アジア・ドイツ読書日誌と
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映画日誌
ドイツ映画
バルトの楽園
監督:出目昌伸 
(これは純然たる日本映画であるが、ドイツと日本の関係を主題としていることから、ここに掲載することにする)

 先日徳島・鳴門を訪れた友人から、そこにある鳴門ドイツ館の話を聞いた。第一次大戦中、青島での戦闘で捕虜となったドイツ軍兵士がここにある収容所に集められることになる(1916年頃)が、この坂東俘虜収容所では松江豊寿という所長が人道主義的な姿勢でここを運営したため、日本とドイツの間に強い絆が結ばれ、戦後の解放・帰国前に、この地で日本で初めて、ベートーベンの第九が演奏されることになった。また、ドイツ人俘虜が地元の日本人に器械体操や楽器の演奏、パンの作り方等も教えてくれたという。

 この逸話を映画化したのが、この2006年制作の「バルトの楽園」である。「楽園」を「がくえん」と発音させるとおり、この「日本で初めて演奏されたベートーベンの第九」が主題であるが、それは最後の最後まで登場せず、むしろこの収容所を巡る、松江所長の対応と、ドイツ人捕虜と地元の人間との交流等が描かれることになる。また、「バルト」という題は、ドイツのイメージとして「バルト海(Baltic Sea)」を提示するのは余りないことから、何でなんだろうと疑問に思っていた(後ほど述べる、捕虜たちが海で泳ぐ場面が、ドイツの海岸線であるバルト海を想像させたが、別にドイツは一部大西洋にも面しているので、それが唯一の海岸線ではない)。ネットの解説では、ドイツ語のバルト(der Bart)は、「ひげ」のことで、松江ら登場人物の何人かがこだわるちょび髭を示唆したものであるという。因みにドイツ語での映画名は「Ode an die Freude(歓喜の歌)」というベートーベンの歌唱部分のタイトルをそのまま使っている。監督は出目昌伸、俳優は、主演の松江所長を松平健、ドイツ側将校を「ベルリン・天使の詩」や「ヒトラー最後の12日間」にも出演したブルーノ・ガンツ、その他、特に日本側はそれなりの役者たちが出演している。

 映画は、青島での戦闘から始まる。そこで日本人の娘を持つ兵士が、日本軍に銃を向けることが出来ず、懲罰され、ガンツ演じる青島総督ハインリッヒ少将に、その娘の写真を入れたブレスレットを引きちぎられた後、戦死する。そしてドイツ軍は降伏し、若い兵士ウルマンが日本に移送される様子を、故郷の母親に伝える手紙が送られ、タイトル・バックが表示されることになる。

 そして二年後、日本各地にあったドイツ人捕虜収容場が、この坂東収容所を含めた6か所に統合され、桜が咲きほこる春、追加の囚人が移送され、ここでの生活が始まる。松江所長のドイツ語での演説が行われるが、その後も松平健は、ドイツ語での会話で頑張ることになる。また彼の右腕の副所長役である高木(國村準)は、通訳と言う役柄でもあり、やはりドイツ語で様々な指令を伝えている。

 こうして収容所の生活と地域住民との交流が描かれていく。松江がハインリッヒの自室を訪れた際、彼はベートベンのレコードを聴いているところであった(戦争にレコードやプレーヤーを持ってきたのか?)が、これは最後に向けての触りである。そして収容所では新聞の発行や、地元の子供たちへの、軍楽隊による楽器や器械体操選手による演技指導(鉄棒での大車輪から一回宙返り着地)等が行われていく。脱走を企てたが、民家のすゑ(市原悦子)に傷の手当てを受けたカルルは、自ら収容所に戻るが、そこでパン職人の腕を松平に見込まれ、パン作りに精を出すことになる。また松江は、収容所の費用捻出のため、捕虜による近くの森林開発を企てるが、それは海岸での息抜きも兼ねており、そこでは四国の田舎の海岸の景観が映されることになる(当初私は、それが「バルト」というタイトルの理由だと想像した)。

