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誰よりも狙われた男
監督:アントン・コルバイン 
 続けて、ル・カレ原作の映画である。既述の同様の映画2本を見た後に、その感想を友人と話していたところ、もう一本彼の映画作品があるということで、これを紹介された。丁度昨年末、この原作を読んだばかりであったこともあり、早速レンタルショップにこの作品を探しに行った。近所の店には在庫がなく、川崎駅前の大きな店でようやく見つけて借りることができた。原作は著者21冊目の長編で、2008年に出版されている。

 まず原作小説であるが、ハンブルグに、一人のチチェン出身のモスレムの若者(イッサ)がたどり着く。彼は、ストックホルムやコペンハーゲンを経て、この街に辿りついた密航者で、トルコ移民の母と息子の庇護を受けて匿われることになる。その二人が、難民保護活動を行う慈善団体の若い女性弁護士(アナベル)の助けを求め、彼女が若者の顧問弁護士として動き始めるが、イッサが主張するには、彼は亡き父親から膨大な遺産を引き継いでおり、それはこの街を拠点に活動する英国プライベートバンクに保管されているという。アナベルは、その銀行のオーナーである60歳になったばかりのブルーと連絡をとり、その財産の引出につき相談を始めるのである。

 物語の前半は、イッサが相続した資産を巡るチチェンとロシアの内戦などの暗い過去、エリート法律家の家系に生まれながら「ドロップアウト」したアナベルの姿、そしてブルーが経営する銀行が、父親の代にそうした「汚い資金」を受け入れてきた実態などを交えながら、イッサが本当にその相続人であるか、を巡る謎解きを中心に展開していく。同時に、このイッサをドイツの警察と諜報部員(バッハマン)が追いかけている。彼らにとっては、イッサは、不法入国したテロリストである。そして諜報部にとっては、イッサは、より大きなモスレム・テロリスト・グループの活動を抑えるための餌なのである。彼らのターゲットは、ドイツで名士となっているモスレムの伝道師(アブドゥラ博士)であり、彼の活動の「5%」がテロ資金の供給という形でテロ活動と結びついているとの疑惑を確認するため、イッサを利用しようという作戦なのである。

 後半は、彼らの動きに加え、米国CIAも絡んだ、外国諜報機関や国内の検察・警察との駆け引きが繰り広げられる。幾つかの経緯を経て、アナベルとブルーは、イッサのドイツ滞在を正式に認めることを条件に、諜報部の活動に協力することを受諾し、その遺産相続の正式手続きに入る。イッサは、彼の父親が、悪行の限りを経て蓄積した財産のほとんどを、内戦の被害者や儒教者の家族の支援に充てることを希望しており、伝道師がその仲介者としてリストを作成。そしてブルーの銀行で、イッサとアナベルを交え、アブドゥラ博士への財産引渡しと支援先への送金が行われ、それがバッハマンの意図したとおりアブドゥラのテロ支援行為の確証を得る結果となるが、それが終了した直後に、イッサとアブドゥラは、米国の諜報組織に拉致されるのである。

 そして2014年公開の映画版である。ネット解説によると、英国、米国、ドイツによる合作で、監督はアントン・コルバイン。俳優は、ドイツ情報機関員バッハマンをフィリップ・シーモア・ホフマン、女性弁護士アナベルをレイチェル・マクアダムス、銀行家ブルーをウィレム・デフォー、イッサをグレゴリー・ドブリギンが演じているが、監督を含めて私の知る者はいない。映画通の友人によると、ホフマンはオスカー受賞俳優であり、この映画でも彼の「怪演」が評判になったそうであるが、ネット解説によると、彼はこの作品が遺作となったとのことである。個人的な印象としては、中高年の冴えない情報部員といった趣のホフマンは、やや小説とのイメージが異なっていた。

 以前に観た、彼の原作の映画版と同様、映画版は、原作小説に見られるル・カレ特有の修飾を極力排し、骨組みだけで再構成している。例えば、原作では、冒頭イッサがトルコ人家族の庇護を受け、その家に匿われる過程での母親とボクサーの息子との葛藤が描かれるが、それは省略されている。またアナベルの家族との関係や、ブルーのプライベートバンクが、ウィーンからハンブルグに移転した経緯や現在の経営的な苦境なども描かれているが、それは映画ではほとんど触れられない。そして後半部、バッハマンによるブルーとアナベルへの協力要請の過程で、バッハマンがアナベルを拉致・監禁して説得する、という展開も、小説では映画ほど過激な手法をとったようには書かれていないと思われる。また最後の送金場面で、アブドゥラが、送金先を、テロ資金のパイプ会社である船会社に変更する、という演出となっているが、これも原作とはやや異なっている(リストには始めからこの船会社が入っていた)。ただ、ホフマンの「渋い」演技や、イッサ救済という使命感に燃えながらも、ハックマンの説得に悩みながら協力に応じるアナベル役マクアダムスの演技は印象的であったことは間違いない。最近見続けているル・カレ原作映画の中では、今のところ最も映画としての完成度が高いと感じられた。

 最終盤、CIAにアブドゥラとイッサらが拉致されるという展開は、小説でも、その結果、これに関与したアナベルやブルー、そしてバッハマン等の人々が、その後どうなるのか、という点を含めて、やや唐突な幕切れであったが、映画では、米国の仕打ちに憤激したバッハマンが、道端で呆然とするアナベルとブルーを残し、一人で車を運転して立ち去る場面で終わることになる。かつてベイルートでCIAに情報網を潰され、CIAに不信感を持っていたバッハマンは、改めてCIAに裏切られたということになる。小説では、その終わり方が、後半いっきに読み進めた割に、「残尿感」を残すことになったのであったが、映画の方は、言わばその「残尿感」が、現代の諜報部員の悲哀を感じさせる演出になったのは皮肉である。

 ネット解説によると、ル・カレは、米軍にテロリスト容疑で拉致され、グアンタナモ収容所で4年半にわたり拘束され拷問を受けた後解放されたドイツ在住のトルコ人青年(ムラット・クルナズ)の話しを聞いてこの原作を書いたとのこと。映画は、米国9.11同時多発テロの主犯の一人が、ハンブルグでこの計画の手配を行ったことが判明してから、この街のテロ捜査が強化された、という説明から始まっている(原作では、バッハマンが、「9.11のグラウンドゼロは二つできた。一つはニューヨーク、あまり耳にしないもう一方のグラウンドゼロは、ここハンブルグにできた」と呟いている)が、ル・カレの発想は、言わば冷戦後の新たなテロとの戦いが、単純な勧善懲悪の世界ではなく、そこでも各国情報機関や、国内での警察と情報機関とのせめぎあいが行われていることを示すことにあったと想像される。その世界は依然として存在していることは間違いなく、この作品の場合は、原作小説よりも、映画版の方が、その意図を端的に示すことになったのではないかと思われたのである。

鑑賞日:2021年1月10日