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映画日誌
ドイツ映画
バーダー・マインホフ 理想の果てに
監督:ウーリ・エーデル 
 ここのところ何冊か読んできたドイツ関係本で紹介されていたことでメモしていた作品であるが、いざ観たところで、どの本で紹介されていたか確認しようとしたところ、その部分を見つけることができなかった。恐らく、戦後ドイツの抗議運動に関する文脈であったと思うが、書評メモには残っていない。いずれにしろ、戦後ドイツの左翼運動の行きついた先ということで、日本での連合赤軍事件と並んで語られることの多い話であるが、こうしてその運動と関係者を詳細に追った作品を観ると、日本のそれとは比較にならないくらい過激で、尚且つ事件に関与した人々が、逮捕された後も刑務所や裁判を通じて徹底的に闘っていた姿が確認できる。もちろん単純な反米・反戦・反帝国主義を標榜する運動自体は、結局は時代の流れの中で消滅し、多くの関係著作の中で語られている通り、環境やジェンダー問題などに傾斜しながら、より穏健ではあるが着実な形で現在のドイツに影響力を残すことになったことは言うまでもない。その意味で、この映画も半世紀前のドイツ社会を揺るがした極左過激派が引き起こした事件の記録という以上の価値はないが、それにも関わらず2時間半にわたりそれを丹念に追った制作者の熱意は感じられる。制作は2008年。ドイツ、フランス、チェコの共作で、監督はウーリ・エーデル。ネット解説によると、主演俳優の中では、リーダーの一人ウルリケ・マインホフを演じた女優が、大昔に観た東独シュタージの監視を描いた「善き人のためのソナタ」に出演していたマルティナ・ゲデックであるということであるが、全く記憶にはない。

 時は1967年。ドイツの最北、バルト海に面したジルトというリゾートのヌーディスト・ビーチでくつろぐウルリケ・マインホフと夫、そして幼い二人の娘の姿が、J.ジョプリンの「メルセデスベンツ」のBGMと共に映し出される。ウルリケは、新聞に論説を寄稿するジャーナリストで、イランのシャーのドイツ訪問への批判的な記事を発表する等、穏健左翼的ではあるが、それなりの社会的評価を得ている。そしてそのシャー訪問反対デモが警察に弾圧され、その混乱の中で学生オーネゾルグが警察に射殺される有名な事件が発生。その事件(6月2日事件)を受け、テレビ討論に参加しているウルリケは、「ドイツが警察国家であることを露呈した」と非難している。そしてそのテレビ番組を親と共に自宅で見ている、その後もう一人の赤軍女リーダーとなるグドルン・エンスリン(ヨハンナ・ヴォカレフ)は、牧師の父親に、ウルリケを支持し、政府や米国を批判する議論を吹っかけている。そのグドルンは、男性リーダーとなるアンドレアス・バーダー(モーリッツ・ブライブオロイ)らと共に、爆弾の製造やそれを使った百貨店や右翼系出版社であるシュプリンガー新聞社の放火や爆弾攻撃を始めることになり、そして彼らは一旦その放火容疑で逮捕される。ベトナム戦争やチェ・ゲバラの映像等と共に、ドイツでの反戦デモが警官隊と衝突し、あるいはルディ・ドゥチュケが煽情的な演説を行っている学生集会等が映されているが、ウルリケはそうした場を訪れ、ある時は警官に拘束されそうになったりしている。そしてはドゥチュケは右翼青年に銃撃され重傷を負っている。

 バーダーやグドルンの裁判が行われているが、そこでグドルンらは、反戦・反帝国主義の演説をぶっている。それを傍聴するウルリケも、彼らの主張に共感し、次第にグループと行動を共にするようになっている。1970年、裁判の控訴中にアンドレアスやグドルンはローマに逃れ、そこで今後の戦略を練るが、それは銀行強盗などで調達した資金で武器も調達した上での武力闘争である。一旦ドイツに戻った彼らは、ウルリケを頼り、そして交通違反で再逮捕されたバーダーを救うため、ウルリケも協力。そこで警備員等に重傷を負わせることで、ウルリケのグループへの参加が決定的になる。

彼らはヨルダンに渡り、そこでパレスチナ・ゲリラから軍事訓練を受ける。ただ、この訓練に対し、彼らは「ドイツにはない砂漠での訓練などは無駄だ。都市ゲリラの訓練が必要だ」と不満を言っている。またドイツ人の彼らは、休憩時に裸で日光浴をして、アラブ人から注意されているが、冒頭のヌーディスト・ビーチと同様、まさにドイツ人が出ていると笑ってしまう。その訓練には既にウルリケも加わっているが、彼女は、夫の不倫を理由に離婚し引き取った二人の娘をシシリー島に残してきており、子供への想いを絶ち来ることができないでいる(その二人の娘は、結局別れた夫が保護することになる)。

 こうしてドイツ国内に戻った彼らは、まず銀行強盗を繰り返し資金調達を進める。他方、連邦刑事局といった警察当局も対応を真剣に協議し、銀行口座を持たない人物を洗い出す等のローラー作戦を始めている。他方彼らは、まだ多くのドイツの若者が、こうした極左運動を支持しているので、そうした根本的問題を政治が対応しなければいけないとも呟いている。