 こうした松江の運営は、陸軍省から「甘い」という批判を受ける。それを陸軍省に密告したのは部下で、松江と同じ会津出身である伊藤(阿部寛)であるが、彼に対し、松江は、会津藩が維新で受けた受難を恨みで返すのではなく、未来への関係を作ることで乗り切るよう説得するのである。

 収容所を一人の少女志を(大後寿々花)が訪れる。彼女は、日本人の母と結婚し、日本に住んでいたが、青島の戦闘に参じたドイツ人の父親を捜す旅を続けていた。冒頭で、日本軍に銃を向けず懲罰され、戦死したドイツ兵の娘であることを知ったハインリッヒやカルルは、持ち帰っていた少女の写真が入ったブレスレットを渡し、母も病死しているという彼女は、しばらくの間、松江家で妻の歌子(高島礼子)が面倒を見ることになる。ただ松江家の馬番宇松(平田満)は、兄をドイツ軍に殺されたことから、ドイツ人やドイツ関係者には恨みを抱いており、志をにも冷淡である。こうした中、収容所では、ドイツ人捕虜が制作した各種の作品の展覧会が開催され、ドイツ菓子やボトルシップ等が紹介されている。カルルは、志をに自分の作ったドイツ菓子を渡している。

 そしてドイツ降伏・皇帝退位の知らせが収容所にも届く。ハインリッヒは短銃で自殺を試み、また新聞班を始め、ドイツ人捕虜たちは意気消沈している。彼らに対し、松平は、会津藩が戊辰戦争で敗北した後の運命を語りながら、彼らに戦後への希望を語る。その思いが伝わり、軍楽隊関係者は、帰国前に演奏会を開催することになる。そこでの演目は「歓喜の歌」が入ったベートーベン第九以外は考えられなかった。楽器も、コーラス隊も限られる中、軍楽隊は、この「日本で初めて演奏されたベートーベンの第九」の実現に邁進していくのである。1918年6月1日、この演奏会が開催され、盲目のドイツ捕虜が、この演奏を聴きながら思い出すドイツの田舎の風景(恐らく、ドイツ滞在時、私が数限りなく訪れたハイデルベルグ城も含まれていたと思う)が映し出されると共に、日本のそれが被さっていく。脱走兵でパン職人のカルルは、松江に、自分はドイツに帰らず神戸でパンを作ると共に、志をを養女として引き取りたいと相談していたが、演奏を聴きながら志をもカルルと一緒に生きていくことを決断する。映画の最後、この鳴門での演奏場面から、現代のカラヤン指揮によるベルリン・フィルの演奏場面に移り、映画が終わることになる。1920年4月1日、この収容所は最終的に閉鎖されたという(奇しくもこれを書いている週の金曜日は、この日の102周年である!)。

 日本映画で、これだけドイツ語が多く語られる作品も珍しい。松平や國村らは、多くのドイツ語セリフのために相当訓練をしたと思われる。また多くのドイツ人俳優を集めるのも大変だっただろう。第一次大戦や、戊辰戦争の戦闘場面などを含め、金もかかった大作である。そしてこの映画は、会津藩とドイツの運命を重ねながら、人道的な捕虜収容所の運営を行い、日本人とドイツ人の交流を深めた松江の功績を称える作品になっている。それは、先日読んだ、第二次大戦下、日本が占領したシンガポールでの沼南博物館を巡る日本人・英国人・華人の協力を連想させる、悲惨な戦争の中で咲いた小さな善意の物語である。ただもちろん、志をとカルルの関係を含め、やや「お涙頂戴」的な演出や松江の「きれい事」が若干過剰である、という批判もネットでは掲載されているようである。また歴史的に見れば、ここで培われた日本とドイツの関係が、その後、日独同盟から第二次大戦に進んでいったのも皮肉である。しかし、それにも関わらず、これは単純に、一時は敵味方に分かれた日独による交流の一断面を楽しむことができる作品であった。友人に薦められた鳴門ドイツ館を含め、この作品の所縁の地を訪れてみたいという気にさせられたのである。

鑑賞日:2022年3月29日