レニ
監督:レイ・ミュラー
1993年制作のドイツ・ベルギー合作映画で、レニ・リーフェンシュタールの生涯を、彼女へのインタビューを中心に、夫々の時代の関連映像を交えながら追いかけた作品である。1992年の制作時インタビューに答えるレニは、1902年生まれ(2003年没。享年101歳)なので、この時既に90歳である。1920年代の山岳映画の女優として脚光を浴び、その後監督に転向し、ヒトラーの権力掌握と共に、彼の依頼を受け、1933年のナチス党大会の記録映画「意志の勝利」や1936年のベルリン・オリンピック記録映画「オリンピアー民族の祭典」で名声を確立したが、戦後はナチス協力者として糾弾される。こうした彼女の生涯は、栄光と悲惨に満ち満ちた波乱万丈のものであったが、監督のレイ・ミュラーは、出来る限り公平に、彼女の人生を描いている。この映画は、日本では、まず1995年に劇場公開されているが、2019年にリバイバル公開された。そんなことも、今回、映画通の友人が推奨してくれた理由であろう。しかし、4時間近い映像は、現在のような暇な時期でなければ、とても耐えられなかったであろう。
冒頭、ナチス関係の映像と海中生物を追いかける映像が交錯しながら第一部が始まる。そしてダンサーから始まり、アーノルド・ファンク監督の山岳映画の女優として認められた後、自ら監督として映画製作に関わる過程が、当時の出演・制作映画の映像と共に語られていく。山岳映画でのドイツ南部と思われる切り立った崖(垂直に700m聳えるヴェラゴ峰等)を舞台とする映像は、もちろん古いが、確かになかなかの迫力である。そんな中で、自ら監督・主演し、1932年のヴェネツィア映画祭の銀賞を受賞した「青の光」で、監督としての評価も受けることになるが、まさにその時期、ナチスが政権を獲得したことが彼女のその後の運命を決定付けることになる。
ヒトラーと初めて会見した際の彼女の印象は、公開の場で演説する彼とは異なる、穏やかな紳士といったものであるが、確かに人を引き付けるオーラを放っていたと素直に語っている。他方、ゲーリングについては、彼女に言い寄ったのを拒絶したことから、敵対的な関係が続いたと語っている。そして、ゲッペルスの日記で、彼女が度々ヒトラーやゲッペルスとの個人的な夕食会に参加していたとされていることについては、ゲッペルスの虚言であると強く否定することになる。映画では、どちらが嘘をついているかは分からない、と結論は出していないが、少なくとも戦後ナチス同調者と批判され続けた彼女としては、否定するしかない質問であったのだろう。
そして1934年のニュールンベルグでのナチス党大会の記録映画「意志の勝利」の政策経緯と制作時の苦労の数々。まずは、もちろん戦後は上映禁止となったこの映画の多くの画像を観ることが出来るのは、たいへん興味深い。この前の1933年の党大会でも撮影の依頼があったというのは、今回初めて知ったが、彼女は、これは技術的に全く不完全なものであり、ヒトラーの命令で無理やり編集をさせられたものの、自分の作品と見做されることについては断固拒否している。そして「意志の勝利」であるが、彼女は、あくまで映画監督として、芸術的な作品を作るための工夫をしただけで、自身が政治的な目的を持っていた訳ではない、とする。インタビューで、「それでも、この映画にはメッセージがあったのではないか?」と質問されると、「そのメッセージは、雇用創出と平和だ」と答えるが、これは誰が考えても、彼女への戦後の批判を受けた自己弁護であることは明らかである。
そして第二部は、1936年のベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピアー民族の祭典」の回顧から始まる。インタビュアーと訪れる1992年のスタジアムは、当時のままであったという。その前年、フランクフルトに転勤した私は、結局このスタジアムを訪れることがなかったが、父親がこのベルリン五輪の陸上金メダリストであった当時の同僚が、日本への帰国前最後の旅行で、このスタジアムを訪れた、という話をしていたのを記憶している。そしてレニは、この映画作成の過程での多くの工夫(スタジアムのグラウンドに穴を掘ったり、気球を使った撮影、飛込での水中カメラの撮影等々)について嬉々として語ることになる。