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ナイロビの蜂
監督:フェルナンド・メイレレス 
 クリスマスも過ぎ、年末前最後の週末、先日の逝去報道を受けて、ル・カレの小説を図書館にある範囲で続けて読んでいたが、その一つ「ナイロビの蜂(原題:THE CONSTANT GARDENER)」を、この日の午前に読了した。文庫本の挿絵に、この作品の2005年制作の映画版写真が使われていたこともあり、暇な週末の午後の時間潰しのため、早速このDVDを求めてつたやに出かけていった。幸い人気映画でも何でもなかったためだろうか、直ぐに借りることができ、この映画をゆっくり自室で見ることになった。

 2001年出版(邦訳は2003年刊)の小説は文庫本上下で、最近読んだ彼の晩年の諸作品に比べると読み易いが、それでも著者特有の時空飛躍や登場人物の関係把握に手間がかかる。しかし、ストーリー自体はそれほど複雑でないことから、それに従い、夫々の登場人物の役割設定とその転換がどうか、といったことを楽しみながら読み進めることができる。最後は、早く映画を見たいという気持ちからやや飛ばしてしまったが、ケニヤを舞台にした途上国支援活動を行う女性の殺害と、その事件の真相を求める外交官の夫を巡るサスペンスとして読み応えのある作品である。著者の得意とする諜報員が主人公ではないが、特に後半、外交官の主人公が、外務省の監視をかい潜り欧州各地の証人を訪ねた後、ケニヤ(そしてスーダン)に戻る過程では、そうした諜報員並みの隠密行動が描かれることになる。

 そしてその映画版は2005年の作品で、ネットによると、その年のアカデミー賞編集賞、助演女優賞、作曲賞等を受賞しているようである。監督はフェルナンド・メイレレス(1955年、ブラジル、サンパウロ生まれ)、主役の外交官ジャスティンをレイフ・ファインズ、その妻のテッサをレイチェル・ワイスという俳優が演じているが、それらの名前は、私は初めて聞く名前である。ネット情報では、ファインズは、1993年の「シンドラーのリスト」でナチスの収容所長を演じアカデミー賞助演男優賞(その後、1996年の「イングリッシュ・ペイシェント」では主演男優賞)にノミネートされている、ということなので、私も見ていた訳であるが、俳優名は全く記憶していない。ワイスについては、私は出演作品は見ていないようである。

 小説を読んだばかりであるので、映画版は入り易い。庭いじりが最大の趣味で、実直なケニア駐在の外交官ジャスティンが、妻で途上国支援の活動を行う妻のテッサと空港で分かれるが、彼女は活動を共にしていたケニヤ人医師アーノルドと共に殺害される。その事件を巡り、現地メディアは、犯人は、当初は消息不明のアーノルドによるもので、ジャスティンは不倫の末に妻を殺された惨めな夫と報道、そしてケニヤ高等弁務官事務所(大使館)の上司は、ジャスティンに帰国し、静養の長期休暇を取るように命じる。テッサとの出会いと結婚、ケニヤ赴任を回想するジャスティン。しかし、テッサが残した幾つかの資料で、彼女が活動を止めない場合の脅迫を受けていたことを知り、その死の真相究明に乗り出す。ナイロビで同居しながら、彼女の活動の詳細を知らなかったことを悔い、その死の真相を知ることがテッサに報いる道であると確信する。こうして、もの静かな優等生やもめ外交官は、外務省本省の静養命令も無視し、テッサの親戚の弁護士の力も借りながら、偽名パスポートで、関係者を訪ね歩き、そして再びナイロビに戻り、かつての上司を含めた関係者との最後の闘いに臨むのである。

 小説でも同様であったが、これだけ派手に巨大製薬企業の途上国での非人道的活動(薬物実験)やその関係者の汚職を告発しようとする妻の活動を、それまで全く関知しなかったという点には、大きな違和感を抱かざるを得ない。また、そのために、夫に秘密で、彼の上司を誘惑するといった手段を択ばないテッサの性格も、やや極端である。映画では、その辺りは二人の愛情と信頼が覆い隠していたとして表現されているが、取り敢えず物語進行のために必要な舞台設定であったとして許しておこう。

