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ドイツ映画
マスターズ&スレイブス 支配された家
監督:オスカー・レーラー 
 この前に観た「ヒトラーに盗られたうさぎ」で父親を演じていたオリバー・マスッチが主役の映画というネットの解説で、これを取り寄せて観ることになった。マスッチは、以前に観た「帰ってきたヒトラー」(別掲)でも主役のヒトラーを演じているが、その作品で彼と共演したカーチャ・リーマンが、ここでもマスッチの妻役として共演している。これだけ多くの作品に出演しているところを見ると、恐らくマスッチというのは現代ドイツを代表する俳優なのだろう。今度ドイツ映画に詳しい方がいれば聞いてみたい。監督は、オスカー・レーラー、2018年の制作である。

 さて、この作品であるが、「帰ってきたヒトラー」と同様、やや気味の悪い「ブラック・ジョーク」的な作品である。整形外科医で脂肪抽出手術などを専門としているクラウスと、その妻で造園家のエヴィは、広い優雅な家で暮らしているが、エヴィは、仕事中に同僚が突然急死したことをきっかけに精神的に不安定になり、引き籠り生活をしている。それを危惧したクラウスが、酔った勢いでネットに「奴隷募集」という広告を出したところ、家の前に多くの奇妙な人々が集まってくる。彼らは帰したものの、遅れて現れたバルトスという男が、是非採用して欲しいと懇請する。彼は、かつてホテルを経営していたが倒産し職を探しているという、普通の外見や態度の男で、いろいろな技術を持っている上に、住みかと食事だけあれば給与はいらないという。それを受けて、クラウスとエヴァは、まずは一週間の試用期間で様子を見るが、食事の準備や家の管理も完璧にこなすことで彼を本採用することになり、彼の若い美しい妻ラナも一緒に家に入る。彼らは、クラウスとエヴァを「ご主人様」と呼び、主従関係を厳格に守るのである。

 こうして4人の生活が始まるのであるが、そこにアラブ系の奇妙な隣人との関係が挿入されている。バカ騒ぎのパーティーを開いたりしているその家の主はムファンマドという男で、彼は大学で、ニーチェ等の西欧哲学の勉強をしていたが、自国の反乱で、反乱軍と闘う矢面に立たされることになり、現在はテロリストに狙われながらドイツを拠点に活動している、ということで、クラウスとエヴァは、彼のパーティーにも参加している。

 バルトスは、家の治安を向上させるために監視カメラを各所に取り付け、また安いブルガリア労働者を使って、庭にプールを造ることを提案する。そしてその工事に当たっては、クラウスに、態度の悪い労働者の一人を「主人として」厳しく制裁することを主張し、それを受け、クラウスはその労働者を殴りつけている。また、バルトスは、パーティーで酔っ払ったクラウスにラナを差し出し、二人は肉体関係を持つことになる。

 そうこうしている内に、精神状態が回復したエヴァは、再び働き始め、またバルトスとラナの奉仕に満足しながらも、二人に対する厳格な主従の関係が、夫婦関係を変えてしまっているので、またクラウスと二人の生活に戻りたいと感じ、二人を解雇することになる。僅かな荷物と共に家を出るバルトスとラナ。しかし、その晩、バルトスからの携帯電話で庭に呼び出されたクラウスは、彼が殴った労働者がその工事現場で死んでいるのを見つける。更にバルトスは、監視カメラで捉えた彼の労働者への暴力行為やラナとの浮気現場の映像を見せながら、クラウスに、エヴァを殺し遺産を相続し、その家を明け渡すか、牢獄に入るかの選択を迫ることになる。バルトスの家での振舞は、これを準備するために周到に計算されたものであったのである。

 24時間の期限内にどちらかを選択しろ、というバルトスの脅迫に悩むクラウス。隣人のムファンマドにも相談に行くが、「脅されている」ということだけを告げ、詳細は語らず帰宅する。そして、仕事から帰宅したエヴァとベッドに入り、期限の深夜を迎えるが、何事も起こらず朝を迎える。庭で朝食を取る二人のもとをムファンマドが突然訪れ、クラウスを自分の屋敷に誘うと、そこには裸で拘束されたバルトスとラナがいた。ムファンマドによると、深夜に家の周りをうろついていた二人から話を聞いた上で、「親友」であるクラウスを助けるために二人を拘束したという。そして、「奴隷に対しては、相応の懲罰を加えろ」と言い、ピストルを突き付けながら、彼らを電動のこぎりで切り刻んで、今回の事件を忘れろと迫るムファンマドに、クラウスは「そんなことはできない」と叫ぶところで、画面は暗転する。そして画面は、クラウス家の庭で開催されているクラウス50歳の誕生日パーティーに跳ぶ。そこにはムファンマドも出席しており、「乾杯」と声を上げるクラウスに唱和するのである。

 階級社会である現代ドイツを皮肉った映画である、というのが一般的な評価であるようだ。そして、バルトスやムファンマドが、「主人であれば、目下のものは奴隷のように厳しく扱わなければならない」と言い、クラウスが、当初は戸惑いながらも次第にそうした「主人」としての態度に快感を見出し、そのように振る舞っていくところは、そうした階級社会が何時でも起こり得る可能性を警告しているように思える。それは、「帰ってきたヒトラー」で描かれたような、権威主義社会の再来に対する警告である。そして、結局それはバルトスが仕組んだ罠で、クラウスやエヴァは、そうした関係を終わらせようとすることで、窮地に陥っていく、というのは、意識しないうちに、そうした権威主義関係から逃れられなくなってしまう姿を描いた、と考えられる。

 しかし、どうもそうした理解だけでは落ち着かない不気味さがこの映画にはある。何よりも、映画の最後に、ムファンマドから、バルトスとラナを切り刻め、と命令され画面が暗転し、そしてクラウスとエヴァが普通の生活に戻るところで終わる訳であるが、この間について、敢えて映画が何も語らないことの意味が何なのか、という疑問が最後まで残ることになる。二人が普通の生活に戻ったということは、バルトスとラナを殺して排除した、ということだが、そうであれば、それも大きな傷を残すことになるが、そうした雰囲気は最後のパーティーでのクラウスには感じられない。そうであるとすると、結局クラウスらとバルトスらとの「主従関係」に貫かれた生活は只の「一時の夢」だったということになる。そうであれば、そうした「主従関係」は、現代社会ではもはやあり得ない、ということを言いたかったと解釈できるような気もする。いずれにしろ、そうしたわだかまりは消えることがない映画である。

 クラウス役のオリバー・マスッチについては冒頭で触れたが、妻役のカーチャ・リーマンは相当癖のある容貌の女優である。ただ当初のノイローゼで衰弱した様子から次第に回復した後は、それなりの美貌を見せることになる。そしてそれ以上に、若いラナを演じたリズ・フェリンという女優が、結構エロチックな存在感を放っていたのが印象的であった。いずれにしろ、「帰ってきたヒトラー」と同様、すんなりと理解できない、残尿感の残る作品であった。

鑑賞日:2023年7月19日