Angels and Demons
原作者:Dan Brown
前作、「ダ・ヴィンチ・コード」で一躍売れ子作家になった原作者の、作品としてはこれに次ぐ、しかし設定としてはこの前に起こった、主人公で象徴学者であるロバート・ラングドン最初の冒険ということになっている。前作は、まさに原作がベストセラーとなったことで映画化されることになったが、今回の作品は、小説の出版からそれほど時間が経たず、「柳の下のドジョウ」を狙って映画が封切られることになった。前作の舞台がパリであったのに対し、今回は主たる舞台はローマである。
前作は、日本で邦訳を読んだ後に映画を見たが、今回は映画の公開に合わせペーパーバックを購入した。しかし映画を見る前には、ほとんど50ページ程しか読めなかったことから、今回は映画を先に見てから、その後原作をいっきに読み進めることになったのである。
さてその映画版であるが、まずはジュネーブにある科学研究機関CERNと思わしき科学研究所の臨界実験で原子が融合するシーンを映した後、プールで泳ぐロバートを若い男が迎えに来るところから始まる。しかし、原作で登場する車椅子に乗った研究所長コラーらしき人物は登場せず、すぐに、中世ヨーロッパで教会から迫害され地下に潜った科学者たちの秘密結社「イルミナティ(光明会)」の刻印を胸に焼鏝で刻まれ殺された科学者の養女ヴィットリアが登場し、父親の殺人現場とアンチマター(「反物質」)の盗難が確認され、ロバートと共に直ちにローマに跳ぶことになる。
ここでコンクラーベのため、サン・ピエトロ寺院に集まる枢機卿と、それを見守る群衆が映され、その中、ロバートとヴィットリアが、スイス・ガードの部隊長であるオリベッティと思わしき男と捜索を始めることになる。バチカン図書館での謎解き。一方で、暗殺者に拉致された4人の枢機卿が、古い独房に監禁されている様子が示される。最初の二つの殺人は、映画では余り克明に描写されていなかったように記憶している。そして改めてのバチカン図書館での酸欠によるロバートの危機から、第三、第四の殺人へ。暗殺者には、原作でのアラブ人というより、西欧風の精悍な青年を使っている。そして、第三の殺人現場での死闘とヴィットリアが拉致され、隠れ家に連れ去られる部分は全く映画では割愛されている。また第四の泉での殺人では、原作で克明に描写されるロバートと暗殺者の水中での戦いはなく、彼が枢機卿を水中から救ったように変更されている。
そして決定的な「法王の間」の場面で、カメレンゴと対峙するのは、小説では第三の殺人現場で殺されているオリベッティで、コラーらしき人物は登場しない。アンチマターの捜索は、カメレンゴ他、全員の知恵で行なわれ、それを持って飛び立つヘリには、原作と異なり、カメレンゴが一人で搭乗し、ロバートは地上からアンチマターの爆発がもたらすオーロラのような光と、パラシュートで広場に降り立つカメレンゴを眺めることになる。カメレンゴは英雄となるが、ロバートは、「法王の間」が、スイス・ガードのオリベッティの部屋のカメラで監視されていることを思い出し、これを再生することによってカメレンゴの自演が皆の前に明らかになるのである。
エンターテイメントの部分を除くと、この原作の主題は、「宗教と科学の相克と和解」であり、中世のガリレオ裁判から始まるこの戦いが、もしこの現代で再開されたとすれば、如何なる姿で現れてくるのかをフィクションの形で表現したものだと言える。原作では、この中世以来の両者の戦いの歴史が語られ、また現代において科学が明らかにした「宇宙の創生」と、結果的に開発した大量破壊兵器が、宗教にとって如何なる意味があるかが、繰り返し登場人物により議論されている。その時、科学を代表するのがCERN研究所とヴィットリア父娘及びコラーであり、カメレンゴは教条的クリスチャンの立場からこれを非難するために、数々の殺人を含めたシナリオを書き、また科学の横暴を徹底的に批判するのであるが、映画になると、この「科学と宗教の相克と和解」を巡る主題が、決定的に薄まり、単なるカメレンゴの野望とそれを暴くロバートとヴィットリアという構図に単純化されてしまっているように思えるのである。もちろん原作では、冒頭の超音速輸送機などという、とんでもない機材が登場し、また第四の殺人現場で、暗殺者に水中で息の根を止められそうになりながらも、死んだように見せかけて助かるとか、ヘリからロバートが防水布だけで跳び降りて無傷であったとか、「ちょっと無理があるな」と思われる部分もあるので、そこは映画と小説で、夫々相殺すべきところではあろう。しかし、それにも関わらず、この作品は、まさに「宗教と科学の相克」又は「共存」という大きな歴史・倫理的課題を、スリル溢れる展開と共に読者に考えさせるという点で、圧倒的に小説の価値が高いと言わざるを得ない。また、殺人現場を古典文書の解読から推理していく過程も、本では克明に描かれているが、映画ではどうしても簡略化せざるを得なかったように思える。そして終盤、カメレンゴの演出が暴露されていく場面でも、小説の読者の涙腺を刺激する、前法王とカメレンゴの関係を含めた決定的なトリックが、映画では省略されていたように思われる。もちろん、シンガポールで上演される洋画のほとんどがそうであるように、映画は英語、サブタイトルは中国語であったため、もしかしたら私が聞き逃したり、見逃した部分もあったかもしれない。その意味では、小説を読んだこの時点でもう一度映画を見ればまた違った印象を持っていたのかもしれない。
「ダ・ヴィンチ・コード」が、本と映画が評判になった後しばらくの間、パリ観光の格好の案内書になったように、この本もまたローマ観光の格好の案内書となるであろうことは間違いない。この夏、ローマにはこの本や、これをもとに作成された案内書を持った観光客が溢れるのであろう。しかし、そうしたせこい「ベスト・セラー作家」の計算は割り引いても、これが一流のエンターテイメント文学・映画であることは確かであろう。
鑑賞日:2009年5月30日