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ノルウェイの森
監督:トラン・アン・ユン 
 村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」を観たところで、同じ村上の原作をもとにした「ノルウェーの森」を観ていなかったことに気が付き、2010年公開のこの作品をレンタルショップで借りてきた。公開当時、ベトナムからのボートピープル出身であるトラン・アン・ユンの脚本・監督作品ということで話題となったことだけが記憶に残っている。トラン・アン・ユン監督は、以前に「青いパパイヤの森」(当時観ておきたいと思ったが見つからず、そのままになっている)で名前は聞いたことがあるが、この作品は観る機会がなかったため、初めて接する彼の監督作品である。ただ、村上の原作作品は、「ドライブ・マイ・カー」や、その前に観た「バーニング 劇場版」でも、「人生の傷を負った」主人公を巡る「暗い」話が多いことから、その点で、余り期待感を持つことはできない。そしてこの作品についても、観終わった後、やや消化不良な感覚が残ることになった。

 松山ケンイチ演じる東京の大学に通う渡辺と、彼を巡る4人の女たちを中心にした物語である。渡辺は、いかにも村上春樹の若い時代を連想させる、ノンポリの文学部学生。大学では左翼学生による授業妨害やデモが繰り広げられているが、それには全く関心なく、本の世界に生きている。その彼が、高校時代の知合いである直子(菊池凛子)に再会する。直子は、高校時代に、幼馴染の恋人ミズキ(高良健吾)が自殺したことから生きる希望を失い、東京の大学生活にも馴染めず、渡辺との再会後直ぐに故郷に戻り、京都にある精神障碍者施設に入る。高校時代に、ミズキを含めた3人で一緒に過ごすことが多かった渡辺は、直子に恋心を抱き、京都の施設を何度も訪れ、最後の逢瀬では、「二人で暮らせる部屋を用意するので、いつでも来て欲しい」と言い残すが、結局渡辺が施設を訪れた際に二人で散策していた森で縊死してしまう。

 それと並行し、渡辺は同じ大学の学生である緑(水原希子)と出会う。奔放な緑は、母は死に、それにショックを受けた父はウルグアイに単身移住、恋人のいる姉との生活である。緑は「自分には恋人がいる」と言いながら、機会がある度に渡辺を誘惑している。また下宿の同居人で遊び人である永沢(玉山鉄二)の恋人であるハツミ(初音映莉子)は、3人での食事の時に、渡辺の女経験に突っ込む等、渡辺に関心を示している。そして最後は、直子の施設で、音楽教師をしながら直子の面倒を見ている(しかし自分も患者の一人であるという)レイコ(霧島れいか)。渡辺の施設訪問時に彼らに付き添いながら、直子の自殺後は、東京の渡辺の部屋を訪れ、そこで彼と一夜を共にした後、知り合いのいる旭川に去っていく。そうした女たちとの出会いと別れを経ながら、渡辺が「生きること」を確認していくという物語になっている。

 若き松山ケンイチは、特段の人生の目標も、際立った個性も持たない平凡な学生をそれなりに好演している。そして彼を取り巻く4人の女たちは、彼とは異なり個性の塊で奔放な女性を演じている。彼女たちにある意味振り回されながら成長していく渡辺というのが、この映画の主たる展開であるが、ほとんどが渡辺と彼女たちとの関係だけで進んでいき、それ以外の事件が起こる訳ではない。ひたすら「私を抱いて」とか、「愛している」、あるいはもっと直接的なセックスの表現などが溢れ、私のような年代の人間が観ると、自意識過剰な若者の世界に、ややうんざりしてしまうというのが正直なところである。ある意味、映画の舞台は、私とそれほど年齢の違わない村上春樹(1949年生まれ)の青春時代の回想でもあろうが、その頃の大学ではもっと別の生活世界があっただろうという違和感が残ってしまう。やや救いになるのは、「ノルウェイの森」を連想させる、直子の施設の周辺に広がる京都の森や田園の、季節の違う風景や、直子の死後渡辺が一人で訪れる、荒れ狂う波が押し寄せる海岸線の風景などの自然描写の美しさであるが、これもベトナム人監督にとっては日本の自然美を感じさせたのであろうが、日本人にとっては特別な景観ではない。

 期待していたビートルズの同名曲は、途中でレイコがギター弾き語りで歌う他、最後にビートルズ自身のそれが流れることになる。「ドライブ・マイ・カー」では使用許可が下りず、このオリジナル曲は映画では使用できなかったとされるが、この作品では使用が許可されたようである。ビートルズの全アルバムは、アナロクでは保有しているが、CDでよく聴いている、彼らのヒット曲を網羅した「1」には入っていない(ということは、この曲はシングルカットはされず、あるいはヒットチャートを賑わすことはなかったのであろうか?)ので、この曲を聴くのは久し振りであった。映画の後改めて「Rubber Soul」所収の2分4秒の短い、ジョージのシタールを重ねたこの曲をYouTubeで聞き直したのであった。この原作小説を読んだのは遥か昔であり、それが映画とどう違っているかは、今直ぐは確認できない。ただ、この2分ちょっとの楽曲をベースに小説なり、映画なりに仕上げる作家や映画監督の構想力には敬意を表したいが、映画そのものは、少し退屈なものであることは否めなかったのである。

鑑賞日:2022年9月10日