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監督:S.S.ラージャマウリ
ここのところ映画はしばらくご無沙汰していたが、今週、左胸にできた脂肪肝の切開手術をやる羽目になり、当面運動は控えざるを得なくなった。そのため持て余す時間をどうしようかと考えた結果、1年以上前に、テニス・コートで偶々隣り合わせたインド人青年から「観たか」と聞かれたこの作品を手にすることになった。2022年の公開作品で、インド映画史上最大の製作費(97億円)をかけた作品ということで紹介されていたが、上映時間が3時間に及ぶということで、レンタル店に出てからもやや借りるのを躊躇していた。しかし今回、術後の運動ができない期間の時間潰しには適当な素材ということで、雨が降ったり止んだりの天気の中、観ることになった。監督は、以前に「バーフバリ」という2連作(別掲)を手掛けているS.S.ラージャマウリである。
英国統治下の1920年の南インド。アティーラバート地方と紹介される田舎のゴンド族の部落で、白人のケバい叔母さんが、地元の少女に、歌と共に手のひらに装飾を描いてもらっている(「ヘナアート」というインドの伝統芸能だそうだ)。叔母さんは、英国インド総督の妻。それが出来上がったところで、叔母さんが、地面にコインを投げるが、それはお礼ではなく、その少女を連れ去る報酬であった。拉致される少女の母親は、車にしがみ付き懇請するが殴り倒され、少女は拉致される。
「火」という表題が映されれ、舞台はデリーの英国軍基地に移る。反英活動家の逮捕に抗議する大群衆が基地に押し寄せる中、英国人将軍の命令を受けた一人のインド人警察官が、単身群衆の中に飛び込み、大乱闘の末、抗議運動の指導者らしき男を引きずり基地に戻ってくる(まあ、あり得ない出来事であるが、映画なので許すことにする)。彼はラーマ・ラージュ(以下「ラーマ」。俳優名は、ラーム・チャラン)で、彼は、そうした活躍にも関わらず、英国軍の中で警戒されており、基地内でボクシング練習をして憂さを晴らしている。
「水」というタイトルが映り、ニザーム藩王国という地方の英軍基地で、インド人顧問が、英国将校に、ゴンド族には「羊飼い」という名の守護神がいて、拉致された少女を取り返しにデリーに入った、と伝えている。その「羊飼い」と呼ばれ、拉致された少女マッリを奪還すると心に決めている男は、コムラム・ビーム(以下「ビーム」。俳優名は、N・T・ラーマ・ラオJr)。彼はデリー郊外の森林で、虎や狼と壮絶に闘いながら、罠も使いながら捕獲している。そして彼は、バイクの修理工を装ってデリーに入り、そこで英国軍警察官に因縁をつけられ暴行されているが、本来の目的のためにあえて反撃せずに堪えている。他方、英軍基地では、ラーマが、潜伏している「羊飼い」を探し出し逮捕するよう指示されている。拉致された少女は、スコット将軍の屋敷で奉公させられている。そして反英集会に潜り込んだラーマは、そこで「羊飼い」らしき男を見つけ、彼を追走することになるが、そこで大きな川にかかる橋での列車爆発事故が起こり、それに巻き込まれそうになった少年を、偶々一緒になったビームと共に、とんでもないトリックで助けることになり、二人は意気投合するのである。実は、ビームは、ラームに追われた男の兄であり、まさにラームが追う男であったが、二人はそれを全く知ることはない。そんな時、街中で小さなトラブルに巻き込まれたインド人を、警察から救った英国人女性に好感を持ったビームは、ラームの知恵で、その女性ジェニー(暴君スコット総督の姪という設定である。英国人女優であろうが、なかなかの美形である)と知り合い、宮廷でのパーティーに招待される。英国のしきたりも知らず、英語もしゃべれないビームは、ラームに助けられ準備を整え、会場に向かう。ジェニーがビームと親しくしているのに嫉妬した英国人青年が、「ダンスなどしらないくせに」と言ったのに対し、ラームの太鼓の一打で強烈なインド・ダンスが始まり、始めはビームとラージの二人で、続いてジェニーやそれ以外の英国人も巻き込んだ大インド・ダンス(ナートゥ
)大会が盛り上がることになるのである(このダンス場面は、2021年に、まだ戦争が始まる前のウクライナで撮影されたそうである!)。そして疲れ果ててラームにおぶさって帰路につくビームに、車で通りかかったジェニーが、自宅に誘い、彼はそこで拉致された少女マッリと再会するのである。直ぐに連れて帰ってと懇願するマッリに、必ず救いに来るからと言い残し、ビームはそこを去ることになる。
