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映画日誌
アジア映画
スラムドッグ$ミリオネーラ
監督:ダニー・ボイル 
(イギリス映画であるが、舞台がインドということで、「アジア映画」として掲載する。)

 大失敗であった「キル・リスト」に懲りて、ある程度評価が知られている作品を探していたが、先に読んだ新書「インド人の『力』」(別掲)の中で触れられていたこの作品をまだ見ていないことに気が付いた。2008年制作、同年の第81回アカデミー賞で作品賞、監督賞など8部門を受賞したイギリス映画で、内容は概ね知られているが、週末の暇にまかせて観ることにした。

 そのインド本では、「インド系英語作家の世界的活躍」としてこの原作者と映画が紹介されている。原作者のヴィカース・スワループは、1963年生まれの外交官で、2015年に離任するまで5年ほど在大阪インド総領事館に勤務していたが、それ以前に出版したデビュー小説「ぼくと1ルピーの神様」がこの映画となり、その後も公務の傍ら長編・短編小説を書き続けているということである。そして映画は、監督がダニー・ボイル、主演のジャマール・マリクをデブ・パテル、その恋人ラティカをフリーダ・ピントといった俳優が演じている。もちろん、監督、俳優とも、私が知っている人はいない。

 話の大枠は単純である。ムンバイのスラム育ちのジャマールが、兄のサリームと共に過酷な少年時代を送る中で成長し、幼い頃出会ったが、その後行方知らずになった恋人ラティカを探す中でテレビのクイズ番組に出演し、そこで見事全問正解し、大金を獲得、ラティカとも結ばれる、というだけの物語である。しかし、その過程を、ムンバイのスラムや、そこでの孤児たちを餌にする大人たちの姿などを交え、赤裸々に描いているところが、この映画の見所である。

 2006年、青年ジャマールがテレビのクイズ番組に登場している場面、そして彼が警察で拷問されている様子が、ムンバイのスラムでの子供時代のサリームと兄ジャマールの姿と交錯する中で映画が始まる。最初の2つの画面は、彼がクイズ番組で正解を続けていることが詐欺の疑いを招き、警察に拘束され、尋問されているようである。ただ、彼の正答が、スラム時代の経験から得た知識と偶々合致していたことが示唆されている。

 まずはムンバイのスラムの描写が生々しい。人気俳優のサインをもらうために、サリームに閉じ込められた公衆トイレから糞まみれになって駆け付けるジャマール。あるいはモスレムと思われるジャマールの集落を襲う(おそらくヒンドゥー)の一派により殴り殺される母親。そして幼い少女ラティカとの出会いと、彼らのような孤児たちを集めた上で、眼を潰し、盲目の歌手として操る男(ママン)たち。兄弟とラティカはママンに拉致されるが、偶々通りかかった汽車でそこを一緒に脱出しようとするが、すんでのところでラティカは取り残され、男たちの手に戻っていく。逃れたジャマールとサリームは、何故かタジ・マハールに辿り着き、そこで観光客の非公式なガイド等で金を稼ぐが、このあたりは観客への観光ガイドも兼ねた表のインドの紹介といったサービスだろう。その間、ジャマールがクイズ番組で正解を重ねていく場面と警察での取り調べ(冒頭の拷問から、普通のそれになっている)が交差しながら挿入されている。

 ムンバイに戻った二人。少しだけ成長したジャミールは、ママンに目を潰された少年と再会し、彼からラティカが、街の売春宿で働いていることを知り、そこで彼女と再会する。一緒に逃亡を企てるが、子供の彼らを拉致した男ママンに阻止されたことから、ジャミールは彼を銃で殺し、ラティカを連れて逃亡する。が、ラティカを自分のものにしたいサリームに脅され、ジャミールは、二人と別れることになる。

