9日目 ヒトラーに捧げる祈り
監督:フォルカー・シュレンドルフ
また雨でテニスが中止になった午後、先日観た「名もなきアフリカの地で」と同様、最近読んだドイツ関連本で紹介されていたドイツ映画の内、レンタル店に取寄せ注文していたこの作品が丁度入庫したことから観ることになった。2004年制作のドイツ、ルクセンブルグ、チェコ共作映画で、監督のフォルカー・シュレンドルフは、初めて聞く名前で、俳優陣にも知った名前はない。
いきなり冬のナチス強制収容所での囚人たちの様子が映し出される。「神に祈りを」と呟いた囚人が看守に「神などいない」と殴り飛ばされ、また囚人たちは監視役の将校から、無理やりドイツの歌を歌わされたり、またある者は刑罰なのであろう、十字架に後ろ手で吊られている。そうした中で、囚人番号25639番の男が呼び出され「釈放だ」と言われている。監視役から「Guete Reise!」と声をかけられ、男は収容所を出る。そして1日目が始まる。
列車内で、みすぼらしい姿の彼は同席した家族の少年からパン切れを与えられている。そして彼は、1942年1月15日、故郷であるルクセンブルブに帰還し、二人の将校(一人は、その後彼とのコンタクト役となるゲプハルト少尉である)に車で送られ、妹を始めとする家族がいる家に案内されている。別れ間際、将校は「明日10時にゲシュタポ本部に遅れずに来るように」と釘を刺さしている。男はクレーマーと言う神父で、迎えた家族は、彼らが住んでいた家はナチスに収用され、また彼の不在時に母親が亡くなったことを伝えている。
2日目、クレーマーはゲシュタポ本部へ出頭し、ゲプハルトの部屋に通されている。クレーマーの前で、彼はダッハウ収容所に電話し、「クレーマーがここにいるが、彼は釈放ではなく、一時帰宅だ。もし彼が脱走したら収容された神父を皆殺しにしろ」と伝えている。そしてゲプハルトは、ユダヤ人であるクレーマーに対し、「お前の過去の反ドイツ的活動やパリでのレジスタンス協力、そして人種法反対の論文等全て調べてある。お前はユダヤ人の脅威を我々に教えてくれた」と告げるが、対応は取りあえず紳士的である。クレーマーが部屋を去った後、ゲプハルトは、上司から「クレーマーはローマ法王庁の信頼が厚いので、ルクセンブルグ司教の懐柔に協力させる価値がある。クレーマーをうまく使え。失敗したらお前は更迭される。」と言われている。そして帰宅したクレーマーは、家族に収容所での厳しい生活―それでも神父たちは少しは恵まれているーについて語りながら、彼を釈放したゲシュタポの意図について考えている。教会での祈り。メルシェという新しい書記との会話で、ローマ教皇はナチスと手を組んだことから、多くの神父の待遇が改善されているが、上司であるルクセンブルグ司教は、一切ナチスとの対話を拒否していると聞かされる。メルシュは、そのルクセンブルグ司教もナチスと組むのが賢明だ、とクレーマーに呟くのである。クレーマーは、名家出身の神父なので、ナチスとそのルクセンブルグ司教との連携を進める役割をゲプハルトから指示されていることが分かる。
3日目。再びゲシュタポ本部に出頭したクレーマーに対し、ゲプハルトが、共産主義がローマカトリック教会にとっての脅威であること、そしてヒトラーにとっても戦争に勝利した後の教会との関係維持は重要であることを滔々と述べ、ルクセンブルグ司教にナチスの教会政策を認める声明を出すことを説得しろと命じている。しかし、ゲプハルトから司教に渡すよう指示された手紙を持参し教会を訪れたクレーマーに対し、司祭は病気を理由に会うことを拒絶する。一旦帰宅したクレーマーは悪夢にうなされている。
