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アジア映画
英雄の証明
監督:アスガー・ファルハディ 
(イラン映画をどのカテゴリーに入れるかであるが、ここではあえて「欧米系」ではない「アジア映画」として掲載させてもらう) 
 
 ここのところ、自宅でのⅮXⅮで観ることの多かった映画であるが、暇な連休中の一日、久し振りに最新作を渋谷のBunkamuraまで出向いて観ることになった。友人から推奨された作品で、私にとっては生涯で初めてのイラン映画である。監督はアスガー・ファルハディ。既に2回アカデミー賞を受賞しているイラン映画の巨匠であるという。本作も第74回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞している。

 イランというと、私にとってはホメイニ革命から始まり、イラン・イラク戦争、そして現在では核開発を巡る欧米との軋轢やサウジ・アラビアとの対立といった中東での政治紛争の一つの大きな要因を作っている国であるという連想が働くが、この作品では、そうしたこの国を取り巻く政治状況は一切映されていない。代わりに取り上げられるのは、この国の民衆の日常生活で、物語もその中で繰り広げられることになる。

 古都シラーズという街が舞台である。冒頭、郊外の砂漠に聳える岩石大地の遺跡発掘・修復現場を主人公であるラヒム(アムル・ジャディディ)が、親戚を訪ねて訪れるところが描かれる。この現場では、私が訪れた遺跡ではペトラ、訪れたことのないところでは、ISに破壊されたバーミアン(アフガニスタン)の大仏や敦煌のそれを思わせるような石造遺跡が映されている。しかし、「観光」映像はこれだけで、以降は、庶民の生活に移ることになる。

 ラヒムは、刑務所から「休暇」で一時的に出所したとの設定。彼は事業に失敗し、その際借金を受けた別れた妻の兄であるバーラムに告発され、有罪となり刑務所に収監されている。借金返済が出来ないという民事事件で、懲役刑となったり、それに「休暇」がある、というのはイスラム社会では一般的なのだろうか?

 その「休暇」で会った、再婚を考えている現在の恋人であるファルコンデが、偶然拾った金貨を差し出し、それを返済に使い、刑期を終わらせるよう勧めるが、その現金化のために訪れた貴金属店の評価では、借金完済には全く足らないことが分かる。そこで気が変わったラヒムは、むしろその落し主を探し返却しようと決めて、それが落ちていた場所の近所にチラシを張って回る。それを受けて、落とし主であるという女性が現れ、ラヒムの姉の家(そこには前妻との子ともである息子シアヴァシュがあずけられている)で、金貨はそれが入っていた鞄と共に、女性に渡される。

 偶々、そのチラシの連絡先が刑務所であったことから、所長がこの話を聞きつけ、刑務所の美談としてマスコミに流し、ラヒムは「正直者」としてテレビに出演するまでになる。そしてそれを見た慈善団体も、彼の善行を表彰すると共に、彼の借金返済を助けるための募金活動を行う。彼は一躍「英雄」として世間にその名を知られることになるのである。

 しかし、そうした動きは、ラヒムに借金を提供したバーラムにとっては面白くなく、慈善運動で集まった金も、初めは返済には足らないと受け取らないが、最後にしぶしぶ了解している。

 しかし、残金返済のため紹介された職場で、彼は本当に拾った金貨を持ち主に返したのか、それはただの作り話ではないのか、と問い詰められ、名前も聞かなかった落とし主の女性を探すべく奔走することになる。ようやく彼女を見つけた時には、ラヒムの行為は全てでっち上げであるという噂がSNSで拡散している。実際に金貨を拾ったのが、再婚相手であるファルコンデでありながら、彼女とは内密の関係であったことから、それを言っていなかったことなど、彼の当初の話の小さいな嘘がどんどん明らかになり、慈善団体も彼への寄付を別に使うことにする等、彼の立場が厳しくなる。そしてそうした噂を流しているのがバーラムであると考えたラヒムは彼を問い詰め、乱闘騒ぎになるが、その映像がまた出回り、益々彼は追い詰められていくのである。最後の手段は、ファルコンデが、刑務所関係者に依頼した、ラヒムによる慈善資金の受け取り辞退と、他人への譲渡、という奇策であるが、その宣伝の映像に吃音症の息子を使うことをラヒムが拒否したことで潰えることになる。結局、彼は、頭を丸め、刑期を全うするため再び刑務所に帰っていくのである。

 ということで、拾った金貨を持ち主に返却しただけの行為が、ラヒムを「英雄」にしたが、些細な嘘の積み重ねが結果的に彼の希望を打ち砕くことになる、というだけの話なのであるが、それをイランの庶民生活を背景にして展開したことが、この映画の評価に繋がったのであろう。イランの女性たちの日常は、あまり知られることはないが、ここでは、彼女たちが、様々な家族関係の問題を抱えながら、逞しく生きている様子が伝わってくる。また庶民の家族生活なども、欧米や日本の観客にとっては、それこそエキゾチスム溢れる光景である。そして現代イランでも広がっているSNSがもたらす悲喜劇。そうした伝統性と現代性を、イラン人の監督は、巧みに交錯させている。ラヒムの息子役の男の子が、吃音症という特徴を頑張って演じていたのも印象的である。政治舞台に出てくるイランではない日常世界。そこで一般庶民の家族が巻き込まれた悲喜劇として楽しむことができる作品であった。ということで、これを機会に、イラン関係の著作にも少し目を通して見ようかと考えている。

鑑賞日:2022年5月5日