 そしてジャスティンの行動。小説では、テッサの活動と、それに対する反動が次第に激しくなっていく様子が詳細に描かれるが、映画では時間的制約もあるのであろう、やや性急に表現されている。私は、小説を読んでからすぐに映画を見ているので、「ああ、この場面か」と理解できたが、例えば、テッサが自分の子供を流産した際、病室の横にいた現地人女性が死に、そしてテッサが、その女性が生んだばかりの子供に授乳しながら、製薬会社が現地の人々を新薬の副作用実験のモルモットとして使っていることを確信する場面は、映画だけ見ていると、その重要な展開を掴むのが難しいように思われた。それはその後のジャスティンの上司とテッサとの関係、ドイツでの製薬会社の委託研究者との接触、そして最後のスーダンでの同様の研究者との対話(ここで、部落が武装集団に襲われ、ジャスティンとその研究者が飛行機に逃げ込む場面は、小説ではなかったと思う)についても同じことが言えそうである。

 アフリカでの巨大製薬会社の腐敗と英国外務省を含めたその関係者の実態を改めて告発した後、英国老情報機関員からの警告を無視し、テッサが殺された湖の畔に戻るジャスティン。そこに、テッサを殺害したのと同様、指令者も分からない現地傭兵が(英国老諜報機関員によると、殺害して50万ドル、自殺に見せかければ100万ドルの報酬相場という)が到着するのである。

 小説では、ジャスティンの告発につき、親戚の弁護士が議員を使い、議会で質問し、社会の一部の関心を呼ぶが、最終的には、彼は、妻が殺された場所に戻り自殺した哀れな男として葬り去られることになる。映画では、この場面は、ロンドンの教会で行われたジャスティンの公式葬儀で、外務省幹部の公式追悼演説に続き、親戚の弁護士が、彼の告発状を読み上げ、途中で退席するその幹部が、メディアに追跡される様子で終わらせている。

 以前、同じ作家の映画版として、「われらが背きし者」を、シンガポールに帰国する飛行機の中で見たが、この時は、現地で読み始めたペーパーバックに挫折したところで、映画を見てから改めてそのペーパーバックを読み、初めて読み通すことができた。しかし、それから数年して、今回の帰国後、その小説の邦訳を読んでみると、やはり小説自体も映画も、十分理解していなかったことを認識することになった。彼の小説は「一筋縄」ではいかないし、映画についても同じことが言える。映画についてのネットでの感想は、特にテッサの活動に全く同情を覚えなかったが、アフリカの映像は美しかった、といった感じのものが多かったが、前者は、物語設定のための装置と考えれば、余り指摘するに当たらない。これはジャスティンの鎮魂の物語で、その過程を読ませることが作品の主目的であるのだから。そして映画版は、ネットの評が指摘しているとおり、まさにアフリカの映像を交えることで、より物語の現実感を強めることに成功している。2005年制作のこの映画で描かれるアフリカの社会や自然が、大昔に観た1985年制作のシドニー・ポロック監督、R.レッドフォード、M.ストリーブ主演による「愛と悲しみの果て(Out of Africa)」(原作は1937年の出版)で描かれたそれと余り変わっていないように思えたのは、私の記憶が薄れてきているからだろうか?因みに、私がこの国を観光で訪れたのは1987年のことであった。恐らく社会は変わっても、その自然が大きく変わることはないのであろうが・・。そして今、新型コロナのワクチン開発に際して、その性急な導入と副作用の懸念が取りざたされる中、こうした巨大製薬会社の治験を巡る情報が、現代ではきちんと取り扱われているのだろうか、という素朴な疑問を改めて抱くことになった小説と映画であった。

鑑賞日:2020年12月27日