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ドライブ・マイ・カー
監督:滝口竜介 
 村上春樹原作で、「ノルウェーの森」を含め、彼が頻繁に使うビートルズの同名曲からの連想となると、やはり観ておかなければならない。しかし、第94回アカデミー賞での国際長編映画賞を始めとする内外の各種の映画賞を受賞したことを含め、2021年の劇場公開時に大きな話題となったことで、「ミーハー」的に捉えられることから踏ん切りがつかないでいた。しかし、公開から1年もたたずレンタルが出たこともあり、結局手に取ることになった。映画通の友人に言わせると、「お前の趣味に合う作品ではないので、途中で寝るなよ」と言われていたが、雨で、予定していたゴルフも、代わりに急遽入れたテニスも中止となった金曜日の午後、この3時間近い作品を「寝ること」なく観終えることができた。監督は滝口竜介で、彼による商業映画としては第3作目であるという。

 一言で言えば、「喪失と再生の物語」。成功した俳優・演出家の家福悠介(西島秀俊)は、脚本家の妻である音(霧島れいか)と二人暮らしであるが、彼らは一人娘を4歳で肺炎で亡くしている。悠介は、愛車(サーブ9.0ターボ)の中で、音が、自分の部分を除いて吹き込んだテープでセリフを覚える習慣がある。また音は、セックスの高揚感の中で物語を紡ぐ癖があり、自分はすぐ忘れてしまうが、悠介がその後改めて語ることで脚本のネタにしている。冒頭でも、悠介との激しいセックスの後で、音が「想いを寄せる高校生の自宅に空き巣に入り、その男子生徒の部屋に自分の痕跡を残す」女高生の話を呟いている。男子生徒の部屋に裸で横たわる女子高生は、そこで誰かが帰宅し部屋に向かって階段を上ってくる気配を感じている、というところで音の語りが終わる。しかし、その音は、ある時悠介が出張フライトのキャンセルで帰宅すると、男と交情の最中であった。しかし悠介はそれを咎めることなく、そっと玄関の扉を閉めて出ていくのである。そうした二人の生活は、ある日、音が突然脳梗塞で死去することで終わる。ここまで約30分。そして映画は、ここで初めてオープニングのタイトルバックが映され本編に入っていく。

 音の逝去から2年後。悠介は広島での演劇祭で演じられる「ワーニャおじさん」のオーディションと演出を任される。既に冒頭で、悠介が登場する複数の言語で演じられる舞台が映されていた(それはベケットの「ゴドーを待ちながら」のように思われる)が、この舞台も同様で、オーディションにも、日本のみならず韓国や台湾の俳優も参加し、複数の言語でオーディションが行われる。ある韓国女優の場合は、手話のみによる演技である。またこの演劇祭の期間、悠介は事故防止のため自身での運転は禁じられ、専任ドライバーとして若い娘みさき(三浦透子)を紹介される。初めは自身での運転に固執していた悠介であったが、直ぐにみさきの運転に心地良さを感じることになる。みさきは北海道の田舎で、札幌で水商売をしていた母を13歳の頃から近隣の駅に1時間かけて送り迎えをしていたが、その時に母に怒られないような丁寧な運転を習得した、という。悠介の宿泊している瀬戸内海の島に至る美しい景観が映し出されている。

 こうして、以降はオーディションにより選ばれた俳優による演技訓練が続くことになる。その中には、生前の音から紹介された若い俳優高槻(岡田将生)がいるが、彼は悠介が目撃した音の浮気現場の相手であり、悠介もそれを分って採用したかのように描かれる。また手話のみの韓国人女優は、この演劇祭の企画・管理を行っている韓国人の妻であることが明らかにされたりしている。そして応募した役割ではなく、主役のワーニャを演じることになった高槻に対し、悠介は厳しい指導を行い、そのため悠介と二人の会話の機会も多くなっている。その間、みさきは淡々と運転を続けるが、ある時、悠介が高槻とぶつかった後、「気分転換したいので、どこか広島の適当な場所に連れて行ってくれ」というのを受け、海岸沿いの大きな最新型のゴミ処理場に案内している。ここはネット解説によると、原爆ドームと原爆死没者慰霊碑を結ぶ「平和の南北軸」の延長線上にあり、処理場の設計者は、その線を遮らないために建物の中央を吹き抜けにして海まで抜けるようにしたという。それは映画の中ではみさきの口から語られているが、ネット解説によると監督の原口がこの作品を広島を舞台にすること決めた一因でもあったということである。

