オペレーション・ミンスミート
監督:ジョン・マッデン
(この作品も英国映画であるが、「ナチスとの戦争」を描いた映画という理屈から「ドイツ映画」として掲載する)
ここのところ、やや解釈が難しい映画ばかり観ていたこともあり、単純なエンターテイメント作で気分転嫁しようと思って、レンタル店の店頭で適当にこの映画を選ぶことになった。第二次大戦中の英国による「奇想天外」な作戦を映画化したという触れ込みで、制作・公開は2022年と、最近観た作品の中では比較的新しい。監督は、ジョン・マッデン、主演の二人をコリン・ファースとマシュー・マクファディンという俳優が演じているが、私は全て始めて聞く名前である。
1943年7月10日、英国の事務所で人々が祈りを捧げる場面から映画が始まる。そして6か月遡り、そこに至る経緯が展開されることになる。弁護士のユーエン・モンタギュー(コリン・ファース)が自身の弁護士廃業と軍需省での勤務(実際はMI5での勤務)とユダヤ人家族の米国への移住を送るパーティーを豪華なロンドンの自宅で開催している。そこには以降相棒となるチャールス・チャムリー(マシュー・マクファディン)が同席している。そして画面は変わり、チャーチルとルーズベルトのカサブランカ会談の報道と共にチャーチルが現れ、ナチスへの反攻のためには連合軍のシチリア上陸が必須であり、部下に対し、その作戦の犠牲を最小限にするため知恵を絞れと指示している。それを検討するMI5中心の「二十人委員会」にユーエンとチャールスが参加しており、MI5のイアン・フレミング(いうまでもなく、後程「007」シリーズの原作者となる男である)が考案したという囮作戦―「トロイの木馬」作戦―を提案している。その作戦は、水死した軍将校に「シチリア上陸作戦は囮で、実際の攻撃目標はギリシャだ」とする機密文書を持たせスペインの海岸に漂着させ、スペインの警察と現地のスパイを通じてそれをドイツ軍に伝達し、ナチスのシチリア警備軍をギリシャに回させよう、というものである。上司は「馬鹿げた作戦」と一蹴し、他の作戦を中心とするが、こちらも一応具体的な検討を進めるよう指示することになる。と、ここまで観たところで、これはどこかで聞いたことのある話だ、と気がつくことになったが、それは最後に紹介することにする。
こうして、二人による計画の具体化の過程が描かれる。対象となる死体(それは変死した、精神錯乱気味の路上生活者マイケルという男であった)の確保と、それが偶々戦死した英国軍将校マーティン少佐だと思わせるための恋人との書簡を含めた偽装工作。遺体発見後、彼が持っている情報を英国側が必死で取り戻そうとしている振りをしながら、それが確実に現地のドイツ・スパイを通じてヒトラーまで届けられるようにする仕掛け等々。その過程で、偽の将校と恋愛関係にあったことになることに同意し、自身の若い頃の写真を提供したMI5勤務の女性ジーン(ケリー・マクドナルド)による、死体の男と似た米国軍人の紹介と、彼女とユーエンが微妙な関係になる様子、更にはユーエンの弟が共産主義者でソ連と繋がっているといった疑惑や工作に使われる死体の姉が死体の引取りに現れたり、といった話が挿入されることになる。3月、英国によるその他の情報戦では、ナチスは依然シチリアが目標という見方を変えておらず、チャーチルもこの「ミンスミート作戦」(作戦名が「トロイの木馬」から変更さる)に賭ける決断を下している。