4日目。ゲシュタポ本部を訪れた彼はゲプハルトに、司祭とは会えなかったことを報告している。ケプハルトは、ユダの裏切りが結果的にイエスの復活とキリスト教の成功を促したとし、司教の説得を再度強要するゲプハルトとの教理問答的な応酬。その帰途、クレーマーは、実業家であるがナチスに対するレジスタンス活動も行っている弟から、パリに逃げてレジスタンス活動に参加するよう促されているが、彼は拒絶している。その間クレーマーを見失ったゲシュタポは、彼の家の家宅捜索を行い、妊娠中の妹を拉致しようとしているが、そこにクレーマーが帰宅し、ゲンシュタポは去る。クレーマーは妹に「迷惑をかけて済まない」と誤っている。
5日目。クレーマーは収容所で僅かな水を求めて、仲間を犠牲にしたことを回想し後悔している。6日目。クレーマーはその懺悔を小文にしたためている。一方、ルクセンブルグ司教も、クレーマーと会いナチス支持を表明することは、収容所にいる多くの神父を救うが、バチカンとの関係を危うくすると悩んでいる。改めてゲプハルトを訪ね、司教と会ってもらえないと告げるクレーマーに対し、ゲプハルトは、「それでは、お前が司教を非難する手紙を書け」と返す。
7日目。クレーマーは自宅でルクセンブルグ司教を非難する手紙を書き始める。その上で司教を訪ねると、今度は彼との面談が許される。彼に、収容所での仲間の惨状を語るクレーマーに対し、司教は、ナチスに協力したオランダで、アーリア人以外の神父は全て追放されたという実態を説明し、やはりナチスへの協力を拒絶する。「あなたにユダになれとゲプハルトは言ったのか?」という問いにクレーマーは「そうだ」と答える。そして帰宅したクレーマーは、司教を非難する手紙を書き始めるのである。
8日目。雪の朝、妹と雪遊びをするクレーマー。そして盛大なパーティー中のゲプハルトを訪ね、彼の個室で封筒に入った手紙を手渡す。「君は賢い男だ。家族と収容所の仲間を救った」と満足するゲプハルト。しかし、封筒を開けて彼が見たのは白紙の紙であった。銃を向けるゲプハルトを無視し部屋を出るクレーマー。ゲプハルトは撃つことが出来ない。
9日目。クレーマーは収容所に戻る。持ち込んだ一本のソーセージを仲間にいきわたるように細かく切るクレーマー。そして「本名は異なるが、クレーマーは存在した。様々な国籍の聖職者がダッハウの「司祭区域」に送られ、そこで半数が死亡した。」そして「クレーマーは生き延び、1945年に本作の原作を書き上げた」というルビと共に映画が終わるのである。
いかにも「ドイツ」的な、真面目ではあるが暗い作品である。ローマ・カトリック教会と収容所で悲惨な状態にある神父仲間の間に挟まれ悩む男を描いたものであるが、その構図はやや図式的にも感じられる。そして最後は自分の良心に従いナチスを拒絶するのであるが、それにより彼の家族に対しその後どのような報復がなされたか、あるいは任務に失敗したゲプハルトがどうなったか等は語られることはない。取りあえず本人は生き延びたということであるが・・。また、ナチスへの協力をかたくなに拒むルクセンブルグ司教が、「ナチス支持を表明することは、収容所にいる多くの神父を救うが、バチカンとの関係を危うくすると悩んでいる」点も、やや疑問が残る。少なくとも、この時期バチカンのローマ法王庁では、ピウス13世が、ナチスを公に支持することはしなかったとしても、少なくとも沈黙を保ち、結果的にナチスの行為を認める結果をもたらしていたというのが私の認識である。ルクセンブルグ司教のバチカンに対する懸念は、公にナチスを支持することが、バチカンの沈黙に背くことになる、という懸念であったのだろうか?
