ベートーベン捏造
監督:関和亮
ドイツ勤務時代の同僚から推奨されたもう一作。近所では上映館がなかったことから、みなとみらい地区まで足を運ぶことになった。ここのところ、この地域はジャズ・ライブで馬車道駅、講演会で新高島駅を使ったが、今回はみなとみらい駅で降りることになった。前の二駅と共に、何故かここのところ、この地下鉄の初めての駅を使うことが続いたが、この映画館も、ちらつく雨に濡れることもない駅直結の大規模ショッピングセンター5階にあるきれいな会場で、この地域の開発の進展を改めて感じることになった。
劇場公開はまさにこの9月。同名の原作本をもとに「バカリズム」というお茶らけた名前の芸人(今回初めて知りました)が脚本を手掛け、関和亮監督で映画化したとのことである。
普通の日本の中学校の放課後、忘れ物を取りに音楽教室を訪れた生徒が、そこでベートーベンのピアノ曲の練習をしていた音楽教師から、ベートーベンの姿について現代に伝わる話は後世の捏造であったという話を聞くところから、場面は19世紀初頭のウイーンに跳ぶ。1820年、既に名声を確立していたベートーベンにシンドラーという若者が接近する。彼はベートーベンに憧れていたが、実際に会ったベートーベンは薄汚れた衣服を着た、醜い中年男でがっかりする。しかし、彼はベートーベンからの「秘書にならないか?」という突然の誘いを受けて、彼の側近として公演のマネージメントから身の回りの世話まで始めることになる。しかし、ベートーベンの日常生活は外見以上に粗悪で、性格も気紛れ且つ癇癪もちで、シンドラーは苦労し、1年ちょっと経ち、ベートーベンが交響曲第9の指揮者としてデビューした公演の打ち上げで、収益の横取りを批判され秘書を解雇され、別の若い男にとって代わられることになる。その後バイオリンの演奏家としてうだつの上がらない生活をしていたシンドラーは、ベートーベンの逝去を機会に彼の伝記を書くことを思い立つが、既に別の側近が書いた同じ本ではベートーベンのそうした粗悪な姿が描かれているのを読み、「英雄はそれらしくなくてはならない」と信じて、ベートーベンの実像を隠した「崇高」な姿に満ちた伝記を出版。それに合うように、難聴であったベートーベンとの間で交わされた膨大な会話帳も、多くは処分、また残ったそれも大きく改ざんし、ベルリン図書館に寄贈するのである。
後年、彼によるベートーベンの伝記を読んだアメリカ人のセイヤーという研究者がシンドラーのもとを訪れ話を聞くが、セイヤーは、その後の会話録を含めた研究で、シンドラーの捏造を疑い、数年後改めて彼を問い質すが、シンドラーは「ベートーベンを批判するものを私は殺す覚悟であった。あなたは私を殺すことができるか?」と告げ、結局セイヤーもこの捏造につき公表することがなかった。この捏造が正式に判明するのは1977年になってからであったという。そして映画の最後は、中学校の放課後の生徒と音楽教師の場面に戻り、生徒が、そうした「英雄捏造」の社会的必要性につき何となく理解するところで終わるのである。
まあ内容的には、どうということのない話で、ベートーベンを演じる俳優も、その趣旨に従い、いかにも薄汚れた、性格も捩れた男になっている。しかし、この映画がそれ以上にお茶らけているのは、舞台である19世紀ヨーロッパのウイーン、フランクフルト、ボン、ベルリンなどは実際の街並みが使われ(マイン川上空から映された、かつて7年住んだフランクフルトの映像は懐かしかった!)、室内や登場人物の衣装等は全て当時のそれを模しているにもかかわらず、映じる俳優は、シューベルト、ショパン、ワグナーといった著名音楽家のみならず、エキストラもすべて日本人であるという点である。主演のシンドラー(そして冒頭と途中や最後に登場する音楽教師も彼の二役であろう)を演じる山田裕貴、ベートーベン役の古田新太、セイヤー役の染谷将太など、私は初めて接する俳優がほとんどであったが、彼らが19世紀の欧州人を演じるというアイデアが、この映画の肝であり面白い。ここのところ、結構多くの日本映画を観ることになったが、こうした日本の若手を含む俳優陣の多様さを知ると共に、それ以上に日本映画の発想の斬新さを感じることになった。なかなか日本映画も、その表現の幅を広げてきた、そんなことを思いながら、小雨の中家路についたのであった。
鑑賞日:2025年10月22日