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実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
監督:若松 孝二 
 「バーダー・マインホフ」で描かれたドイツの極左運動の日本版が「連合赤軍」であったことは言うまでもない。「バーダー・マインホフ」の評を見た友人から、この60年代の日本の学生運動から生じ、「バーダー・マインホフ」以上に悲劇的な末路を迎えた日本でのこの運動を映画化した若松孝二監督の作品があると教えられ、閑な祭日の金曜日、双方の比較も兼ね観ることになった。公開は2008年。3時間を超える大作で、登場人物は、当時有名になった森恒夫や永田洋子等を、私は余り聞いたことのない俳優たちが演じている。

 冒頭、1972年に、革命は銃口から生まれる、という言葉と共に、連合赤軍の結成が映されるが、続けてそこに至る日本での反安保・反戦・反米運動の高まりの歴史とその国際的な背景等が説明される。1960年の安保闘争から始まり、1961年の韓国軍事クーデター、1962年のキューバ危機、1963年のケネディ暗殺、1964年のベトナム戦争での北爆開始、1966年の中国文化大革命や日本での成田闘争の開始等々。そしてその年、明治大学で始まった学費値上げ反対の学生運動が、次第に政治色を帯びる形で、共産主義者同盟(ブント)や中核派といった所謂「三派系全学連」結成に連なっていく。その運動に参加している明大の女子大生、20歳の遠山美枝子(坂井真紀)と21歳の重信房子(伴杏里)は親友となり、その後も1967年の佐藤首相の南ベトナム訪問阻止闘争などに参加している。そして世の中は、同年の羽田闘争、1968年のフランス5月革命、日大封鎖や新宿騒乱事件、そして1969年1月の東大安田講堂占拠と排除というように動いていく。これに対し政府側も、大学運営臨時措置法を制定する等、大学自治に合法的に介入する体制を整えている。

 そうした政府の攻勢を受け、学生運動の中核を担っていたブント内部でも路線を巡る論争が生じ、塩見孝也(坂口拓)率いる左派が赤軍派を結成。1969年には、ワンゲル合宿を装い、山中に爆弾製造拠点を作るが、警察の手入れを受け53人が検挙される大菩薩峠事件を起こすことになる。そして1970年、日米安保条約が更新・延長された頃には、この武装闘争路線が鮮明になり、銃を奪うための交番襲撃(初めて過激派の死者発生)や銃砲店への強盗や資金確保のための郵便局襲撃を始めるようになる。一時運動から退いていた森恒夫(地曳豪)は、1970年のよど号ハイジャック事件を引き起こした田宮高麿直系であったこともあり呼び戻され、塩見など設立メンバーが次々に逮捕される中、永田洋子(並木愛枝)と共に指導権を握る。1971年5月、赤軍派と革命左派が合体し、統一赤軍(その後すぐに「連合赤軍」と名称変更)が結成され、武装訓練を行う奥多摩の拠点が整備される。同じ頃、重信房子は、偽装結婚によりパスポートを入手し、レバノンに渡るが、出発前に、遠山と二人で別れを惜しんでいる様子が挿入されている。二人とも、まだ幼さが残る純真な女子大生といった雰囲気である。

 丹沢や山梨・新倉、そして榛名山といった山中に、軍事訓練の拠点が設けられ、銃を使った軍事訓練もどきが行われることになるが、この辺りは「バーダー・マインホフ」が、中東でパレスチナ・ゲリラの専門家から受ける訓練(しかし、それに対しドイツ人は「必要なのは都市ゲリラの訓練だ」と嘯くのではあるが・・)とは大違いの「おままごと」的なものである。そして、その訓練が行われる中、森と永田洋子の独裁傾向が強まり、彼らの指示で、問題があるとされたメンバーに対する「自己批判と総括」が行われるようになる。

 それから映画は、この山中での「自己批判・総括」という名目でのリンチ、粛清が延々と描かれることになる。これを主導したのは、もちろん森と永田であるが、特に森は「革命戦士としての自覚に欠ける」延々と抽象的な弁舌を繰り返し、それに永田が感情的なセリフ(遠山の粛清について「あなたは女を武器にしようとしている云々」等々)も交えながら同調している(映画としては、森と永田を演じた俳優は、その冷酷な表情と長い演説風セリフを熱演している!)。こうして、遠山を含め、何人もの多くの若者が20歳そこそこで命を落とすことになり、監督は夫々の被害者の名前と略歴、そして死亡年月等を記録していくことになる。ただこの辺りは、この党派活動がもたらした重大な事件であるが、映画としては正直全く退屈である。特に、この間、彼らがどんな対外的な「革命活動」を行ったかについて、全く触れられていないのは、実際彼らが「革命」と言いながら、実際のそうした活動を行うことがなかったということなのか、あるいは監督が意識的にそうした描写を避けたためなのかは分からない。「バーダー・マインホフ」の場合は、もちろんそれが許容されるかどうかは兎も角、その軍事作戦として頻繁な軍隊基地や警察署等の襲撃や爆破、あるいは要人テロといった活動を行っていたのと対照的である。例えば、「バーダー・マインホフ」映画評でも触れた1974年8月の丸の内の三菱重工ビル爆破事件は、この手の日本でのテロの最大のものとされるが、これも犯行声明は「東アジア反日武装戦線」名で出されており、「連合赤軍」は絡んでいないし、実際彼らは、その後映画のクライマックスとなる1972年2月のあさま山荘で壊滅している。その意味で、この極左運動は、ただ抽象的な革命理論を口にするだけで、何ら現実的な闘争を行うことがなかったし、映画でもそのように描かれているように思われる。そして警備当局にアジトが知られ、森と永田が別途資金調達の打ち合わせて出てきた東京で逮捕される中、残党は雪の降りしきる草原を逃亡し、そして偶々あさま山荘に辿り着き、そこで警察との最後の闘いが繰り広げられることになるのである。