この疑問について、やや長くなるが、大昔に読んだ大澤武夫著の「ローマ教皇とナチス」(「ドイツ読書日記・政治・ナチス」に別掲)を参照しながら、この映画の背景となるナチスとローマ法王庁との関係について見ておこう。この本では、第二次大戦の勃発直前の1939年に就任し1958年まで在位し、戦後は「ヒトラーの教皇」と言う呼び名もあったピウス13世(エウジェニオ)の経歴から、ナチス時代の対応までを分かり易く描かれている。まず要点だけ簡単に言えば、彼は、ユダヤ人迫害から虐殺に至るナチの蛮行につき十分な情報を得ていたにもかかわらず、また各方面からそれについて発言することを求められながら彼は沈黙してしまった、ということになる。
もう少し立ち入ると、19世紀後半、カトリシズムには「反ユダヤ」的傾向が強まっていたことが指摘される。この時期のローマ教皇ピウス9世は、いったんはゲット−から解放されたユダヤ人を再びそこに戻したり、「洗礼を受けた」ユダヤ人の子供を家族から連れ去り、強引にキリスト教教育を受けさせるなどして社会の批判を浴びたこともあったという。また彼を次いだレオ13世の下では、教会関係の出版物にユダヤ人の黒ミサの記事が掲載されたり、ユダヤ人批判のパンフレットが出されるなど、「ドレフュス事件」に象徴される社会全体の「反ユダヤ的傾向」に教会も便乗していた。そして1903年教皇となったピウス10世も、反近代化主義を推し進め、教会を社会から孤立させることになるが、この教皇の下で、エウジェニオは、教会法大全の編纂という大プロジクトの実務担当者として20代から40代の時期を過ごし、彼は、教皇庁、全カトリック教会における教会法の第一人者になっていたのである。そして、法律の専門家であるエウジェニオは、世俗国家とのコンコルダ−ト交渉においても中心的な役割を果たしていく。それはヴァチカン外交の枢要を占める役割であり、特に第一次大戦が始まると、人道援助活動も含め、彼はほとんど休みを取ることなく働き続け、この超人的な働きが上層部の注目を引くところとなり、第一次大戦終了直前の1917年5月、大司教に昇格すると共に、大使としてドイツに派遣され、休戦交渉にも積極的に関与したという。しかし戦後ドイツの混乱の中で、左翼革命家が公館に乱入し、銃を突きつけられた経験もあり、エウジェニオの中の、反左翼=反ユダヤ意識は否応なく強まっていったとも言われている。そしてヒトラ−が活動を始めた1925年、ヴァチカンはドイツ大使館をベルリンに移すが、結局彼は1929年に教皇庁の国務長官としてロ−マに召喚されるまで、足掛け12年に亘りドイツ大使として活動することになる。その帰国時期は、ちょうど、ロ−マで、教皇庁がそれまでのイタリア国家との断交状態に終止符を打つラテラノ条約をムソリ−ニと締結した時期でもあった。
こうして混乱と戦争の15年が始まる。ドイツでヒトラ−とナチが台頭する中、教皇ピウス11世やエウジェニオは、「ヒトラ−内閣成立直後におけるナチ政府の宣言が(表面的にではあるが)、キリスト教信仰の宣伝をしていることを高く評価し、ヒトラ−こそ、教皇庁が最も恐れ、憂慮している共産主義に徹底抗戦することを公言した、最初にして唯一の国家元首であると評価した。」まさにこうした「反共姿勢」とドイツに対する個人的思い入れこそが、既にナチによる教会弾圧が明らかになってきた状況下、1933年7月にドイツとの政教条約=コンコルダ−トを締結し、またその後教皇となったエウジェニオが、ナチのより大きな犯罪性が示された時にも、それから目を背け、現場の信徒や連合軍首脳からの度々の懇請にもかかわらず沈黙を貫き通したことの最大の理由であったと考えられるのである(ナチとのコンコルダ−トについては、批准直前にナチによる悪用を巡りエウジェニオが非難声明を出す局面もあったというが、結局批准は予定通り行われ、その後エウジェニオは心労で体調を崩しスイスに引きこもってしまったという。)