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映画日誌
ドイツ映画
フューリー
監督:デビッド・エアー 
(これは米国映画であるが、舞台がドイツということで、「ドイツ映画」として掲載する。)

 ここ一か月程映画からはご無沙汰していたが、先日ドイツ関係の集まりで久々に会ったドイツ時代の旧友から、そこが舞台となっているこの第二次大戦末期の戦争映画を紹介された。彼の説明では、この映画では、実際に戦闘に参加した本物のティーガー戦車で、唯一走行可能な一台が撮影に使用されたということであった。2014年11月公開の米国映画で、監督はデビッド・エアー、主演はブラッド・ピット等。ネット解説では、その他「シャイア・ラブーフ、ローガン・ラーマン、マイケル・ペーニャら豪華俳優が集った」と紹介されているが、ピット以外は、監督を含め初めて聞く名前である。

 1945年4月、第二次大戦末期のドイツに進軍する米軍戦車部隊。その内の一台、「フューリー(激しい怒り)」と主砲に書かれたM4シャーマン戦車を率いるドン・コリアー(ブラッド・ピット)は、北アフリカ戦線等で闘った後、Dデイ直後にノルマンジーに上陸し、ドイツに向かっている。しかし、ドイツの反撃も激しく、連合軍戦車部隊も多大な損害を出して、戦場は「戦車の墓場」のような様相を呈している。その戦闘でコリアー以下5人の乗務員の内、優秀な副操縦士レッドを失ったことから、補充で新兵のノーマン(ローガン・ラーマン)が加わることになる。ノーマンは、若いお坊ちゃん風で戦場経験もなく、コリアーや仲間から馬鹿にされ、またある時は捕虜となったドイツのSS将校を射殺するよう命じられ、抵抗したりしている。

 そんな彼らは、あるドイツの小都市の包囲戦に参加する。ドイツ軍との激しい市街戦を制してそこを占領したコリアーとノーマンは、あるドイツ人家庭の捜索で、そこに隠れていた二人の女と遭遇。その内の一人は若い美人エマ(アリシア・フォン・リットベルク)で、コリアーは、ノーマンに「この女を姦れ」と命令しているが、二人はむしろ気持ちが通じてベッドを共にしたようで、コリアーもそこでは紳士的に振る舞っている。そこに他の荒くれ仲間が闖入し、場は緊張するが、コリアーの一喝でそれ以上の狼藉は行われず、彼らは新たな任務のため部隊に戻る。しかしその直後に、ドイツ軍の攻撃があり、エマの家も砲弾が直撃、彼女は死亡し、ノーマンは気落ちすることになる。

 そしてコリアーの戦車は、新たなミッションとして、街道の十字路を確保する作戦に参加するが、そこに向かう過程の激戦―そこでは、米軍のティーガー戦車とドイツ軍のシャーマン戦車との一騎打ち等も描かれるーで、戦闘には勝利するものの、他の連合軍戦車は壊滅。そして唯一無線も通じなくなったコリアーの戦車は単独で目的地に向かうことになるが、目的地の十字路にあった地雷を踏み戦車は走行不能となる。そこに200-300人からなるドイツ軍部隊が進軍してくる。動かなくなった戦車で一人でも闘うというコリアーに、当初は戦車を捨てて退却しようとしていた他のメンバーも残り、僅か5人での、ドイツ軍部隊との鮮烈な闘いが繰り広げられることになる。そして最後はその内一人だけ生き残り、戦いの後そこを訪れた連合軍に救出され、彼はその重要拠点を守った「英雄」となるのである。

 正直、戦争映画は残虐な場面も多く、個人的にはあまり得意ではない。また最初は人を殺すこともできず、周りの荒くれ者から馬鹿にされていた新兵が、戦闘を続ける中で次第に逞しくなり、周りも彼に一目置くようになる、という展開も、やや通俗的である。またノルマンジー以降、圧倒的な戦力でドイツに侵攻した連合軍で、そうした戦車一台での単独作戦が行われたというのも、実話の様であるが、俄かには信じられない。更に俳優としては、ブラッド・ピットが、戦車隊5人の指導者として、数々の激しい戦闘を生き延びてきた不屈の精神力に加え、温かい心を備えたー更に彼はドイツ語もできるという想定で、エマらとは流暢なドイツ語で話している!―理想的な人物を演じているが、これもやや作り物に見えてしまう。しかし、この作品を観ながら痛感していたのは、こうした激しい戦車戦は、今まさにウクライナで(そして戦車同士の戦闘はないが、それが使われる戦闘はガザでも)繰り広げられているものであるということであった。もちろん戦車の性能も、またそれを攻撃する武器も、第二次大戦時とは格段に進んでいるーまさにウクライナにはドイツ製レオパルドなどの最新鋭の戦車が供与されているーだけに、その戦闘の激しさはそれ以上となり、またこの映画で描かれた以上に残虐な場面の数々が出現していることは間違いない。そうした戦争の悲惨さを改めて実感できたことが、この作品を観た最大の意味であったと思えるのである。しかし、それを止める個人的な力はないことは当然ながら、国際社会をもってしてもそれができないでいるということに、人間社会の変わることのない業を感じてしまったのであった。

鑑賞日:2023年11月23日