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映画日誌
アジア映画
セブン・イヤーズ・イン・チベット
監督:ジャン=ジャック・アノー 
(アメリカ映画であるが、舞台がチベットであることから、「アジア映画」として掲載する。)

 フォーサイス原作映画が一段落したこともあり、前日に読了したチベットを舞台にしたこの1997年制作の作品を観ることになった。アメリカ映画で、アイガー初登頂で知られるオーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝を基にした実話で、監督はジャン=ジャック・アノー、主演はブラッド・ピットである。

 上記のチベットに関する2008年出版の新書(別掲)で、その時点でのダライ・ラマとのインタビューや反中国の抵抗運動に対する中国側の過酷な弾圧を改めて確認することになったが、この映画は、チベットがまだ「独立」を維持していた、しかし同時に外国人に対しては国を閉じており秘境であった1939年から始まる。

 1939年のウィーン。既に有名な登山家であったハインリヒ(ブラッド・ピット)は、ヒマラヤの未踏の山を目指した旅に出る。ナチスの旗が溢れるウィーン駅に見送りに来た妻は身籠っているが、ハインリヒにとっては登山の方が大事である。8000キロの旅を経てインドからヒマラヤに入り、登頂に臨むハインリッヒであったが、転落事故や雪崩により登頂は断念することになる。しかし、その時第二次大戦が始まり、「ドイツ人」のハインリヒら登山隊は、インドという英国領にいる敵国人として逮捕され、収容所に送られる。そしてその収容所にいる彼には、妻から、息子の出産の報告と共に、しばらく後には離婚届けが送られてきている。

 1942年9月、何度かの脱走に失敗した後、ついに、同僚のペーター・アウフシュナイダー(デヴィッド・シューリス)と共に脱走に成功。一旦二人は喧嘩別れするが、再び合流し、ヒマラヤ山系を彷徨った後、チベット国境に到達する。外人の入国を禁止することから、彼らは国境地域で止められるが、最後は何とか入国することができ、ラサで地元の有力者の助けも受けて、この地での滞在を始めることになる。有力者が差し向けた知的で美人の女仕立屋(ペマ)を巡るハインリヒとペーターの恋の鞘当て等を経て、ペーターとペマは1945年5月に結婚する。またその頃、街の商店の包み紙に使われていた新聞等で、D-Dayのニュースや、ドイツの同盟国である日本が中国で苦戦している様子、そして毛沢東率いる共産軍が中国で支配を固めていることも知ることになる。そんなある日、まだ幼い(彼は1935年生まれであるので、この頃は10歳前後ということになる)ダライ・ラマの実母の面会に同席する形で、この生き仏と対面する。そしてその後、彼の話し相手として、時折宮殿を訪れ、世界地理や車の運転などを教えたり、彼の意向を受けて映画館を建設する等、国の発展に貢献することになるのである。

 しかし、中国統一を目指す共産党はチベットの支配を進める。ラサにある中国代表部を通じて圧力が強まり、一旦はその代表部を閉じさせるが、その後北部から武力侵攻が開始され、ダライ・ラマもチベットが中国に制圧される不吉な夢についてハインリヒに語っている。そしてそれは現実となり、戦闘では、中国軍の圧倒的な戦力の前に、チベット軍はひとたまりもなく敗北していく。3人の中国軍将軍がダライ・ラマを訪れた際には、ダライ・ラマは彼らに非暴力の平和を説くが、彼らは「宗教は毒だ」と言いながら、平和を祈願して作った砂のマンダラを足で踏みつけるのであった。中国支配が進み、街には毛沢東の写真が掲げられる。ダライ・ラマは、ハインリヒのそれまでの協力に感謝をしつつ、彼はこの国から逃れるべきと諭す。そしてダライ・ラマの戴冠式を経て、ハインリヒは、ペーターとペマにも別れを告げ(別れの慣行であるバター茶は、ハインリヒは苦手である)、ラサを去るのである。

