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ドイツ映画
白バラの祈り
監督:メルク・ローテムント 
 2007年3月に読了した山下公子著の「ミュンヘンの白いバラ」については、別に「ドイツ読書日誌」に掲載したが、その評の中の映画に係る部分をここに再編集して掲載する。

 メルク・ローテムント監督による「白バラの祈り」は、山下の本より先に映画を見ることになった。この事件についての映画は、本の中でも紹介されているが、ミヒャエル・フェアヘーフェンによる1982年10月ドイツで公開された(日本は1985年公開)「白バラ」の他にも、1982年公開の「ゾフィー・ショル 最後の5日間」があるとのことであるが、今回の映画は、2006年の日本ドイツ年に合わせて公開されたドイツ映画3部作として、「ヒトラー最期の20日間」及びスピルバーグの「ミュンヘン」と共に結構話題となったように思われる。併せて、実際に映画を見た時はさして気にも止めなかったが、今回の映画作品では、ドイツ統一後に発見された、旧東独にあった新資料も使われ、ゾフィーと検察官の司法取引なども新たに描かれているとのことである。

 山下の著書から、まずこの事件の全体を記しておくと、以下の通りである。

 1942年5月から6月にかけて、冒頭に「白バラのビラ」と書かれた、ヒトラーとナチスを非難する謄写版によるタイプ印刷のビラが、推計100軒あまりのミュンヘン市民の自宅に届けられる。戦争が始まり3年、当初のドイツ軍による進撃も転換点を迎え、既にあらゆる物資が欠乏し始めている時に、まとまった量の紙や封筒、あるいは切手を手に入れること自体が危険な行為である。これはそうした危険を冒しながら作成された良心的な反政府運動なのか、それともナチスによる罠なのか、このビラを受け取った人々の反応は分かれたという。

 1933年のナチスによる政権掌握以降、「国家と国民の危機解消のための法」を含め、「陰謀法」と総称される反ナチスの言動を抑圧する数々の法律が制定されていた。日本で言えば「治安維持法」にあたるこうした法律で、「強制的同一化」が行われていた訳であるが、著者は、1939年頃の幾つかの判決を紹介し、反ナチスの言動が既に徹底的に抑圧されていたことを紹介している。例えば、「ヒトラーなんぞ、尻の穴でも喰らえ」との言表に禁固6ヶ月、「総統のやり方は常軌を逸している」という発言に禁固3ヶ月。ましてや「反逆・利敵行為」と拡大解釈されれば死刑もありえる状況(実際BBCラジオを聞いていて死刑となった例もあるという)で、このビラは現れたのである。第一のビラからそれほど間を置かずに第二、第三、第四のビラが配布され、人々の間に噂が広まると共に、もちろんミュンヘンの国家警察が捜査を開始していた。

 この「白バラ」のビラに関与し、後にまず逮捕され、処刑されたのは6名。言うまでもなくハンスとゾフィーのショル兄妹とクリストフ・プローブスト、アレクサンダー・シュモレル、ヴィリー・グラーフ(以上5人はミュンヘン大学の学生)、それにミュンヘン大学教授のクルト・フーバーである。著者は、ショル兄妹を中心にしたこのメンバーが、この危険な反政府運動に関わっていった経緯を追いかけていく。

 簡単にまとめれば、リーダーであるハンスは、ミュンヘンのリベラルな家に、5人の子供のうち、上から二番目として生まれ、父親の意向に背く形で一時ヒトラーユーゲンドでの活動に没頭し、そこで卓越したリーダー振りを発揮したが、その後それから離れ、ナチスとは関係のない非合法の青年運動に活動の場を移していく。その結果、そしてショル家そのもののリベラルな傾向もあり、既に1937年秋、ショル家が家宅捜索され、家にいた三人の他の子供と共にハンスも一時逮捕・拘留されることがあったという。兵役などを経て、彼は1939年4月ミュンヘン大学に入学し、当初は向学心に燃えて学業に専念するが、次第に反政府的な傾向は強まっていったらしい。特に、1993年にローマ教皇庁とナチスの間で締結されたコンコルダートにより動きを抑えられていたドイツのカトリック教会の中で、例外的に公然と反ナチス的な説教を行っていたミュンスター司教のガーレンの説教が、1941年8月、ビラとなってショル家に配られた際には、それを読んだハンスは相当心が高ぶっていたという。