この映画は、同年のヴェネチア映画祭で最高賞(ムソリーニ杯!)を獲得し、英米を含めた各国でも上映されることになるが、戦争の開始と共に、この映画の評価も変わったことは言うまでもない。この映画に関し、レニは、「ヒトラーは、黒人が活躍するオリンピックには関心がなかった」と言っているが、彼が「国威発揚の絶好の機会」としてそれを利用しない訳はなく、これも、作品とナチスとの関係を否定するにはやや無理があるコメントである。尚、前期の同僚の父親の金メダリストは、オリジナルの映画では大きく取り上げられているようであるが、この作品で挿入されている場面では、マラソンや水泳での日本人選手の映像は現れるが、彼の父親が登場することはなかったように思う。
この映画は、2年の編集期間を経て、1938年のヒトラー49歳の誕生日(彼は、1989年4月20日生まれ)にドイツで公開されることになるが、既にオリンピックの年の11月には「水晶の夜」が起こり、ユダヤ人弾圧が激しくなっていた。この反ユダヤ主義について聞かれたレニは、自分はこの事件は一回限りのものと思っており、自身は反ユダヤ主義には懸念を抱いていた、としているが、これも戦後の自己弁護の一部であろう。そして第二次大戦が始まり、ドイツ軍がパリに進駐した際には、レニはヒトラーに祝電を送ることになる。これにつき彼女は「これで戦争が終わり平和が来ることをお祝いした」としているが、これも余り説得力はない。
戦争開始直後、レニは、ポーランドの前線に同行したようであるが、その悲惨な戦闘に接し、直ぐにチロルに引き込もり、「低地」というスペインのジプシーを主人公とする映画の制作に没頭する。しかしこの映画は戦争の激化で完成することが出来ず、また戦後は、登場するジプシー達を収容所から動員したという批判を受けることになる。そして終戦、ナチス同調者として、彼女には多くに批判が浴び去られ(但し、法的には「無罪」)、映画の制作を含めた公的活動はできなくなる。
こうして戦後は、しばらくミュンヘンの屋根裏部屋で母親と共に寂しい蟄居生活を送ることになるが、1960年代になると新たな世界を見出す。それはアフリカのヌバ族(スーダンに住む山岳民族)との「共生」であり、それは1973年の写真集となって結実する。この映画では、身体中を塗りたくったこの民族の祭りの写真のみならず、動画も多く紹介しているが、この民族が、彼女や撮影のアシスタントを受け入れた、というのはたいへんな驚きである。この滞在時、彼女や協力者の食事や入浴等はどうしていたのだろうという、素朴な疑問も禁じ得なかった。そして70歳を越えて取得したスキューバ・ライセンスを使った水中写真と映像。それは、この映画が製作された、彼女が90歳になった時点でも、依然続けられている。40歳年下の同棲者ホルストをカメラマンとする「世界で最年長である90歳のスキューバ・ダイバー」というコメントと、その水中写真・映像(特に巨大なガンギエイの映像が素晴らしい)と共に、レニの波乱万丈の生涯を描いたこの4時間に及ぶこの映画が終わることになる。
いやはや凄い人生である。そして凄い生命力である。戦前、ナチスの勃興に併せて映画監督としてのし上る姿、そして戦後、ナチス同調者として多くの非難を受け、公的活動が制限される中、アルリカや水中に新たな世界を見出し、それを90歳に至るまで続けるエネルギー。映画では描かれていないが、戦後は、「ナチス同調者」という批判に、多くの訴訟で対抗し、その多くで勝訴したようである。また晩年の水中撮影は、2002年発表の「ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海」という、彼女の生涯で最後の映画になる。そして2003年、ホルストに看取られながら101歳の生涯を静かに閉じたということである。恐らくは、戦後に浴びせられた多くの批判に決然と対抗するという「鉄の意志」が、90歳を越えて尚も創作意欲を失わない力の源泉だったのだろう。もちろんナチスへの「迎合」批判を免れる術はないと思うが、これだけの人生を生きた女性というのも珍しい。その人生を冷静に追いかけた秀作であった。
鑑賞日:2021年8月25日