一方、ラームは、一旦取り逃がした「羊飼い」の弟を摑まえ、兄の居場所を拷問で吐かせようとし、逆に彼から毒蛇をつかまされ、瀕死状態で通りを彷徨うが、偶々通りかかったビームに助けられることになる。そしてそのビームから、自分は拉致された少女を取り戻すためにデリーに来ていることを告白され驚くが、衰弱している彼は、どうすることもできない。そして彼は、故郷に残してきた恋人シータを想うと共に、少年時代、英国軍に村が襲われた際の父親の奮闘と、それを正確な射撃の腕で支えた自分のことを回想する。彼が英国警察に入ったのは、将来、自らの村人に英国軍から奪った武器を持ち帰り、反英闘争に向かわせるためであったことが知らされることになる。
ナイト伯爵の宮殿で開かれているパーティに、ビーム率いる一団が突入し、トラックの荷台から放たれた猛獣たちも交えた壮絶な戦いが繰り広げられるが、まだ英軍に忠実な姿勢を装っているラームは、ビームと対峙し、結局ビームは逮捕され、地下壕に収用、マッリも解放されない。しかし、ラームは、ビームの処刑を人目のつかない郊外で行うことを提案し、そこに向かう途中で総督らを裏切り、密かにラームが渡したカミソリで手のロープを切り、処刑台から逃れたビームの逃走を支援する。そしてビームは、ラームが意図的にそこに呼んだマッリと共に逃亡するが、今度はラームが反逆者として英軍に捕らえられ、拷問された上、処刑が決まることになる。
マッリや弟とらとデリーに潜伏するビーム。そこに英軍の捜索の手が伸びるが、偶々そこにいた女が、機転を利かせ、「ここで今天然痘の患者が出ている」と言い、英軍はその場を離れる。その女と言葉を交わしたビームは、持っていた首飾りの片割れから、彼女がラームの恋人シータであることを知る。彼女は、4年音沙汰のないラームを探しにデリーに来ていたのである。彼女から若きラームの思いを聞いたビームは、ラームの救出に向かい、そして再び壮絶な戦いを繰り広げた後に、彼を救済し、宮殿を火の海にして、総督夫妻の息の根も止めることになる。ラーマはシータと再会し、かつて約束した通り、村に大量の英軍の武器を持ち帰る。またビームは、ジェニーと解放を喜び合っている。そして最後は、ビームとラーマを中心に、シータ他多くの人々が混じった大ダンスで、この3時間に及ぶ映画の幕が下りることになる。宮殿を破壊され、叔父、叔母を殺されたジェニーが、ビームと戯れていることについては、敢えて突っ込まない。
「バーフバリ」でも見られた壮絶な各種戦闘シーンや美しいインドの自然の描写は、流石にそれを上回る金をかけて創られただけのことはある。またビームとラーマが、夫々の素性を知らずに意気投合、その後対決することになるが、最後はお互いに助け合いながら共通の敵を倒す、という話の展開も良くできている。
それでもやはり、こうした白人植民地支配者の残虐さに対するインド人民の闘いと勝利という勧善懲悪物語は、あまりに単純と言えなくもない。英国の植民地支配は、日本のそれと比べるともっと狡猾であったと思われるが、ここではそうした微妙な感覚は全く表現されていない。先に出会い、この作品を推奨したインド人青年を含め、インドの観客がこの作品を何故気に入ったのかは是非聞いてみたいところであるが、残念ながらそうした機会はなさそうである。
インドは、現在のウクライナ情勢を巡る国際情勢の中では、微妙且つ重要な位置にあることは言うまでもない。QUAD4か国のメンバーとして日米等と連携しつつ、BRICSの一員として中ロとの同盟も維持し、欧米によるウクライナ関係でのロシア非難決議は棄権することになる。そうした中で、日本も含め、欧米ロシア中国は、夫々インドを自分の陣営に引き込もうという動きを見せるが、インドは当然夫々と距離を置く姿勢を変えることはない。他方、足元では、カナダでのシーク教徒殺害事件に関し、カナダ政府がインド政府の関与を非難したり、あるいはモディが、国名を「インド」から、ヒンドゥ語の呼び方である「バーラト」に変更することを主張する等、より「ヒンドゥ至上主義的・権威主義的」な傾向も強めている。もちろん、この動きは2024年春に予定される総選挙に向けた戦略の一部と言えるが、それは、この国が「世界最大人口を有する民主主義国」でもあるからである。
こうしたインドから発信される所謂「ボリウッド」映画は、確かに大きな存在感を有している。そしてこの作品も、如何にもインド的、と言ってしまえばそれまでであるが、その大きな里程標であることは確かである。
鑑賞日:2023年9月21日