死体の腐食が進む中、作戦は時間との勝負となる。死体の将校が持つ、極秘指令の手紙や恋人からの手紙などが入念に準備される。死体は、「光学機械」としてホーリーロッホという英国潜水艦基地に移送され、そこでセラフ号という潜水艦で地中海沿岸のスペインにあるカディス湾で水中に投棄される。4月30日のことである。海岸に打ち寄せられる死体とそれを回収するスペイン人。そこにスペイン駐在の英国スパイが、死体の持っている文書を回収しようとする素振りを示し、ドイツ側のスパイも動き始める。その動きを追いかける英国情報部。書類を手に入れたドイツ軍も入念に検証するが、それらは本物と判断され、ナチス情報部ヘッドのフォン・レンネを通じてヒトラーまで上げられたようである。そして運命のシシリー上陸作戦が実行される冒頭の7月10日。作戦の成功を祈るユーエンやチャールスの下に、まず「最小限の犠牲で、海岸は占拠された」との軍部からの、続けてチャーチルから「ミンスミートは消化された」というメッセージが届けられるのである。
最後に関係者の後日談。ユーエンは、戦後家族と再会し、幸せな生活を送り1985年に亡くなった。ジーンは、シチリア上陸作戦に参加した兵士と再婚。そしてチャールスは1952年までMI5で要職を務め引退するが、この作戦については生涯沈黙を守った。最後に、死体として使われた男は、漂着したスペインのウエルバという町に葬られていたが、それから54年後の1997年、英国政府により、「マーティン少佐として、彼はその作戦に貢献した」という墓標が刻まれたことで、長く秘密にされたこの作戦が、事実であったことが明らかにされたという。
さて、冒頭でこの話をどこかで聞いたと書いたが、それは、かつて私が感動しながら全7冊を読んだ逢坂剛による「イベリア7部作」の第4巻「暗い国境線」(2007年10月読了。別途掲載の「シンガポール通信、2019年4月」をご参照)であった。
逢坂剛のこの小説は、スペインを主たる舞台にした諜報ミステリー・アクションで、日本、英国、米国、ドイツなどのスパイが入り混じりながら、第二次大戦前から戦後にかけて壮大に繰り広げられる物語である。この第四部「暗い国境線」では、連合軍による北アフリカ上陸作戦直前の1942年8月から、イタリアでムソリーニが失脚する1943年7月までの時期が描かれることになる。そしてそこでの大きな展開は、北アフリカの次なる大きな軍事目標である、地中海からの欧州上陸作戦をどこで展開するかを巡り、シシリー説、サルジニア説、あるいはペロポネソス半島説などが取り沙汰され、各国の当事者は、それを探る諜報活動を繰り広げることになる。そうした中で英国諜報部は、ドイツに対する一つの情報撹乱作戦を遂行する。この作戦を巡り、日本(北都)、英国(ヴァージニア、フィルビーら)、米国(シャピロ、ナオミ)、そしてドイツ(ゲシュタポと国防軍側のカナリスら)が交錯していく。
その情報撹乱作戦とは、死体を工作し、重要軍事情報を伝達する飛行機がスペイン沿岸の地中海で墜落し、その機密伝令情報がスペイン沿岸に流れ着く、というシナリオで、ドイツ側に偽情報を流そうというものである。(歴史的事実であるかどうかは分からないが、おそらくは著者の創作であろう)。ヴァジニアに横恋慕するMI5のモティマーが、この作戦に参加したことから、ヴァジニアは、この荒唐無稽の偽装工作に当初から巻き込まれることになる。原作小説では、しばらくこの時期の各国の詳細な戦時対応が語られるが、それは別掲を参照頂くとして、この「死体遺棄作戦」に絞ると、スペイン沖での死体放流作戦が実施され、次は、それを巡るスペインでのスパイ戦となる。トランクを回収しろという指示を受けヴァジニアは、ポルトガル国境に近いウェルバに跳ぶ。その頃、ナオミと会っていた北都を、ゲシュタポのスパイが襲い、ナオミを人質に、北都に対し、漂着した機密文書を入手しろと脅迫、北都も同じ場所に向かうが、死体を見た北都は、偽装工作の疑いを持つことになる。