 アレクサンダー(アレックス)・シュモレルは、裕福な医師の息子としてミュンヘン郊外に住んでいた。シュモレル家は、アレックスの祖父の時代にモスクワに移住したドイツ人で、父は第一次大戦で収容所に送られた後、ドイツに帰還したという。収容所で母を無くし、再婚した父に代わって三人の子供の母親代わりになったロシア人の子守に育てられたアレックスは「のびのびと、悪く言えばひどく我儘」に育った。「強い芸術的傾向を持っていた」彼は、大学入学のための義務となっている労働キャンプでのナチス型団体生活に馴染めず、精神的な危機に襲われ、そこで反ナチス的思いを強めて行ったという。ハンスとの最初の出会いについての正確な話はないが、同じミュンヘンの学生中隊から大学試験の準備を行っていく過程であろうといわれる。そのアレックスと一時高校を同じくし、それを機会に転校後も親しく付き合っていたのがクリストフ・プローストであった。

 クリストフの父親は、アマチュアの学者で定職はなかったようだが、裕福な家庭に生まれたことから芸術家を中心にした広い交際範囲を持っていたという。しかしクリストフの母親と離婚した後、ユダヤ人女性と再婚したが、ニュールンベルグ法を含めた世相に絶望しノイローゼになり、療養先でなぞの転落死を遂げてしまう。それにも関わらずクリストフ自身は「成績優秀、品行方正、人格円満な青年」に成長し、大学入学資格試験も、通常より1−2年早く終了したという。彼は1940年に既に結婚し、すぐに二人の子供をもうけることになる。そしてこの3人が「白バラ」となる。

 ハンスの妹ゾフィーが、ハンスの「白バラ」について知ったのは、むしろ最初のビラが出た後であったようだ。この「のびのびと育った、天分豊かなショル家の末娘」が、極端に政治的であったようには見えないが、少なくともアレックスと同様に、女性の労働キャンプ等のナチス的団体行動に違和感を覚えていたのは間違いない。そして著者は、ゾフィーがどのような状況でハンスたちの秘密活動を知るに至ったのかは謎であるが、少なくともゾフィーは直ちに直接的な活動に加わることになったのではないか、と考えている。

 ヴィリー・グラーフは、最初のビラが出た直後に、ハンス達の読書会に始めて参加したらしい。ラインラントで生まれ、ザールブリュッケンで育ったヴィリーは、地域柄ナチスの浸透度が低く、ヒトラーユーゲンドへの参加も拒否した者としては例外的に大学入学資格を取得するが、その後移ったミュンヘンで軍に召集され、東部戦線のロシアに送られる。そこでの、既に守勢に回っていたドイツ軍の蛮行が、彼に強い嫌悪感を植え付けたようである。旧知の友人を通じて、遅くとも1942年5月半ばまでにはハンスやアレックスと知り合っていたと思われるが、彼らが出入りしていたフェンシング・クラブや、次に登場するクルト・フーバー教授の授業などは、当時の「内的亡命者」の憩いの場であった、といわれている。

 フーバー教授は、教育家一家として有名な家系に生まれ、哲学研究を進めると共に、バイエルンの民謡研究で認められ、ベルリンを経てミュンヘンに赴任するが、幼少時の身体的障害の故か、正教授につけず、生活は厳しかったという。それもあってか、ミュンヘンでの教授の授業は、時として政府批判の歯に衣きせないものであったという。

 こうして6人の「白バラ」が揃うことになる。著者は、この6人を中心にした個人的な書簡等を追いかけながら、彼らが次第に信念を強めていく様子を追っている。その際、特に著者が重視しているのは、1942年7月、ハンス、アレックス、ヴィリーが所属していた学生中隊が派遣された東部戦線のロシアでの体験である。著者は、そこで彼らが体験したのは、コミュニズムへの共感でも、ドイツ軍の蛮行でもなく、むしろ純粋な知的青年が、「ロシアの広大な大地に投げ出された人間の絶望的な孤独と、その果てにある希望」、そして「ドフトエフスキー、ゴーゴリ、プーシキン等々を『わしらの詩人だよ』という普通のロシア人」の存在であったとする。それが「スラブ民族を人間家畜化しようという」ヒトラーの人種イデオロギーの愚かさを痛感させたのではないかと考える。