 ウィーンに帰った彼は、1951年、別れた妻が再婚者と息子ロルフと暮らしている家を訪ねる。会うことを避けるロルフが、彼が贈り物として持参したダライ・ラマから託されたオルゴールを楽しむのを、彼は扉越しに盗み見みしている。しかし、その後二人が一緒に登山する場面で映画が終わる。そしてルビで、中国のチベット進攻で100万人が死亡し、6000に上る僧院が破壊されたこと、ダライ・ラマが1959年に亡命、その後1989年にノーベル賞を受賞したこと、最後に彼とハインリヒの友情はその後も続いたことが表示されるのである。

 公開時に話題となった映画であるが、ネットによると、当然ながら、この作品に対しては中国側から様々な嫌がらせが浴びせられたという。それは、人民解放軍の将軍が意図的に無礼で傲慢に描かれているとか、チベット人を虐殺したように描いているというのが理由で、中国では上映は許可されず、また監督や主演の二人は、中国への入国の無期限禁止処分になったという(しかし、ブラッド・ピットは、2016年に主演作の宣伝で中国に入国した)。またハインリヒは、ナチス党員で、ヒトラーとも親交があったということで、西欧でもユダヤ系団体によるこの映画の上映ボイコット事件もあったとされている。

 そうした様々な話題に包まれた本作であるが、突っ込み所もいろいろある。まずは、二人が収容所を脱走した後、チベットに入るのを許されるまで、約2年ヒマラヤ山系を彷徨ったとされるが、その間、彼らが食糧を含めどのようにして生き残ったのかは、映画ではあまり語られていない。チベットに入り、彼らが民家の犬の餌に食いつく場面があるが、それ以前の彼らの生活は不明である。またそうした時期のピット演じるハンンリヒは、髭ぼうぼうでそれなりの悲壮感があるが、チベットでの生活が落ち着くと、あっという間にあの二枚目の好男子に戻ってしまう(ピットは、1963年12月生まれであるので、この映画の制作当時は34歳くらいであるが、あまりに美男子である。)というのもやや非現実的である。ペマが西欧風の衣服を仕立て、彼らがそれを纏って街を歩くというのも、やや違和感がある。

 それにも関わらず、映画で映されるチベットの風景は素晴らしい。ハインリヒが登る雪山や、それを望む広大な丘陵地帯等は、近隣諸国で撮影されたと思われるが、丘陵の山上に燦然と輝くポタラ宮殿やその中の仏教装飾の数々など、どのようにして撮影されたのか、たいへん興味深い。ネットによると、撮影場所は、ほとんどがアルゼンチンであったというが、一部ネパールで、また一部は撮影クルーが秘密裡にチベットを訪れて撮影された映像が挿入されているというが、それでもチベット風の街の風景などは、どのようにセットが作られのかは不明である。ブータン等もそうであろうが、こうした東洋の山岳地域は、西欧人にとっては(そしてもちろん私のような同じ東洋人にとっても)冒険心とロマンチシズムを満たす宝庫であるが、そうした期待を十分満たす映像となっているのは確かである。

 またこの映画のもう一人の主人公が、少年時代のダライ・ラマであるのは間違いないが、これを演じているジャムヤン・シャムツォ・ワンジュクという子役も、いかにも利発で好奇心に溢れたこの少年を巧みに演じている。この映画はダライ・ラマ自身による「自伝」も参考にしていると思われるが、これも今後眼を通してみようという気にさせられた。

 映画でも描かれており、また前述の著作でも書かれている通り、こうした世界が今や権力に押しつぶされ、その存在を消されようとしているというのは本当に残念である。その評にも書いた通り、現在87歳になるダライ・ラマが逝去する時には、改めてこの国(地域)が世界の関心を呼び覚ますことになろう。その時に、再びこの国(地域)の問題が世界的な規模で論議されることを期待したい、そう感じさせる壮大な映画であった。

鑑賞日:2022年5月15日