ヴァジニアの返還交渉が手間取っているうちに、ドイツ側は機密文書を手に入れている。そして、既にナオミから、人質としての価値はヴァジニアの方が高いと聞かされたゲシュタポは、今度は北都をベルリンに拉致し、ヴァジニアに対し北都の命と引き換えに、死体とされている軍人が実在したかどうかを調べ報告するよう脅迫する。ヴァジニアはロンドンでその調査を行うが、ここでゲシュタポの連絡員と接触する。それは何とフィルビーであり、フィルビーも死体が本物かゲシュタポに報告するが、ヴァジニアの報告と異なっていた場合は、北都を殺す、ということになっていたのである。驚くヴァジニアに対し、フィルビーは、自分は二重スパイであり、ドイツには自分の確信と違う偽情報を送るのだ、という。二人は、こうして軍人の実在を確認するためロンドン市内を回るが、略確実に実在する、従ってゲシュタポには二人とも「軍人は実在せず、文書は偽情報。従って文書にあるサルジニア上陸作戦は囮で、本当の目標はシシリー」と逆の情報を流すことに略合意する。しかし、その場合は、偽りの情報であったことが判明した段階で北都は殺されるのである。そして1日の終わりに入ったパブで、偶然死体の写真と同じ、そしてヴァジニアが飛行の直前の観劇に同席した軍人と瓜二つのバーテンと遭遇してしまう。そして彼女は、これが囮作戦であるということを認識してしまう。国に忠実であるには、ゲシュタポには「軍人は実在する」と言わねばならない。するとフィルビーの報告と異なり、北都は直ちに殺されることになる。ヴァジニアは国に忠実を尽くすため「軍人は実在する」という苦渋の決断をするが、驚くべきことにフィルビーは同じ報告をしていた。北都の命は取り合えず救われたが、彼女はフィルビーの真意が分からず困惑することになる。しかしこの第四部の大団円では、空爆の混乱を利用しベルリンから脱出した北都がカナリスに助けられながらピレネー越えを成功させ、ヴァジニアと再会を果たすことになる。1943年7月、連合軍のシシリー上陸が敢行される。サルジニア上陸を装った情報戦が効果を発揮したようだ。上陸作戦の偽情報に怒ったゲシュタポは、ナオミを囮に、ヴァジニアと北都がいるマンションを襲うが、著者お得意の激闘の末、二人に殺される。そしてイタリアではムソリーニが失脚していくのであった。
ということで、この逢坂の小説第四部の書評の一部を長々と引用したが、まさにこの小説を読んだ時には、このスペイン海岸での死体遺棄作戦が、著者の創作であるのか、歴史的事実であるのか分からないままであった。しかし、今回の映画を観て、この「死体放置による撹乱情報の流布」という荒唐無稽の作戦が事実であったことを知ることになった。そして逢坂の小説は、まさに長く秘密にされていたこの作戦が公開されたことで、それをこの第四部の中核ネタとして使ったことを理解したのである。
逢坂の小説では、囮の上陸作戦は、映画のギリシアに対してサルディニアになっているといった若干の相違はあるが、概ね映画で描かれている工作がそのまま使われている。しかし、小説では、それに加え、主人公である北都のドイツでの拘束や、それを巡るヴァジニアの苦悩、そしてソ連の二重スパイであるフィルビーも登場(映画では、この役割はコーエンの弟が演じている)し、フィションとしての緊張をより高めることになる。他方、ドイツ側でのこの情報の真偽を確認する過程は、映画では時間の制約もあったのだろうが、やや簡単に描かれており、この過程は、映画よりも逢坂の小説の方がより構想力が溢れた創作部分を加え緊張感をもたらしていた。その意味で、映画も、イアン・フレミングを登場させたところなども含めーそれなりに面白かったとは言え、これにより更に逢坂の物語の迫力を再認識することになったのであった。逢坂がこの英国の極秘作戦を、恐らくは公表後ということではあろうが、どのように入手したのか、といった興味も残ることになったのだった。
2024年2月4日