 ロシアからの帰国後、ハンスらは改めて反政府運動を再開する。この年の冬は、東部戦線スターリングラードでのソ連軍への降伏や、連合軍の北アフリカでの攻勢など、戦況も転換期を迎えつつあった。更に1月には、ミュンヘン大学470年祭での地域ナチ指導者ギースラーの演説に学生が抗議の声を挙げるという「学生の反乱」も発生している(これは偶発的な事件であったようで、「白バラ」との直接の関係はないらしい)。こうした状況下、ハンスらは、フーバー教授へ一層接近すると共に、ベルリンやイタリアの反政府運動との連絡も試みる。並行してゾフィーの軍人へのほのかな思いや思想的なすれ違い、ハンスの恋人関係なども、彼らの知的軌跡を追いかける目的で語られている。そして1943年に入ると、再びビラの配布が開始されるが、それは、「教養あり、国際的視野の広さを持ち、基本的には情熱的な愛国者であったために、スターリングラードの敗戦ですざまじい衝撃を受け」運動に積極的に関与し始めたフーバー教授の影響を受け、それ以前のものよりも、より「非宗教的、現実的、そして具体的」になったという。また他方で、「反共産主義で愛国者」のフーバーと、「ロートカペレ」といった国内共産主義系の反ナチス運動の影響を受けたA.ハルナックといったメンバーとの間での温度差も発生したらしい(フーバーの主張した、「国防軍の下に参集せよ」文言の削除など)。しかし、それにも関わらず彼らの行動は続く。2月に入ると、ミュンヘン市内約20ヶ所に、タールで書かれた「自由」「打倒ヒトラー」といった落書きが現れるが、これもアレックス、ハンス、ヴィリーの行動といわれている。

 こうして運命の2月18日が訪れる。まさに、今回見たメルク・ローテムントによる映画「白バラの祈り」が淡々と描いている1日である。それ以前に既にゲシュタポが、ショル兄妹らに疑いをかけ内定捜査を行っていたかどうかは議論のあるところであるが、大学でビラを配布した二人は用務員に目撃、逮捕され、駆けつけたゲシュタポに引き渡されることになる。映画では、ビラを階段や通路の隅の何ヶ所かに重ねて置いた後、余った束をゾフィーがある種瞬間的な思いつきで吹き抜けからばら撒く様子が描かれているが、これは1982年の映画では、数枚が偶然落ちて行っただけと表現されるなど、またそれによって、そもそも当初から危険を冒すつもりでいたのか、あるいはただの不運で逮捕されたのかといった、色々な議論の分かれ目になっているようである。いずれにしろ、ハンスが持っていたクリストフの手書き草稿や家宅捜索で見つかった友人の連絡先等から、ショル兄妹以外の4人を含む関係者が摘発され、2月22日にはベルリンから国民法廷長官であるR.フライスラーが裁判長として飛行機で到着。映画で描かれているようなハンス、ゾフィー、クリストフに対する茶番劇の裁判が行われ、翌日早朝ギロチンによる処刑が執行される(映画では、判決から執行までもう少し間があったかのように描かれていたが、これは私のただの印象かもしれない)。その後、アレックス、ヴィリー、そしてフーバー教授の3名も遅れて死刑判決を受け処刑、その他の関係者にも判決が下されることになるのである。

 本でも感じたが、映画に映し出される戦中の大学の雰囲気は、それほど戦中であることを感じさせないものであった。そしてその中で、山下が言っているように、ナチスによる「強制的同一化」が進んでいたと言われる割には、国内で反ナチス、反ヒトラー感情を持っているものたちが、もちろんたいへんな危険を冒してではあるが、相当数存在していたこと、そして戦況の悪化と共に、こうした動きが早い時期から少しずつ表面化していたという点は、こうした反政府運動が草の根ではほとんど見られなかった日本との相違のように思われる。もちろん、秘密警察の密告の網が張り巡らされている社会で、そうした動きが表面化すること自体はドイツでも稀であったが、少なくとも「白バラ」のようにそうした記録が残っていること自体が重要と思われる。内面的に反政府的気持ちを持っていた日本人はそれなりにいたであろうが、それが記録として、事後的にしろ社会的に認知されることは日本では少なかったのではないだろうか。例えば、あの丸山真男でさえ、蓑田弘毅ら体制右翼の発言に対する嫌悪感を抱いたとしても、それは極めて限られた人間の間で密かに語られるのみで、あとは淡々と政治思想史研究に勤しんでいたのであり、まさにそこを後年、戦後民主主義の虚妄として学生たちに批判されることになる。西欧個人主義と、より集団の拘束力が強かった日本の差であるのか、あるいは、外国のラジオ放送により、それなりの事実を知りえたドイツの民衆と、大本営発表しか情報ソースがなかった日本国民との相違であるのか。日本のそうした抵抗運動の記録と比較してみる価値はありそうである。

鑑賞:2007年2月