 警察の検問を車で突破した仲間の女が警官に射殺される。その報復、ということで彼らの闘争は益々過激化し、フランクフルトの軍拠点、アウグスブルグ警察本部、あるいは裁判官の車等が爆弾テロの標的となっている。ウルリケは、こうした攻撃が、ベトナムやパレスチナでの闘いと連帯しているという論考を執筆している。しかし、警察のローラー作戦で、バーダー、ウルリケ、グドルンら多くのメンバーが逮捕され、ウルトリッヒ、ケルン、エッセンといった各地の刑務所に収容される。ドイツ赤軍派(RAF)と呼ばれる彼らの組織は壊滅したかと思われた。しかし、テロは終わらない。1972年、ミュンヘン・オリンピックで、イスラエル選手団の寮にテロリストが侵入し、解放過程でほとんどの人質が殺される事件が発生、ミュンヘン五輪は「悲劇の大会」として記録されることになる。ドイツの極左グループでは世代の交代が起こりつつあり、彼らは、バーダーら第一世代よりも益々過激な路線に向かっていくのである。

 こうした中、逮捕され刑務所にいるウルリケ等は、刑務所の待遇に抗議するハンガーストライキを始めるが、彼女は精神的に追い詰められていく。またハンガーストライキを行った男のメンバーが死亡するが、その葬儀には、テロによる傷から回復したドゥチュケも訪れ、「闘争は続く」と呟いている。1975年には、ストックホルムのドイツ大使館が過激派に襲われ、大使館員が人質となり、収容されているメンバーの釈放が要求されるが、当局は拒否。警察の急襲で過激派は殺されたり逮捕されるが、数人の大使館員も死亡する事件も起こっている。

 バーダーやウルリケの公判が始まるが、これは興味深いことに、公開の場で一般傍聴者も参加して行われている。そこで彼らは大声で自己主張を行い、裁判官を「ブタ」と罵り退場させられたりしているが、ウルリケの精神状態は益々不安定になり、バーダーやグドルンらとの関係も悪化している。他方、外界では、フランクフルトやハイデルベルグの米軍基地等が、テロリストの攻撃を受けている。

 公判が100日を越えると、受刑者の自殺も出始め、当局も自殺防止を検討することになるが、結局ウルリケも自殺することになる。他方無罪で釈放された女の一人は、新たな闘争を始め、検事総長や大銀行幹部の暗殺やドイツ経営者連合(日本で言うと経団連であろう)会長シュライヤーを誘拐したりしているが、この辺りの銃を乱射する襲撃は激しさを増している。しかし時のシュミット政権は、刑務所にいる幹部との人質交換は拒否している。マヨルカからフランクフルトに向かうルフトハンザ機のハイジャック事件も起こり、人質86人を乗せ、機長が殺された飛行機はキプロス、イエメン、ソマリアと彷徨うが、結局11人のテロリストは殺されるか逮捕されるかして、人質は解放されている。獄中のバーダーらは、次世代の闘争が多くの一般人を巻き込んでいることに懸念を示しているが、その流れは変わらない。しかし、結局ウルリケに続き、主要なメンバーも獄中で自殺して果てることになる。そして人質となっていた銀行家シュライヤーも殺され森の中に放置されるところで映像が終わり、タイトルバックのBGMにB.ディランの「風に吹かれて」が流れるのである。

 いやはや希望のない悲惨な事件の記録である。もちろん日本でも、丸の内の三菱重工爆破事件もあったが、連合赤軍は内ゲバ殺人を行った上で、最後は1972年の浅間山荘事件で息の根を止められたが、ドイツの場合は、爆破の規模や回数も、また要人の誘拐・殺人も日本の比ではなかったことが、改めて認識できる。そして彼らは、ベルリンの壁崩壊後、私のドイツ赴任の直前でも、1989年のドイツ銀行頭取爆殺事件(フランクフルト郊外)や1991年のドイツ信託公社総裁暗殺(ボン)等、1998年にRAFの解散が宣言されるまで、こうしたテロ事件を起こしていたのである。こうした自国民による極左テロ事件は、日本のみならず、米国やフランスでも見られない激しさであったが、これは、ある意味、ドイツ人の真面目さと同時に肉食動物的残虐性が合わさった結果ではなかったかと想像される。こうしたテロの実行犯は、その後はむしろアラブ系や右翼系に移っていると思われるが、いずれにしろ、右からにしろ左からにしろ、同じような事件がエスカレートする社会的・国民的要因は残っていると考えざるを得ないのが不気味である。

 そしてその第一世代のウルリケら、それなりの知識人が、当初は良心的な反抗心から運動に参画したが、その後は家族も捨てて、こうしたテロに突き進んでいったというのも、日本等にはないドイツの極左テロの特徴である。それはそれで個人的に悩んだ結果であった様子は映画の中でも触れられている。しかし映画に登場するドゥチュケ等もこうした過激化には反対であったことも知られているとおりである。その意味でこの作品は、虚しく闘われた、68年運動が生んだ負の遺産を、ドイツ人監督が「真面目に」総括した大作であったと言える。

この映画でも描かれている1972年のミュンヘン五輪でのテロ事件は、別にスピルバーグ監督の「ミュンヘン」の素材となっている。この映画も観ておかなければならないだろう。

鑑賞日:2022年9月17日