 時は過ぎ、ジャミールは、コールセンターのアシスタントをしながら、ラティカや兄サリームの行方を、仕事場のコンピュータを使い検索している。テレビのクイズ番組もその職場で知ることになる。ムンバイの経済成長が語られる。今やムンバイはビジネスの中心となり、スラムは再開発され、高層ビルが次々に建設されている。コンピュータ情報で、その建設現場で働く兄サリームと再会するジャミール。その兄の情報で、ラティカが、今は、ある成り上がりの富豪に囲われていることを知り、彼の邸宅に、配送を偽って侵入し、ラティアと再会、二人で逃げようと説得するが、彼女は富豪への恐怖から首を振らない。「毎日夕方5時に駅で待つので、気が変わったら来て欲しい」と告げ、ジャミールは邸宅を後にする。そしてある時、駅で待つジャミ−ルの眼に、ラティカの姿が映るが、彼女は追っ手に拉致され、彼の目の前で車で連れ去られていく。車の中で、制裁のため、彼女の顔にナイフで傷がつけられている。その間、テレビでは、ジャミールが、1000万ルピーの問いに正答し、翌日の2000万ルピー(1ルピー=1.64円程度なので、32百万円くらいである)の最終問題の前に一晩休憩が入ることが告げられる。テレビ局を出たところで彼は、頭を覆われて拉致されるが、それは同時に進む警察による、彼の回答が詐欺なのではないかという疑惑での拘束であった。

 警察の疑惑も解け、再びクイズ番組の最終回答に臨むジャミールを、テレビを見た多くの民衆が熱狂的に応援している。ラティカも、金持ち男のパーティーで、そのテレビを見ているが、男はスイッチを切り替える。そこにいた兄のサリームは、ラティカに、民衆の熱狂に紛れ今すぐ逃げろ、と諭し、自分の携帯を与える。渋滞した道路を車でテレビ局に向かうラティカ。その間、サリームは、男たちに銃で撃たれ絶命している。

 そして最後の問い、「デュマの三銃士の3人目は誰か?」。兄がラティカに与えた携帯も、小道具として展開を盛り上げる中、ジャミールは見事に正答し、街が熱狂に包まれる。そして一躍ミリオネーラとなったジャミールは、ラティカと結ばれることになる。インド映画らしく、最後のタイトルバックは、ジャミールとラティカ、あるいは二人の子役同士が、インド音楽に合わせて踊りまくるシーンで、映画が終わることになる。

 私は、まさにこの映画が制作されていた2008年初め、仕事で初めてのインド滞在としてムンバイを訪れている。それは、映画の中でもムンバイがビジネスの中心として再開発ラッシュになっていると描かれている時代であるが、当然ながら私自身は、会議の会場と宿泊場所である高級ホテルの間を行き来するだけの滞在で、かつて「サラーム・ボンベイ」という映画で見たこの地のスラムを目にすることはなかった(ただその時私が泊まったホテルは、直後の2008年11月、パキスタンのテロリスト・グループによるテロ攻撃を受け、日本人駐在員も一人死亡したのは、今も鮮明な記憶として残っている)。そしてその後、2013年に観光でニューデリーからタジ・マハールを(「シンガポール通信・旅行」に別掲)、2014年には仕事で、ニューデリーとバンガロールを訪れたが、既にインドも、この映画で、主人公の少年時代の姿として描かれたそれとは異なっていた。その意味では、大昔に観た「サラーム・ボンベイ」のインド・スラム世界は、彼らの少年時代の中でのみ描かれているが、それでもそのインパクトは凄まじい。そしてそうした過酷な社会で孤児として生き延びてきた主人公が、一躍ミリオネーラとなり、少年時代に思いを寄せた女性と結ばれるというハッピーエンドは、特に欧米諸国から見るとエキゾチックなロマンを感じさせるのであろう。ただジャミールが、クイズ番組で、過去に何らかの形で触れたことのある質問に正答していき、最後に大金をせしめるというのはやや通俗的な展開である。そんなことで、映画で描かれている主人公たちの少年時代の古い、混沌に包まれたインドの姿を感じることが最大の楽しみである作品であると言える。

 偶々、映画を観た直後に、原作である「ぼくと1ルピーの神様」が、ブックオフで安く売っていたので仕入れてきた。この原作を読んだところで、改めて若干の補筆をしておこうと考えている。

鑑賞日:2022年5月28日