演なので、分けているかもしれないが・・)、ラウルがMatt Leisyとなっている。プログラムには、出演作のリスト等は記載されているが、出身国などは書かれていないので、夫々のサイトを調べてみたが、Jonathan は1987年2月の南アフリカ生まれ(32歳)、Meghan はプログラム記載以上の経歴は見つからないが、音楽のトレーニングはニューヨーク、そしてMatt は、英国育ちのアメリカ人といったところである。そのあたりを考慮すると、今回のカンパニーは、オフ・ブロードウェイ中心の配役になっている感じである。

 いつものとおりこの3人を中心に舞台は進んでいく。1か月余りの巡業公演なので、ロンドン版のような舞台装置は期待できないが、それでも前回見たミュージカルである「マンマ・ミーア」に比較すれば、舞台、衣装共に雲泥の差である。そうした限界を踏まえた演出であるが、例えば、新たなオペラでクリスティーヌを抜擢せよ、という怪人のメッセージを舞台にいる監督たちが読み上げる場面は、前回はそれが次第に、姿を見せない怪人の声となり、それが会場を回転しながら響いていき、そして最後にまた舞台の俳優が引き取り読み終わる、という演出であったが、今回はそうした仕掛けはなかった。それにしても、「マーマ・ミーア」等と比べて圧倒的に複雑な舞台設定を、狭い空間と限られた時間の中で刻々と変えていくのは見事である。「自分の命令に逆らう時には、とんでもないことが起こる」という怪人の予言を受け、新たなオペラの舞台でシャデリアが落下して第一幕が終了したのは、3時15分であった。

 30分の休憩の後、第二幕が始まる。冒頭の “Masquerade” は相変わらず派手な衣装での演出であるが、階段だけでステージのほとんどが占められてしまったのは、会場の限界であろう。怪人が爆発させる花火も、狭いステージから小さく炸裂するだけであるのも、ロンドン公演の映像を見ているものとしては、やや物足りないが、やむを得ない。怪人によるクリスティーヌを拉致から、彼の迷宮での大団円へ。クリスティーヌの選択とラウルの解放、そして鏡の椅子に座り、黒の布地を被る。ラウルを追いかけて怪人の迷宮に入った小さなバレーダンサーが椅子を覆った黒の布地を取り去ると仮面だけが残されているエンディングは、前回も書いたが、何度見ても感動的である。被った黒の布地が全く動かないままファントムが消え去るトリックは、いまだに疑問である。こうしてカーテンコールを終えて幕が降りたのは4時45分であった。

 早めの夕食を食べて帰宅後、改めてロンドン公演のビデオの一部を見てからこれを書き始めている。古典歌舞伎などと同様、ストーリーや主要な演出は全て分かっているし、演じる俳優の力量も略同じであるこのミュージカルであるが、それでも再演されれば、どうしても観たくなってしまうのは何故なのだろう。また現在もロンドンでは連日公演が開催されているのだろうが、そうであるとすると、初演後既に30年を超えたことになる。まさに自分の社会人としての人生とほぼ重なる期間、このミュージカルは毎日演じられている訳である。そこまで人々がこの作品に惹かれ続ける理由は何なのか。パリ・オペラ座の「怪人伝説」という素材の奇妙さ、派手な舞台とトリックを含む演出、それに古典オペラも挿入した二重構造等も、観る者を飽きさせない。そして最後の場面で、醜い怪人の心を変えさせるクリスティーヌの行動にも、毎回心が揺すられることになる。しかし、それ以上に、「現代のモーツアルト」と呼ばれるアンドリュー・ロイズ・ウェーバーの曲の素晴らしさが、何よりもこのミュージカルの最大の魅力であることは疑いない。そしてそれは、彼のその他の作品についても言える。年末にはまた「キャッツ」の公演が、同じ劇場で予定されているが、これも性懲りもなくまた観に行ってしまうのだろう。

