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映画日誌
ドイツ映画
ハンナ・アーレント
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ 
 アーレントの関する新書を読んだところで、彼女についての映画があることに気が付き、早速借りて観ることになった。2012年に制作されたドイツ・ルクセンブルグ・フランスの合作映画で、監督はマルガレーテ・フォン・トロッタ、主演のアーレントをドイツ人女優のバルバラ・スコバが演じている。映画の中心は、この前に観た映画「アイヒマン・ショウ」で取り上げられ、また上述の新書の評でも私自身のコメントを記した、1961年、イスラエルで行われたアイヒマン裁判についてのアーレントの論考「イスラエルのアイヒマン」がもたらした大論争で、それを通じ、人間の本質とは何か、そしてそこから浮かび上がる絶対悪とは何かといった論点についてのアーレントの信念を浮かび上がらせようとしている。アーレント以外の主要登場人物は、彼女の二人目且つ終生の伴侶ハインリッヒ・ブリュッヒャー、米国での彼女の親友の小説家・評論家メアリー・マッカーサー、彼女の秘書シャルロッテ、アーレントの論考が掲載された「ニューヨーカー」の編集者ウィリアム・ショーン、そしてシオニストで彼女の父親的存在であったクルト・ブリューメンフェルド等。ほとんどの人物が、先に読んだ新書に登場している。

 映画は、まず夜の道でアイヒマンが拉致される短い場面で始まり、そして既に米国に移住し、「全体主義の起原」で名声を確立しているアーレントが、イスラエルでのアイヒマン裁判の傍聴と報告記事を引受けるところに移っていく。そしてエルサレムに向かい、ブリューメンフェルドら旧友との再会を祝した後、裁判が始まる。ここでは、「アイヒマン・ショウ」と同様、実際のアイヒマン裁判の白黒画像が使われるが、「アイヒマン・ショウ」以上に、アイヒマンが、自らの弁護を長々と行う様子が使われているのが印象的である。それは、まさに「自分は、自分の限られた任務範囲に下された命令を遂行しただけで、虐殺に主体的に関与した訳ではない」という、その後のアーレントの報告の核になるコメントであることが分かる。そして膨大な資料を持ち帰ったアーレントは、ニューヨークの自宅で報告記事の執筆に取り掛かるが、「最初の10ページ」が送られてきたところで、ショーンに率いられた「ニューヨーカー」編集部では、これが大きな議論を引き起こすであろうことが指摘されているが、ショーンはその掲載にゴーサインを出すことになる。もちろん、最大の論点は、アイヒマンが、イスラエルや世間が期待したような「悪魔」ではない、ただの「考えることのできない」小市民官僚であったということに加え、「ユダヤ人社会の指導者が虐殺に手を貸した」という部分で、掲載後、実際編集部のみならず、アーレント自身へも非難や脅迫が押し寄せることになる。しかし、アーレントは、それらは根拠のない誹謗中傷として断固拒否。大学による、教員資格を取り消し、講義を中止するという通告も無視し、決然と満場の講義に登場する。

 ここが映画のハイライトで、アーレント役のスコバが、この裁判についての自身の考えー凡庸な人間が、思考を停止することで、人間として生きることを止め、巨大な犯罪に手を貸すことになる、そしてナチに協力したユダヤ指導者にも同じことが当てはまるーを、強い言葉で提示し、会場のユダヤ人からの批判にも決然と反論するのである。しかし、講義の最後に残った旧友ハンス・ヨナスからの絶縁の言葉には苦悩を隠せない。まさにこの辺りが、アーレント役のスコバの演技が冴えわたっているところである。報告の完成前に、夫のハインリッヒが発作で倒れる場面や、彼女の報告はイスラエルでは出版禁止、と告げに来たシオニストの旧友から知らされた父親替わりのブリューメンフェルドの危篤を知り、彼をエルサレムの病床に見舞うが、そこで彼からも拒絶される場面、あるいは若き頃のハイデガーとの出会いや晩年の再会等、新書でも描かれていた逸話がふんだんに使われている。

 フォン・トロッタ監督は、以前に「ローザ・ルクセンブルグ」を扱った映画を製作している。私は、これは観ていないが(今後機会があれば観たいものである)、信念に忠実に生きた女性を好んで取り上げているのだろう。この映画でも、アーレントの名声を確立した「全体主義の起原」等の業績は、背景としてしか挿入されず、アイヒマン裁判を巡るバッシングに立ち向かうアーレントを淡々と追いかけることになる。恐らく実際のアーレントも、そんな感じであったのではないかと感じさせるに十分な映像である。またアーレントが登場する最初が煙草に火とつける場面であり、その後もひたすら(大学の講義中にも!)煙草を吸い続ける。アーレントがヘビー・スモーカーであったことは、新書でも触れられているが、なんとも時代を感じさせる演出であった。

 ニューヨークの自宅では、夫との会話を含めドイツ語が語られ、メアリーら米国人との会話や大学での講義は英語が使われている。この辺りも、彼女の実際の言語生活であったのだろうと感じさせてくれた。新書の印象が残る中で観たせいもあろう、地味ではあるが、なかなかの秀作であった。

鑑賞日:2021年6月12日