縞模様のパジャマの少年
監督:マーク・ハーマン
(この作品もドイツではない、英米合作作品であるが、「ナチスとドイツ人」を描いた映画という理屈から「ドイツ映画」として掲載する)
年末年始、多くの友人たちと会い、また先週は3年3か月振りのシンガポール滞在で現地の多くの友人たちとテニスや食事などを一緒した。そうした機会に聞いてメモをしていた作品であるが、あまりに多くの人々と接していたことから、誰かから薦められたか、今となっては記憶がなくなってしまった。年初のそうした催しが一段落した寒い週末、今年初めて観ることになった映画である。2008年英米合作で、監督は、マーク・ハーマン(英国人)という始めて聞く名前。俳優たちにも知っている名前はない。子供の眼を通してナチスによるユダヤ人強制収容所での、あるドイツ人家族の悲劇を描いた作品で、ジョン・ボインというアイルランド人作家のベストセラー小説の映画化ということである。
「子供時代とは分別という暗い世界を知る前に、音と匂いと自分の眼で事物を確かめる時代である」というルビと共に、1940年代のベルリンで、子供たちが学校から楽しそうに帰宅する様子が映される。その内の8歳の少年ブルーノは、瀟洒な屋敷に住み、そこで軍人の父ラルフ、美しい母エルサ、そして12歳の姉グレーテルと暮らしている。その日ブルーノが家に帰ると、両親から、父親が昇進して新しい任地に行くために引っ越しをすることを告げられ、ブルーノは友達と分かれることを寂しがっている。そしてラルフの昇進祝いも兼ねた豪華なパーティ(そこでは「ハイル・ヒトラー」が唱和され、父親は親衛隊員であることが示唆されている)の後、彼らは新たな土地に向かって出発する。彼らを乗せた汽車は広大な平原を抜け、最後は車で森の中にあるこれまた豪華な邸宅に到着する。両親はブルーノに「新しい家が気に入ったか」と尋ねるが、彼は友達がいない喪失感を拭うことができないでいる。
ブルーノは窓から見える「農場」に、同じようなパジャマを着た、子供を含めた多くの人々がいることに気がつき、そこに行って友達を作りたいと願うが、父に禁じられる。また家の召使いにも同じパジャマを着た老人がいて、ブルーノは、怪我をした際にその老人の治療を受けるが、その野菜を運んだり芋の皮を抜いているだけの老人がかつては医者だったことを知る。実は、父親ラルフの新しい職務はユダヤ人強制収容所の所長で、ブルーノが見ていた「農場」は、その強制収容所だったのである。
学校がないことから、新たな家庭教師の指導を受けるグレーテルとブルーノ。家庭教師のナチス教育(1924年〜37年の「ドイツ年鑑」を読まされたり、反ユダヤ教育等)を表面上受入れるグレーテルとは異なり、それに違和感を覚えるブルーノ。そして彼は「農場」から立ち上る煙と異臭に気がつきながら、密かに家を抜け出し、鉄格子で囲まれたその「農場」に向かい、その内側で休んでいた、同じパジャマを着た少年シュムールと言葉を交わす。彼が同じ8歳であることを知ったブルーノは、友達欲しさから彼の元に通うことになる。一方、母親もブルーノの孤独を心配しながら、「農場」が収容所であることに気がつき、夫にここを離れたいと詰め寄っている。
家のガラス食器を磨きに来たシュムールにパンを差し出すブルーノ。しかし、パンを食べているブルーノを親衛隊の部下に見咎められ、ブルーノは、「パンは貰った」というシュメールに対し、「勝手に食べた」と返してしまい、シュメールは親衛隊員から懲罰を受けることになる。改めて鉄格子越しに会った際に、ブルーノは、顔を大きく傷つけられたシュメールに謝ることで二人の関係は続く。家族は、ナチスが作成した「収容所では、収容者たちが快適な日々を過ごしている」という映画を観ているが、ベルリンでは連合軍の爆撃で、祖母が亡くなっている。そんな状況の中、母親エルサの説得を受け、父親ラフルは、その収容所近くの家から家族を転居させることを決めるのである。
シュメールから、「収容所に一緒にいた父親が急にいなくなった」という話を聞いたブルーノは、彼を傷つけた悔恨の情から「それでは、同じパジャマを着て、そこで一緒に父親を捜す」と申し出る。そして、家族が他の場所に移ろうというその日に、改めて収容所に赴き、シュメールが持ってきたパジャマに着替えた上、鉄格子の下に子供が通れる穴を掘り収容所に入るブルーノ。二人が多数の大人が収容されている部屋でシュメールの父親を捜している時に看守の招集がかかり、大人たちに紛れて二人も駆り立てられる。そして彼らは「シャワー室」に連れてこられるのである。「ただのシャワーだよ」と囁く大人と共に部屋に入る二人。一方ブルーノの失踪に気がついた両親と姉は、雨が降り始める中、収容所に向けて叫び続けるが、ブルーノを見つけることができない。そして彼らが悲嘆の涙にくれる中、囚人たちが脱ぎ捨てた「シャワー室」前の控室に大量に残るパジャマの様子が映され、この物語が終わるのである。
「子供の視点で見たナチス・ユダヤ人強制収容所」というのがこの映画の売りであるようだ。ただ、世界の動きを何も知らない8歳の男の子が、単に友達欲しさから収容所の少年と交流し、自分の僅かな嘘から彼が傷ついたことに後悔し、彼を助けようとしてガス室に至ってしまうというのは余りに単純であるという感じは残る。確かに、ブルーノとシュムールという二人の主人公の子役は頑張っていたが、8歳の子供であっても、鉄格子が意味するものは分かるだろうし、また親は、当然その収容所についての子供への教育はするのが当然で、それが分からないまま収容所に入ってしまうという展開にもやや無理がある(ネットの解説では、ナチス幹部の家族でさえ収容所で虐殺が行われていることを知らなかった、としてアウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの妻の例が挙げられているが、それでもそうした幹部の子供が収容者と接点を持つということはなかっただろう)。またドイツ人たちが流暢な英語で話をする「ナチス」映画(俳優は、子役を含め全て英米人の俳優である)というのも全く不自然で、やはり「ナチス」映画はドイツ語でないとリアリティがない。
そんなことで、その内容の悲劇性に比べて、あまり感情が高まるということはなかった。その意味で、これはナチスの虐殺から距離のあった英米人が作ったナチス映画ということなのであろう。同じような作品としてネットでは「ライフ・イズ・ビューティフル」が紹介されていた。これも、作品名は聞いているが、まだ観ていないことに気がついたので、次に探してみようと思う。
鑑賞日:2024年1月20日