2019年4月27日 記

 公演後の4月30日(火)(当地にいると全く関係ないが、「平成最終日」)に、当地新聞(The Straits Times)に、今回の公演に対する評が掲載されたので、追記しておく。

 「ファントム・オブ・ザ・オペラのマスクを剥ぐ」と題された評は、通常の演劇評とはやや異なる観点からのものになっている。「このミュージカルの多くのファンが、この作品がいろいろ問題含みであるー暴力と不法な羨望に満ちた複雑な欲望に触れるような熱情、メロドラマ的幻想―が故に、これに惹かれているのは、誰もが分かっている」とした上で、これが現代であれば、ただの「ストーカー物語」だとして、以下のように続ける。

 5月8日までの予定でシンガポールに戻ってきたこのミュージカルは、ロンドン・ウエスト・エンドで始まってから約30年にわたり、数百万人の観客を魅了してきた。この作品を観るのは、私は3回目であるが、先週の公演では、改善された舞台セットと俳優たちの歌唱力は印象的で、私が観た中で、もっとも素晴らしい舞台であった。ただ気になることがあった。それは、この3人の主人公の三角関係が織り成すドラマは、盗撮とセクシャル・ハラスメントをマスクで覆ったもので、ロマンスとは言えないのではないか?という疑問である。

 1910年発表の Gaston Leroux による同名のゴシック小説に基づくA.L.Webber によるこの作品は、パリのオペラ座を徘徊する醜い音楽の天才の物語である。彼は初心で無垢の女性に魅了され、密かにレッスンを与えるが、これは柔らかく言えば、この怪人はストーカーなのである。彼はこの10代の女性歌手を、オペラ座の屋上、(父親の墓がある)墓地、あるいは彼女の控え室の鏡の後ろからと、彼女が拒絶するにも関わらずひたすら追いかけ、覗き見し、ついには彼女を拉致すると共に、彼女が自分に従わなければ、恋人のラウルを殺す、と脅すのである。これがハラスメントでなければ、何がそうなのだろうか?もちろん、物語は Leroux の原作小説の舞台である19世紀のゴシック時代に忠実なものであるとしても。

 もちろん怪人役やクリスティーヌ役の俳優の演技は、あえて彼らの性格を現代の感覚に移し変える必要はないよう示唆するものではある。「1800年代の10代の少女であるクリスティーヌは、若く繊細で、現代の女性たちが有している手段や権利は持っていない」と、主演の米国人女優、Meghan Picerno は、最近当地のタブロイド新聞のインタビューで語っている。「私はできる限り強い彼女を演じたつもりだけれど、彼女を私に重ねることはできなかった。何故ならそれは物語を壊してしまうから。」

 怪人を演じる南ア出身の Jonathan Roxmouth は、先週 MBS で開催されたガラ公演で、素晴らしい演技を見せてくれたが、彼は「これをあまり思索的に捉え、現在の価値観で解釈すると作品を壊してしまう。これはしょせん現実の物語ではないのだから。」

 それでも、この作品のある部分が、♯MeTooの時代には問題含みで、人気の文化作品がある種の行動を許容させてしまうと理解することはできるだろう。

 2015年に発表されたミシガン大学のポスドク・フェローの研究では、男性が女性を追いかけるのがポジティブに描かれているラブ・コメディーを見た女性の何人かは、「ストーカー神話」―例えばストーカー行為を受ける人々は、初めは拒絶しても、後から翻してしまう、といった考えーを受け入れてしまう傾向があるという。この作品は、他の多くの劇場やTV作品と同様、こうした虐待的な関係をロマンチックに見せてしまう可能性がある。ベストセラーであるが多くの批判を受けた Stephanie Meyer の小説 Twilight のように、取りつかれたストーカーで暗い(悪の)ヒーローは、評価が難しい。怪人のような道徳的に問題のある人格は、Roxmouth やカナダ人俳優の Ramin Karimloo のような優れた(そして生き生きした)俳優が演じると、ただ気味が悪いとだけ言うことはできない。この怪人は、かわいそうな男である。我々は、彼が母親に虐待され、檻に閉じ込められたということを知っている。しかし、それは彼の行動を容認するものではない。