 悠介と高槻の間では、音の寝物語の「空き巣女子高生」の話の続きを含め、いかにも高槻が音と関係を持っていたような会話が繰り広げられているが、悠介は高槻の演技の向上は評価している。しかし、そろそろ本番も近くなった舞台稽古の場に警察官が現れ、高槻が、悠介と二人の写真を撮影した男を咎めたことに腹を立て顔面を殴打し、その結果致死にいったことで逮捕されることになる。公演中止か、悠介自身がワーニャを演じるか。2日間の猶予をもらった悠介は、みさきに故郷を見せて欲しいと頼む。みさきは悠介に、土砂崩れで埋まった家の中から助け出すことができた母親をそのまま死なせた、という自身の悔いを語っていたのである。みさきの運転で広島から北海道への長距離ドライブ。そして雪に埋まったそのみさきの故郷の廃墟の家の前で、二人は改めて生きていくことの重みを感じることになる。そして広島に帰った悠介は、自身でワーニャを演じる決断をする。その最後の場面は、悠介演じるワーニャに対する手話女優だけのセリフで静かに舞台が終わり、それが観衆の大きな拍手に包まれるという演出となっている。映画は最後に、犬を車に連れたみさきが韓国のスーパーで買い物をする場面で終わることになるが、これは彼女が、韓国人と手話女優夫妻の専属運転手となって韓国に渡ったということを示唆しているのだろう。しかし、彼女が悠介の愛車であったサーブを運転しているというのは何故なのだろうか?彼の再生を助け、その車を大事に運転することができるみさきに、悠介がそれを贈ったということなのだろうか?

 臭いと言えば臭い作品である。特に、音の浮気現場を目撃した悠介が、「愛する故に」何も咎めず、その後の生活を続けていく、という設定が大いに不自然である。更に、その音が脳梗塞で突然死、というのも、やや安易な設定である。ただそれさえ受け入れてしまえば、幼い娘に加え、妻も失った悠介のそうした喪失感は理解できる。そして、演劇祭で苦難に直面した悠介が、愛車を大事に運転するみさきから、愛憎共存していた母親を土砂で崩壊した家から助けなかったという話を聞き、その現場を訪れることで「再生」する、という展開は、予想できるものであったが、それなりに感動的であった。

 主演の西島秀俊は、以前に私の大好きな大坂剛の「百舌」シリーズの映画版で、冷徹・非情な倉木刑事を演じていたが、ここではやや線が細く、悩める俳優・演出家という設定である。陰がある、ということでは共通する役柄ではあるが、こちらの方が、彼の雰囲気には合っているような気がする。もう一人の主役みさき役の三浦透子は、メイクも含め、あえて「ブス」という設定にしたのだろうが、出しゃばらず淡々と仕事に打ち込む役柄を好演している。その他、音役や演劇祭の女優陣は、逆に美形を揃え、映画にそれなりの花を添えている。
 
 この作品をもっと理解するには、村上春樹の原作とチェーホフの「ワーニャおじさん」は読むべきなのだろう。ただ村上の原作は探すつもりであるが、チェーホフは読む気にならない。恐らく友人が「お前の趣味の映画ではない」と言ったのは、チェーホフなど触れたこともなく、触れる気もない私の性格を分った上でのコメントであったのではないかと思う。実際このチェーホフの原作は、映画の劇中劇でもう十分というのが正直なところである。他方で、村上原作の映画版「ノルウェーの森」も実は観ていないことに気が付いたので、この機会に観ておきたいと考えている。

鑑賞日:2022年9月2日

(追記)

 この原作小説を、友人から借りて読むことになった。同じ村上春樹原作に基づいた映画「バーニング 劇場版(小説の原題は「納屋を焼く」)」もそうであったが、原作小説を大きく換骨奪胎させている。まずは、小説と同じところと大きく異なっているところを抜き書きしてみる。

