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アジア映画
スパイの妻
監督:黒沢 清 
 9月末の帰国後、初めて日本で見る映画である。

 引越し荷物も届かず、自宅・自室の整理も途上であることから、エンターテイメントはまだ本格的に開始する気にならない状態だったが、夕食で一緒した映画に詳しい友人から、最近の秀作の幾つかを薦められた。早速、それらの上映劇場と時間を確認したところ、この作品がウイークデイの朝も午前9時20分から上映されていることが分かった。偶々家族が旅行に出て、一人でゆっくり留守番をする週末を過ごした後の月曜日朝、それこそ衝動的に観に行くことにした。会場の映画館は、川崎駅前のSCの5階にある109シネマズ川崎。6年前、現在の自宅に移ってから初めての映画館に向かうことになったが、自宅から15分で、映画館の入り口に到着。早すぎて入場までも5分程、更に映画の上映までは25分程待たされることになった。シンガポールでやっていたように、今後はもっとギリギリのタイミングで行くことにしよう。

 さて、黒沢清監督のこの映画であるが、この9月初めにイタリアで開催された第77回ヴェネチア映画祭(新型コロナの影響で、多くの映画祭が中止、又はオンライン開催となる中、この映画祭は通常の形で開催されたという)で、銀獅子賞(監督賞)を受賞したことが、シンガポール滞在時に、日本のテレビの国際放送でも報じられていたが、帰国後はほとんど、そのことは忘れていた。言うまでもなく、現在の日本の映画界では、アニメ作品である「鬼滅の刃」が、邦画としては歴代最速で興行収入100億円を突破し、日本映画の過去最大を更新することも時間の問題と言われている(現在までの邦画での興行収入一位は「千と千尋の神隠し」の308億円である)。アニメ歌手が歌うこの映画の主題歌もオリコンで初登場第一位を獲得するなど、まさに映画界の話題独占状態である。そんな中で、この映画も霞んでしまっている感があるが、それでも国際映画祭での受賞作品ということで、辛うじて通の間ではそれなりの評価になっているようである。今年6月にNHKのBSテレビで放映された同名ドラマを、劇場版としてリメークしたものであるという。

 1940年代の神戸を舞台に、満州での日本軍による細菌(ペスト)兵器開発とその人体実験についての情報を得たことから、それを連合国側に持ち出し告発しようと試みる貿易商の福原優作(高橋一生)とその妻聡子(蒼井優)の姿を描く。見どころは、富裕な家の貞淑な妻であった聡子が夫のそうした計画を知り、当初は夫の愛と現在の優雅な生活を守るため、夫の暴走を止めようと試みるが、ある時点から夫の企みに身を任せ、そのために自らを犠牲にしていく姿である。その過程で、夫婦間のみならず、夫の信頼する親戚の若者との間で、数々の「騙し合い=裏切り」を繰り広げる。そして「リスクを分散するため」という優作の説得に応じ、怯えながらも、証拠となるフィルムを託され、一人米国行きの密航船に乗込む聡子。その最後の騙し合いがどう展開するかが映画の最大の山場であり、なるほどこう決着させたかと唸らせるが、これは映画のネタバレになるのでここでは記載しないことにする。

 優作役の高橋一生の感情を抑えた生真面目風な演技も光るが、それ以上に蒼井優が、深窓の令嬢から「売国奴」へ変貌していく様子を熱演している。蒼井については、昨年、日本への一時帰国時に、飛行機の機内で見た邦画「長いお別れ」で、認知症が進行する父(山崎勉)を見守る次女役で、初めて映画中で見たが、この時は、どこにでもいるような娘役で、それほど演技で注目させるような役柄ではなかった(因みに、この映画で長女役を演じた竹内結子がこの9月に自殺したのは、最近の「芸能人自殺」の話題の一つであった)。しかし、この作品では、夫への信頼に悩む女から、彼の説得を受けて、大きな不安抱きながらも夫に賭ける女へ変貌する様子を繊細に表現している。確かに、この役柄は、この映画の最後に語られる1945年終戦間近の彼女についての演技と併せ、中々一筋縄ではいかない難しいものである。この辺りが、よく聞かれるこの女優の演技力についての評判の根拠なのであろう。

 もちろん、多くのネットの「ネタばれ」投稿で触れられているとおり、突っ込み所はいろいろ見受けられる。そもそもこの夫婦のそれまでの日常や親を含めた家族関係に全く触れられていないことから、何で裕福な暮らしをしていた二人が、突然日本軍の狂気を告発することになるのかは釈然としない。また初期の時点で、聡子が、優作の信頼する親戚の若者を「売る」のも本作の「トリック」の一つであるが、その動機も、余り現実味がない。そして最後に付け足しのように挿入される夫婦のその後の運命についての説明も中途半端である。その辺りがNHK作品であることの限界なのであろう。途中、この計画の顛末がどうなるか、という緊張を維持することで観客を物語に引き込む二転三転する「トリック」が、この作品の映画祭での受賞要因の一つなのであろうが、もう一歩物語の現実感を持たせてもらいたかった、というのが正直な感想であった。

鑑賞日:2020年10月26日