アジア・ドイツ読書日誌と
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映画日誌
ドイツ映画
パパは出張中
監督:エミール・クストリッツァ 
(この作品もドイツではない、ユーゴ作品であるが、中欧ードイツ圏という理屈から「ドイツ映画」として掲載する)

 最近読んだユーゴスラヴィア(以下「ユーゴ」)現代史についての新書で紹介されていたユーゴ映画で、1985年制作の作品。監督は、エミール・クストリッツァというサラエヴォ出身のユーゴ人、会話はセルビア・クロアチア語で、1985年のカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作である。彼は、その後1995年にも「アンダーグラウンド」という「人間臭いパルチザン」を描いた作品で二回目のカンヌ受賞をしているということである。ということで、こちらの作品は、以前からタイトルは知っていたが、今回初めてDVD を取り寄せて観ることになった。

 1950年6月のサラエヴォから映画は始まる。メキシカン・ギターの伴奏で「チキータ」という女を歌う悲しいメロディーがタイトルバックに流れる中、その村の男たちに囲まれてマリクという少年が登場する。彼は1944年11月生まれということなので、5歳ということになる。少年には両親の他に年上のミルザという兄がいて、森の木に登ったり、プロのサッカー試合のラジオ放送などを聴いたりして過ごしている。画面が変わり、列車の中で男がその愛人らしき女に、スターリンが写った新聞を見ながら「やり過ぎだ」と呟くが、愛人から「いつ離婚するの?もう2年よ」と責められている。その男はマリクの父親メーシャで、出張から家に帰ってマリクや妻のゼナらの家族に迎えられている。メーシャの愛人は、グライダーのパイロットのようで、街の郊外でのデモ飛行などを行っているが、それをアレンジした男は妻の兄ジーヨで、国家警察の関係者。愛人からメーシャが呟いた言葉を聞いた彼は、彼を事務所に呼び出して、逮捕が不可避であることを告げている。ユーゴがソ連指導のコミンフォルムから追放されたのは1948年6月で、スターリンが死ぬのは1953年であるので、この時期はユーゴが戦後の国家建設で最も厳しかった時代ということになるが、メーシャはスターリン寄りの思想を持っていると見做されたようである。男は、子供の割礼の準備ができているので逮捕は少し先に伸ばしてくれ、と嘆願している。

 こうしてメーシャの逮捕前の最後の行事としてのマリクの割礼が、家族・親戚が集まる中、暗い雰囲気で行われる。割礼というものが、まだ1950年に存在していたというのは、この地域の文化的特徴なのだろうが、割礼後寝ているマリクの枕元に親戚がお金を差し入れている様子などは、やはり違和感がある。そしてメーシャはマリクに「帰ってくる頃には元気になっていろよ」と言い残し「出張」に出かけていく。それから母親ゼナは、内職のミシン作業をする他は泣いてばかりだった、とマリクの口から語られる。そのマリクは、父親がいなくなってからは夜中に家を出て彷徨する癖が出て家族を心配させている。母親は国家警察の兄ジーヨを訪ね、夫の行先や差入れを依頼するが、彼は、「私は党の兵士なので何もできない」とすげなく言われている。兵役から戻った弟もゼナを慰めるが、彼女は、子供達には夫の不在は「出張」ということにしていると打ち明けている。マリクが家族と訪れた映画館では、チトー政権の躍進を喧伝する映画が上映されている。しかし、ある時その弟経由で父親からの手紙が届けられ、母親は「彼は生きている」と喜ぶのを見たマリクは、「まだ仕事が終わらないのでしばらく帰れないのであれば、家財を売ってパパに会いに行く」と心に決める、そして母親と3人で、父親が強制労働に従事させられているリブニッツァという町に列車で赴き父親と再会するのである。久し振りに愛を交わそうとした両親のベッドにマリクは潜り込んで邪魔をしている。