 このまさに50年前の事件は、個人的にも大学受験直前、家で過ごしていた私は、機動隊の突撃場面を朝からずっとテレビで眺めていた記憶があり、それを思い出しながら映画を観ることになった(ネットによると、実際このピークの2月28日には、テレビ視聴率は89.7%に達したというので、恐らく視聴率としては歴代最高で、未だに破られていないのではないかと思う)。あさま山荘に立て籠った5人は、偶々山荘にいた管理人の妻を実質的な人質にして、彼らの何人かの親の説得も聞かず籠城を始めることになる。彼が、一旦縄で拘束した管理人の妻にたいし、途中でそれを解き、「われわれは革命戦士で人民の解放を目指しているから、あなたは人質ではない」等々と話したり、籠城中にニクソン大統領の中国訪問のニュースがテレビで流れ、漢れらが驚愕する場面なども挿入される。しかし結局、2月28日、機動隊の強行突入が開始される。その直前、一人が、「死ぬのは今日で良かったな。明日だったら命日は4年に一度しか来ないからな。」と呟くのが、この映画の中での唯一の笑いを誘う。そして彼らは全員逮捕されるが、その過程で民間人1名、警察官2名が射殺されることになる。森の獄中での自殺や、永田が死刑判決を受けながら依然獄中にいる等々、逮捕された関係者の映画製作時点での状況と、その後の連合赤軍が引き起こしたの事件や関係者の逮捕等を説明するルビが入り、映画は終わることになるが、冒頭に登場し、中東から各種作戦に参加した重信については、2000年に大阪で逮捕され、翌年に連合赤軍の解散を宣言したこと以外は触れられていない。

 「バーダー・マインホフ」以上に、希望のない悲惨な事件の記録である。繰り返しになるが、ドイツの場合は、爆破の規模や回数も、また要人の誘拐・殺人も日本の比ではなく、その手法も冷酷・残虐であった。また「バーダー・マインホフ」では、ウルスラが子供について悩む姿等も描かれていたが、この連合赤軍事件については、浅間山荘に立てこもった際に坂口らの母親が投降を呼びかける場面を除き、メンバーの家族関係はほとんど触れられていない。これはドイツの運動が、ウルスラのような一般人も巻き込んだ運動であったのに対し、日本のそれは学生たちの一般社会から隔絶された運動であったことを物語っているようにも思える。そして「バーダー・マインホフ」の評にも書いた通り、ドイツのそれは、穏健左派の主張が一般社会にも波及し、その後もそれなりの影響力を維持したのに対し、日本のそれは全くと言って良いほど、その後の政治・社会に痕跡を残すことはなかった。半世紀前のこうした両国での極左運動のその後の展開については、もちろんもっと詳細に観ていく必要があるのだろうが、日本の場合は、より悲観的にならざるを得ないと感じさせる作品であった。

鑑賞日:2022年9月23日

(追記)

 この映画を観た後、偶々読んでいたドイツ関係本に、この映画に関わる記載が出てきたので、びっくりしてしまった。ドイツ在住が長いジャーナリスト、永井潤子著の「放送記者、ドイツに生きる(2013年8月刊)」収録の、「ベルリン国際映画祭」に関する「2008年 日本映画が存在感を発揮」という2008年5月の短文である。

 この中で著者は、同年2月に開催されたベルリン映画祭に、山田洋次監督の「母べい」等、幾つかの日本映画が出品されたが、その中で圧倒的な存在感を示したのが、この「実録・連合赤軍」を引っ提げてベルリンにやってきた若松監督であった、と紹介している。この作品の上映後のディスカッションで、若松監督は、「ドイツ赤軍の攻撃性は外部の『敵』に向かったが、日本赤軍の暴力はなぜ外に向かわず、仲間同士のリンチ事件という自己破壊的な形をとったのか」という点につき、「日本人のメンタリティーだ」と説明したということである。著者は、こうしたメンタリティーが、「いまも変わらず、いじめや自殺、自傷、家族への暴力になっているのかもしれない」という感想を述べているが、個人的には、「日本人のメンタリティー」という一般論的な国民性からではなく、この日本の極左運動が、もともと一般労働者らから隔絶された運動に留まったことが最大の要因ではないかと考える。

 ただ、この作品は、このベルリン映画祭で専門家たちに高く評価され、アジア映画の優秀な作品に与えられるネットパック賞と国際芸術映画評論連盟賞の二つを受賞したという。

 誰が見ても明らかな、このドイツと日本の極左運動の違いではあるが、その理由についての説明は様々であることが分かると共に、ドイツ側でもこの日本での運動が、2008年の時点でもそれなりの関心をもって受け止められたことは理解できた。

2022年9月26日 追記