 確かに、彼は、最後にクリスティーヌを解放する。そしてそれによって彼がクリスティーヌを拉致し、恋人を殺すと脅し、そしてその過程で何人かを殺したことが許されてしまうかもしれない。しかし、それだけが怪人が問題であることを示している訳ではない。この作品の歌詞を見てみよう。

 官能的なタイトル曲で、クリスティーヌが「私はあなたが着けているマスクだ」と歌うと、それに対し怪人は、「彼らが聴いているのは私だ」と被せていく。「それは私だ」、というのは、この怪人という天才が、クリスティーヌをただの材料として使っていることを示唆しているだけではないのか?あるいは、それは、丁度英国の詩人である Ted Hughe sのラブソングで歌われているような情熱駅なロマンスなのか?「彼らはベッドで絡み合いながら手足を交換し、夢の中で、夫々の脳を束縛し、そして朝には其々の顔を着ける。」(フェミニストは、Hughes を家庭内虐待で告発しているので、これは良い例ではないかもしれない。)

 もう少し掘り下げてみると、この歌詞には更に驚かせられる。クリスティーヌが父親の墓を訪ねる時、怪人は、彼女を「彷徨える子供」と呼ぶ。混乱した彼女は、彼が「天使なのか父親なのか、友人なのか怪人なのか」分からなくなる。怪人は続ける。「あなたはあまりに長い冬を彷徨ってきた。私が見つめる遥か彼方で。」怪人は、父親代わりなのか?フロイドであれば、疑いなくこれは研究素材にするであろう。

 そうであれば、いったいこのマスクを被った男は誰なのか?暗いルネッサンスの男なのか?泣き虫な地下室の住民なのか?ただ愛されたい寂しい男なのか?おそらく、これら全てなのだろう。

 この怪人の多くのファンは、これがいろいろな問題含みであるー暴力と不法な羨望に満ちた複雑な欲望に触れるような熱情、メロドラマ的幻想―が故に、これに惹かれているのは、誰もが分かっている。怪人は、その観客に鏡を向け、彼らが自分自身から逃れるように仕向けているのだ。もちろん、それはそれで2時間半の「夜の音楽」の中で自らを忘れる時間を過ごすことが間違っている訳ではない。

 しかし、覚えておいて欲しい。そこには沈黙の力が働いている。それは我々が国際的に共有してきた社会規範であり、それが我々の衝動と心の底にある欲求を形成している。我々がロマンスというのはもっと奇妙なものに対してのマスクで、恐らく我々はもっと頻繁にそのことを考えなければならないのだろう。(以上、記事。筆者は、Ms.Toh Wen Li)

 ということで、この評は、このミュージカルが持つ反フェミニズムの前時代性を批判する論調になっている。丁度、現在当地では、NUSという、アジアを代表するこの国の名門大学で、女学生のシャワー室をスマホで盗撮するという事件が頻発し、その被害者の一人が、加害者の学生に対する処分が甘く、被害者に対する大学の対応も不十分だと、ツイッターで非難をしたことから、教育省が動き、大学の学長が謝罪するという事態にまで発展した。そしてこうした事件は、他にもあるということで、もう一つの主要大学である南洋理工大学にも飛び火している。このミュージカル開始のタイミングが、この事件を契機として、当地で女性の人権を巡る議論が盛り上がっている最中であったことから、新聞評も、このミュージカルの女性蔑視的な前時代性を、最近の事件に被せる論調になったのだろう。

 しかし、全ての古典芸能は、時代の文化、風俗に拘束されている訳なので、「それを言っちゃ、おしまいだぜ!」というものである。評者も書いているとおり、私たちは、2時間半の「夜の音楽」の中で自らを忘れる時間を過ごすことで、日常性からのカタルシスを感じれば十分なのだ。

2019年4月30日 追記