残像
監督:アンジェイ・ワイダ
A.ワイダ監督シリーズの3作目(そして、彼の昔の名作は、レンタルでは出ていないので、当面は観ることのできる彼の最後の作品になるであろう)は、2016年制作で、彼の遺作ともなった「残像」。第二次大戦終了直後の1940年代末から50年代初めにかけての、実在した画家の、信念に殉じた苦難の生涯を描いた作品である。
第一次大戦で片足を失った前衛画家のストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)は、自ら作品を制作しながら、ポーランドのウッチという街の造形大学の教授として、学生たちに、前衛芸術の理論と実践を伝授している。彼はカンディンスキーやシャガールとも交流を持ちながら、学生たちに、「人はものを見た後に網膜に残った色が残像なんだ。(それを表現するのが画家だ)」という彼の理論を講義し、学生たちも彼に対する尊敬の念を抱いている。
しかし時は1948年12月、ソ連支配下のポーランドでは統一労働者党が権力を確立し、その文化大臣が大学を訪れ、「社会主義リアリズムに基づく芸術以外は認めない」と演説をぶつ。それに反論したところから、ストゥシェミンスキの苦難が始まる。当局の治安関係者は、かつて1934年頃、彼が「芸術と政治の境界をなくす政治家には退場してもらわなければならず、芸術家はその共同戦線の堀である」と記した資料を持ち出し、政権への協力を説得するが、彼は「それは当時のビウスツキ独裁政権に対する批判である」として、その申し出を拒否している。
以降は、当局からの彼に対する嫌がらせの数々と、それに静かに(決して攻撃的に反攻するのではない)彼の姿が描かれていく。彼には離婚した彫刻家の前妻と、ティーンエイジャーの一人娘ニカがいるが、その娘は時々彼のもとを訪れている。当局の彼に対する嫌がらせは、まずは1950年3月末をもっての大学からの追放、続いて学生たちと企画した前衛風展覧会の作品破壊や美術館からの彼の作品撤去、そして最後は芸術家協会からの追放。またその間に前妻も病院で亡くなるが、ニカは彼にそれを告げることはなく、一人寂しくその葬儀に参列している。
それでも彼を慕う学生たち、特に映画の冒頭、明るい丘での課外学習で、陽気に草原を転がり落ちるストゥシェミンスキと出会ったハンナは、彼の生活を助けながら、盗用したタイプライターで、彼の芸術論である「視覚理論」を出版すべく口述筆記に勤しんでいる。またある学生は、彼に給与をもたらすための仕事を与えるべく奔走し、別のイスラエルに移住するという女学生は、彼の「ユダヤ人」をモチーフとしたデッサン画を、安全のため自分に託して欲しいと嘆願して、それを受け取っている。
しかし、公認芸術家の身分証明書がない彼は、画材の購入のみならず、日々の食糧の購入もできない状態に追い込まれることになり、そしてある時、作業中に喀血、そしてその後道で倒れ、病院で進行性結核と診断されることになる。またハンナも、彼の家からの帰途、当局に拘束される。当局担当者は、彼女の解放の条件として、彼が当局に協力するよう改めて迫るが、彼はそれも静かに拒否し、衰える体力をおして、前妻の眼と同じ青色に染めた花束を持って彼女の墓に捧げる。そして最後、彼は1952年12月に人知れず逝去する。彼の遺骸が横たわる病院のベッドの脇で、ニカは一人で残されることになるのである。
悲しい映画である。もちろん、統一労働者党の独裁下、ソ連の社会主義リアリズムへの従属に抵抗した一芸術家の記録として観ることもできるが、その抵抗は「静かな拒否」であり、政治的、社会的なインパクトは弱い。その意味で、この作品は、モダンアートの理念に殉死した画家が追い詰められていく姿とその過程での権力側からの仕打ちを克明に記録しておくことを意図したワイダ最後のメッセージとして読むべきなのだろう。しかし、両親に先立たれ、資産もなく一人置き去りにされるニカや、彼に協力しながら当局に拘束されるハンナのその後は描かれておらず、それを考えると映画の最後には大きな悲哀だけが残ることになる。その点は、連帯運動の勝利を描いた「ワレサ」はともかく、全体的には悲惨な虐殺を描いた「カティンの森」でさえ、ソ連の戦争犯罪を明らかにすることで、最後にある種の安堵感をもたらしてくれた。しかしこの映画の場合は、ストゥシェミンスキの死後、少なくとも二十年近くは、彼の死は、生活困窮者の単なる孤独死に過ぎなかった。そして民主化後、彼の名誉が回復したといった説明も、ここでは一切なされていない。戦後ポーランドの映画界を、そこでの反体制政治・社会運動とも「連帯」し牽引してきたワイダが、そうした悲しみに満ちた映画を遺作として残したのは、彼自身の人生も、戦後ポーランド史の中で、実は大きな悲哀に満ちたものであったことを語りたかったのであろうか、と考えてしまったのである。
鑑賞日:2022年1月15日 記