バーニング 劇場版
監督:イ・チャンドン
先週観た「国家が破産する日」で、ノンバンクの課長を演じていたユ・アインが主役の一人ということで、レンタル店で借りてきた。2019年2月の劇場公開作で、監督は、「シークレット・サンシャイン」「オアシス」で知られているというイ・チャンドン(「名匠」とのことであるが、私は監督名も監督作品名も初めて聞いた)の8年ぶり作品で、村上春樹が1983年に発表した短編小説「納屋を焼く」を原作に、物語を大胆にアレンジして描いたミステリー・ドラマということである。しかし、ここで小説家志望の青年ジョンスを演じているユ・アインは、「国家が破産する日」での、危機を契機に伸し上がる貪欲な金融マンとは全く異なる、自分の意志をはっきりと示すことのできない内気な青年を演じており、前作と同じ俳優とはとても思えない感じであった。ユ・アインの他、謎の金持ち青年ベンをスティーブン・ユァン(テレビ・シリーズ「ウォーキング・デッド」で知られているという)、ジョンスが惹かれる幼友達ヘミをオーディションで選ばれたという新人女優チョン・ジョンソがそれぞれ演じている。第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、国際批評家連盟賞を受賞したとのネット解説である。
アルバイトをしながら小説家を目指しているジョンスは、ある日、百貨店のキャンペーン・ガールをしていた幼馴染のヘミと偶然再会し、アフリカ旅行に行く間、彼女の部屋にいる猫の面倒を見てもらいたいと頼まれる。訪れたヘミの部屋で二人は身体の関係を持つが、部屋の猫は姿を見せないまま、ヘミは旅立つことになる。
半月後、ジョンスが、ナイロビでのテロの影響で帰国が遅れたというヘミを空港に迎えに行くと、そこで知り合ったというベンを紹介され、それから3人で会う機会が多くなる。実はベンはポルシェに乗り、豪華マンションに住みながら、派手な男女とディスコなどに繰り出す大金持ちであり、ヘミは明らかにベンに惹かれている。他方ジョンスのほうは、父親が、田舎(それは後ほど、北朝鮮との国境に近い場所であることが示唆される)で小さな畜産農場を営むが、母親は16年に家を出て行方知れず。そしてその父親も、農場のトラブルから、警官等に対する暴力行為等で逮捕され、裁判にかけられている。ジョンスは、父親不在のその農場の汚い家を時々訪れて、残された一頭の牛の面倒などを見ている。ただ、ベンは、ジョンスに、「ヘミは君だけが信じられる正直な人間だと言っている」と告げている。
ベンのポルシェで、ヘミが、ジョンスの農場を訪れる。以前にヘミはジョンスに、幼い頃、自分が家の近所の井戸に落ちた時に、ジョンスが助けてくれたという話をしていたが、牛の糞の香りのする家で、ヘミは「昔の家に戻った気がする」と言う。そしてベンの差し出した大麻を吸い、夕暮れが迫る中、上半身裸になり踊る場面が幻想的に映されることになる。ヘミが寝込んだ後、ベンは、ジョンスに、自分の欲求は、時々ビニールハウスに火をつけて燃やすことで発散されているとして、ここに来たのは次の目標の下見をするためだ、と呟いている。
ヘミとベンが帰宅した後、ジョンスは「近所のビニールハウスを燃やす計画だ」というベンの言葉が気になり、近所のビニールハウスを見回り始める。またジョンスには頻繁に無言電話がかかるようになるが、ヘミへの電話は通じなくなり、彼女の部屋も整頓されたまま誰もいなくなっている。彼女のイベント仲間に問い合わせても、彼女の行方は知れないままである。そして、幼いジョンスが焼け落ちるビニール・ハウスを眺めているという夢を見ながら、彼は、父親の古い汚いトラックで、ベンのポルシェを追跡し、ヘミの行方も探そうとする。その過程で、ジョンスやヘミを古くから知る食堂のおばさんや、16年振りに再会した母親などから、ヘミが落ちたという井戸の存在についての違った記憶を聞かされている。
そしてある晩、ベンのマンション近くで、彼の帰りを待っていたジョンスをベンが見つけ、丁度パーティーがあるので一緒に来い、ということになり、彼のマンションに入ることになる。そこのトイレには、かつてジョンスがヘミに渡した安い腕時計が保管されていることに気づいている。そしてベンが新たに飼いだしたという野良猫が、偶々部屋から逃げ出し、それを駐車場で捕まえた際に、結局姿は見たことがなかったヘミの猫の名前「ボイル」と呼んだところ大人しくなったことから、ジョンスは、それがヘミの飼っていた猫ではないかと疑うことになる。ベンは、ヘミの所有物を身近に置いている。それは彼がヘミを殺したことを示しているのではないか。ジョンスがそう思い始めていることが示唆されている。
