アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
映画日誌
アジア映画
Fukushima 50
監督:若松 節郎 
 当地でのコロナ禍による規制の中、映画については、その他博物館やユニバーサルスタジオ等の遊興施設と共に7月1日にようやく解禁となった。ついては持て余す暇潰しに使おうと思っていたが、今度は見たい映画がなかったことから、結局解禁後一か月映画館に足を運ぶ機会はないままだった。しかし、今週初め、通勤のバスの中から、通りに掲げられたこの映画の宣伝を目にした。この日本映画については、全く知らなかったが、内容はもちろん容易に予想される。しかし、少なくともこれは見ておく価値はあるだろうということで、ハリラヤの祭日、約5か月ぶりに近所の映画館に向かった。

 午後1時50分の上映開始であったが、もちろん映画館は、コロナ対策から入場人数は制限している。しかし、約3分の1程の席は埋まっており、意外と観客は入っているという印象。入場制限がある中、こんな日本映画を見に来るというのは、シンガポール人も結構暇を持て余しているのであろうか、あるいは私と同様、他に目るべき作品がない中での消極的選択であったのか?

 ウエッブでの解説によると、この作品は日本では今年3月初めに公開されているようである。しかし、それはまさにコロナが拡大し始めたタイミングということで、日本でも上映が継続していたかどうかは分からない。少なくとも、こちらではようやく昨日(7月30日)から公開されたものである。

 東日本大震災による津波で致命的な打撃を受けた福島第一原発とその現場で体を張って闘った人々を、壮大なロケで再現している。当時、メディアでも頻繁に登場した原発の指揮官(吉田)を渡邊謙が、現場のヘッドを佐藤浩一(伊崎)が演じ、この二人を軸に津波による電源喪失から、メルトダウン、水素爆発、そして最後に危険視された第二原子炉の圧力が低下し、最大の危機が収まる過程までを再現している。監督は、ウエッブによると、「沈まぬ太陽」や「空母いぶき」等の大作でメガホンをとった若松節郎ということであるが、彼については、私は、全くなじみはない。

 被害が拡大し、危機が深刻化する中、吉田と東電本社、そしてその先にいる政府の危機管理チームとの緊張したやり取りや、佐野史郎演じる総理大臣(菅直人役)の独善的行動等が、現場視線で皮肉っぽく描かれているのは、映画のモチーフからして当然だろう。それは、外野席からの現場を無視した指示が、現場を苦境に陥らせる、というお決まりの構図である。他方で、現場の人間や彼らの家族、それを取り巻く被災地の住民たちへの視線は共感に満ちている。そこで織り交ぜられる個人的エピソードが、事故の緊張感の中に、一時の安らぎをもたらすのは、この手の作品の常套手段ではあるが、それは素直に楽しませてもらおう。そして、映画は、事故から約2年後、胃がんで逝去した吉田の葬儀での伊崎の弔辞と、その後訪れる、まだ帰還困難地域となっている故郷で満開の桜が咲き乱れる場面で終わることになる。ただその後、「2020年の東京オリンピックは復興五輪として、福島から聖火が出発する」というルビが出てくるのには、(もともと東京オリンピックの開催を前提に企画・政策され、このタイミングでの公開になったと思われるので)今となっては虚しさを感じざるを得ない。

 この歴史的な事故を、こうした形で映像化したことは十分評価できる。そしてそこで奮闘した数多くの人々に視線をあてた映画を、海外の観客にも見てもらうことの意味は計り知れない。我々日本人は、この事故を機会に、自らの問題として原発問題を考えざるを得ない立場に立たされたが、ここシンガポールでは、そもそも地震も津波も、そして原発自体も存在しないことから、ここの国民がこの映画を見て感じることは、恐らく我々日本人とは大きく異なるのだろう。原発がなくて良かったと思うのか、あるいは単純にある種の限界状況での人間の対応とその家族愛を楽しむのか?そのあたりを、これを見たシンガポール人と話してみたいところである。

鑑賞日:2020年7月31日