。そして1939年3月、エウジェニオは順当な人事として教皇に就任し、教皇ピウス12世が誕生する。前任ピウス11世が、ヒトラ−批判の声を上げ始めていたのと対照的に、新教皇は、直ちにドイツ大使と接見し、自らのドイツへの思い入れを込めたヒトラ−への親愛の情を伝えることを要請するが、大澤は、その登位挨拶状は他の儀礼的なものとは明らかに異なっていたとしている。そしてその後、ヒトラ−の侵略が進む過程で、エウジェニオはひたすら「教会を守るためにヒトラ−との良好な関係を維持する」という主観的な思い込みによる「宥和主義」に徹し、「世俗勢力の一方に荷担することを避け」続けたが、その結果、ポ−ランドのみならず、ドイツ国内のキリスト教徒さえも見殺しにしたのである。大澤は、教皇となったエウジェニオに対し、戦争中もドイツを中心とした信徒や各国首脳から、ナチ批判を行うよう要請された事例の数々を紹介しているが、エウジェニオはそれらに答えることをせず、彼の反共意識は、独ソ不可侵協定で脅かされていたが故に、「バルバロッサ作戦」の開始は、再び「反共の砦」としての彼のヒトラ−への期待を回復させることになる。こうした共産主義に対する嫌悪が、彼を含め、この時代の政治家や教会関係者の情勢判断を誤らせることになったのは確かである。そしてそれは結果的にユダヤ人大量虐殺を含めた多くの犯罪に荷担する結果をもたらすことになったのである。また1943年9月、崩壊したムソリ−ニ政権に替わってナチがロ−マを占領し、親衛隊の指導の下、ロ−マのユダヤ人の強制収容所移送が実施された際、その報に接したエウジェニオは、ナチを表向きは非難することができず、ひたすら神に祈ることしかしなかったという。但し同時に裏では教会に逃げ込んでくるユダヤ人を内密で保護したという話もあり、この辺、大澤は、政治的な立場と個人的感情の相克に悩むエウジェニオにやや同情する議論を展開している。
こうして戦後、ピウス12世の「沈黙」を巡る論争が行われることになる。特に1963年からベルリンで上演されたドイツの劇作家R.ホーホフートによる「神の代理人」という作品は、ナチに対するこのエウジェニオの責任を正面から論じ、議論を呼んだという。ピウス12世自身は、1958年に亡くなるまで、在任中は何らユダヤ人に対する謝罪や遺憾表明をすることはなく、それは後任のヨハネス23世により行われることになる。教会としての権威の維持という観点からすれば、ピウス12世の沈黙はやむを得ない面もあり、またナチに対する中途半端な対応を批判されなければならないのは何も彼に限られる訳ではない。その意味で、むしろこの物語は、独裁と戦争の20世紀の中で翻弄された教会という組織と、そのトップに君臨した個人の悲劇として理解すべきであろう。60年代に始まったこの議論が、現在どのような位置付けとなっているかについては、大澤の本では触れられていないが、少なくとも個人的には、このエリ−ト教皇の姿勢は、近代の教会史の中で消しがたい汚点を残していると考えざるを得ない。エウジェニオの政治判断が、如何に苦しいものであったかは、それなりに想像できるとは言え、中世の暗黒の教会史を含め、こうした過去を総括して初めて、世界的権威を持つカトリック教会も、現代においてそれなりの道徳的権威を回復することができる、と考えるのは、私だけではあるまい。そして、その教皇のナチスに対する中途半端な姿勢に対し、それなりに「敢然」と立ち向かったのが、ルクセンブルグ司教であり、クレーマーであった、と考えると、2004年制作のこの作品が、この第二次大戦時のローマ教皇の姿勢に対する、現代における一つの評価であったと考えられるのではないだろうか?
鑑賞日:2023年5月29日