そして大団円。裁判所では、父親の有罪判決が下され、ベンは、新しい女と過ごしている。そしてジョンスは、一頭だけの牛を売り、そして夢でヘミに局部を愛撫される夢を見ている。そして、田舎の畑にベンを呼び出したジョンスは、彼を刺し、そしてポルシャごと、ガソリンをかけて燃やすのである。自分の衣服も一緒に燃やし、裸でトラックを運転するジョンスの背後で燃え盛るポルシェが映し出され、映画が終わることになる。
なかなか解釈の難しい映画である。ジョンスに、「近所のビニール・ハウスを焼く」と予言したベンに、ジョンスは「どこも焼けていない」と言うが、それに対しベンは「近すぎて分からないこともある」と答える。私は、それはジョンスの農場が燃やされているということだと考えたが、結局彼の農場を含め、最後までビニール・ハウスは燃えず、燃えるのはジョンスが殺したベンと彼のポルシェだけである。また映画は、ベンがヘミを殺したことを示唆しており、それ故にジョンスがベンを殺すことになるように描かれているが、彼女の失踪の真実は最後まで明らかにされない。更に気の弱い内気なジョンスが、その殺人に至る経緯も、余り説得力はない。ただそうした「何気ない流れ」がこの作品のモチーフであると言ってしまえば、それまでなのであるが・・。
繰り返しなるが、ジョンス役のユ・アインが、「国家の破産する日」とは全く違う性格を演じているのが最も印象的であったが、主演女優のチョン・ジョンソも、夕闇の中での裸の踊りを含めて体当たりの演技を披露している。韓国映画のまた別の側面を観た気がした。
尚、原作である村上春樹の「納屋を焼く」を、私は読んでいない。今回、この映画を観た後に、ネットで、その原作の意味合いと映画との関連についての解説も目にしてしまったが、それは、改めてこの原作小説を読んだ後で追記したいと考えている。
鑑賞日:2022年8月12日
(追記)
ということで、早速この映画の原作である村上春樹の短編「納屋を焼く」(短編集に収録されている一作である)を図書館で借りて読むことになった。まず驚いたのは、この小説が、単行本で22ページの、それこそ「短編」であり、数10分で読み終えてしまう。こんな小品から、上記の映画を構想した監督の創造力には敬服する。
その原作であるが、当然ながら設定は映画と全く異なっている。ジョンス役にあたるのは、著者を想像させる、「小説家(の「卵」ではない)」で、住んでいるのは現代日本の都会の郊外である。その小説家は既婚で、特段問題を抱えた両親などが登場する訳ではない。ヘミ役にあたる若い女性は、その日暮らし的な気儘な生活を営み、パントマイムを習っており、そして最後に忽然と消息を絶ってしまうという点は映画と同じであるが、映画では大きな小道具となっている飼い猫は全く登場しない。そしてベン役の若い金持ち男性は、まあ映画の印象と同じであるが、派手な男女を集めた遊びの様子などは、小説には全く登場しない。そしてこの原作と映画の決定的な違いは、最後のジョンスによるベンの殺害と放火で、小説は、男の「納屋を焼く」という言葉を心に停め、焼け落ちていく納屋を想像しながら、小説家がその候補と思われる納屋を見つつジョギングを行うだけの静かな終わりを迎えることになる。
小説の肝は、映画と同様、女と小説家の家を訪れた男がマリファナを吸い、女が寝込んだところで、小説家に口走る「納屋を焼く」のが「自分のモラリティーの証」で、それは「同時存在のかねあいのことだと思う」と述べる1ページにも満たないところにある。しかし、村上がこの小説で表現したかったのはこれだけなのだろうと想像はできるが、それはにわかには全く理解できない。昔読んだ彼の「羊を巡る冒険」であっただろうか、二つの物語が同時並行的に進む小説があったが、彼の言う「同時存在」とは、そうした存在の多源性と、それを想像する力、ということなのかもしれないが、それでも何故この小説で、それが表現されているのかは理解不能である。予言にも関わらず焼け落ちない納屋。しかし別の世界ではそれは確実に焼け落ちている、ということなのだろうか?
いずれにしろ、こうした不可解な発想の短編小説を、韓国の田舎を舞台として大きくデフォルメすることで、2時間強の映画に仕立てた監督、そして脚本家の構想力には改めて敬意を表したい。しかし、映画でも呟かれている「同時存在」の意味は依然理解不能で、それが映画での殺人とどう結びつくかも分からないままである。この映画を巡り、賛否両論が渦欠いたというのも納得できるところである。
2022年8月13日 追記