 自分が逮捕され、いつまで強制労働を強いられるのかは、(告げ口をした)愛人の体育教師に聞け、という夫の話を確認するため女に会うゼナ。しかし愛人は「そんなことは知るはずはない」と冷たく、二人は取っ組み合いの喧嘩をするが、マリクが女の腕にかみついて止めることになる。そして同居していたゼナの父親が亡くなったことで、母親は夫のいるスヴォルニクに移住する決意を固め、家財を摘んだトラックで、サラエヴォを出発する。途中の検問を、煙草の賄賂を渡して通過すると、途中まで迎えに来ていたメーシャと再会、トラックを小舟に乗せて川を渡り、彼の家での4人の生活が始まる。1951年9月。マリクは、父親の上司のロシア人の小さな娘マーシャに恋をするが、彼女は致命的な病気を抱えていた。他方ゼナは夫がその地で不倫をしていると疑い始め、メーシャは、その疑惑を晴らすためマリクを連れて「芸術と強要の夕べ」という集まりに参加するが、それは女たちとの浮気の会であった。父親のそうした姿を見たマリクは、女のスカートに火をつけたり、父親の不倫中に失踪したりして騒ぎを引き起こしている。夫の不倫を疑うセナとメーシャは大喧嘩をするが、マリクが止めて、また平穏な生活が始まる。そして学業で良い成績を収めたマリクは、学校の行事で知事にバトンを渡す大役を務めることになるが、チトーを褒める言葉で小さな間違いを起こす。父親はそれを上司に咎められるが、同時にスヴォルニクでの勤務は終了してサラエヴォに帰って良いと告げられ喜んでいる。病気持ちのマーシャは帰らぬ人となり、マリクの初恋は悲しみと共に終わっている。

 1952年7月のサラエヴォ。親戚の若者の結婚式と思しきパーティーで、父親メーシャが、義理の兄ジーヨに、「何で俺を追っ払ったのか?それは許すが、実の妹のゼナには真実を語ってくれ」と話している。しかしゼナは、兄にそれを問い質すことはない。そして、メーシャは、兄が泥酔している間に、今は義理の兄の妻となっている愛人に、「何故俺を売った」と問い詰め強姦している。その現場を見てしまうマリク。その愛人は、「ただあの時私は我慢できなかったのよ」と言い、一人首を釣ろうとするが果たせない。そしてパーティーは終わり、マリクの叔父は老人ホームに入っていく。「政治など糞くらえだ」と呟きながら。そしてマリクは朝焼けに染まる山並みを眺めるところで映画は終わることになる。

 国際映画賞受賞といった評価から期待して観た作品であったが、今一つピンと来なかった。まず父親メーシャの運命であるが、想定としては、当時ソ連のスターリンと既にに対立していたチトー率いるユーゴ政権について、愛人に、ソ連寄りと思われる批判的な言葉を呟いたことで、離婚をしないで関係を続けていた彼への不満があり、ミーシャの義理の兄である国家警察の男に密告したということなのであろうが、それが逮捕される程のものであるのかは釈然としない。また逮捕され、地方での強制労働に従事させられるという想定なのだろうが、これもそうした強制労働に従事しているという感じではなく、またそこでの管理者とチェスをしたり、何か不明な陰謀的な会合をやったりと、その地での行動がよく理解できない。そして、妻のゼナとの関係も、夫の不倫に疑惑を抱くと言っても、直ぐ仲直り売る等、余り現実感がない。子供の視点でそうした政治的緊張感のあったユーゴ時代の庶民生活を描いた、ということなのだろうが、それも余り説得力がある訳ではない。また、このサラエヴォは、セルビア人、クリアチア人、そしてモスレムが混在する中期で、その後1990年代の悲惨な内戦の舞台となった訳であるが、そうした民族問題も全く取り上げられていない。そんなことで相当残尿感が残った作品であった。同じ監督の「アンダーグラウンド」が手に入るかどうかは分からないが、もし観ることができれば、何とかこの残尿感を払拭してくれることを期待している。

鑑賞日:2023年12月4日