 俳優である家福が、自分の愛車サーブ900コンバーティブルを運転できない事情が生じ、彼の専用ドライバーとして、「ひどくそっけない顔をして」、煙草を絶えず吸う20代半ばのみさきが雇われる。映画と同様、北海道の僻地で一人娘として育つが、父は早く家出し、母親からは「あなたが醜いので父親は去った」と言われながら育ったという。その彼女の運転は確かで、その車の中で、家福が心地良さを感じながら、みさきに、若くして子宮癌で急逝した妻について語ることになる。その思い出の中心は、妻の浮気相手である高槻との交流で、妻の死後、家福にとっては数少ない友人として時折話すことになったこの妻の不倫相手である男に対し、家福は心の底では復讐することを考えていたにも関わらず、何故か実際にはそれができず、友人としてしばらく付き合った後に、何気なく音信がなくなることになったという。そして家福は、今でも妻を深く愛しているということを感じている。この辺りは、映画でもそのまま使われており、愛する妻を急に失った男が、妻の不倫相手も許してしまうという物語になっている。車中で、セリフの稽古のため聴くカセットテープが、チェーホフの「ワーニャ叔父さん」であるのも映画と同じである。

 映画と異なるのは、まず妻が、美貌の人気女優であり、高槻を始めとする彼女の不倫相手は共演の俳優であったという点。。映画では、妻は脚本家で、その作品の出演俳優が相手であった。また高槻は、原作では40代初めの中年俳優であるが、映画では若い新進俳優という設定になっている。妻の死因も、映画では心筋梗塞での即死である。そして高槻との出会いは、映画では、生前の妻が軽く紹介した時以外は、彼女の死後、家福が指導者となっている映画祭での「ワーニャ叔父さん」のスタッフ選定に高槻が応募し、家福が主役に抜擢したことによると、大きく変えられている。その高槻が本番直前に警察沙汰を起こし、舞台から降りる、といった話は、原作には一切ない。そして、その高槻の事件を受けて、家福が悩みながらみさきの故郷である北海道まで車で出かけ、そこで、改めて妻を亡くした悲しみを噛みしめながら、自分が舞台に復帰する決断をする、というのも、映画での創作である。

 そしてそれ以上に面白いのは、映画では、妻が家福とのセックスの後に、自分が思いついた物語を話し、それを家福が記録しているというくだりは、この短編集の別の作品である「シェラザード」から取られているという点である。この別の短編では、一人暮らしの男が、ある時仕事の事情で雇った家政婦である30代半ばの「普通の」主婦と肉体関係を結ぶが、情事の後で、彼女は必ず何気ない物語を話し、男はそれを、第三者が後で読んでも意味が分からないような形で日記に記していったことが主題になっている。その彼女の語りには、「自分は前世はやつめうなぎで、鱒に吸い付いて生き延びてきた」といった話や、「高校生の頃、片思いの同級生の男の子の家に忍び込み、彼を感じる小さな品を持ち帰る代わりに、自分のタンポン等を分からないように残してきた」という話が記されている。これはそのまま、映画では、妻が語った寝物語りとして使われている。ただ映画では、後者の話は、更に高槻が家福が聞かなかった続きを語ることになるが、これも映画の創作である。更に、映画では家福が妻の不倫現場を目撃し、そのまま何も言わず去る様子が映されていたが、別の短編「木野」では、男が妻の不倫現場を目撃し、そのまま家を出て、その後離婚する。映画での不倫目撃場面は、妻が気が付くがどうかという差はあるが、何となくこの短編の場面が使われているように思えてならない。

 ということで、「バーニング 劇場版」でもそうであったが、村上の短編小説をベースにしているとは言え、それを3時間の映画にするには、それ以外の表現を大きく付け加える必要があった。そのため監督の滝口は、この短編集の別の小説も使いながら、更に彼自身の創作部分を加え、この映画を制作していったことが理解できる。村上のこの短編集自体は、特殊な事情の結果「女のいない男」になっている男たちの悲哀を、彼独特の回りくどい表現で伝えようとした、私にとってはやや青臭い退屈な作品集であったが、この映画の制作過程を考える、という点では面白く読むことができたのであった。

2022年9月20日 記