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薔薇の名前
原作者:ウンベルト・エーコ 
 先に、「ムメロ・ゼロ」という小説を読んだウンベルト・エーコの代表作の映画版で、原作は1980年、邦訳は1990年に出版されている。この1986年制作の映画版を含め、当時たいへんな評判となり、私も耳にしていたが、なかなか接する機会がないまま現在に至ってしまった。エーコは、もともとは哲学、記号論、マスメディア論の学者であったが、この作品で、いきなり小説家としての名声も確立することになる。そして、確かに「20世紀最大の問題小説」と呼ばれるだけあり、私も今回、内容的にも量的にも、圧倒的な存在感を思い知らされることになった。映画について語る前に、まずは、この原作について、私なりの整理をしておこう。

 1327年11月の7日間、イタリア北部にある僧院で起こった連続殺人事件とその顛末の物語で、形式は、現代の歴史研究者が偶々手に入れた、当時の手記を再現したということになっている。その手記は老境に至った僧院長(アドソ)が、彼がまだ若い、修道僧見習いであった時に遭遇した事件を回顧するものである。おまけとしては、現代の語り部が、この資料を入手した直後に、彼が滞在していたプラハにソ連軍が侵攻し、彼はそこからかろうじてオーストリアに逃れ、この資料を安全に確保することができたということになっている。こうした何重もの経緯を経て、この14世紀の物語が、現代にもたらされることになるのである。

 まずは、プロローグとして、この頃の時代背景が語られる。教皇クレメンス5世と、申請ローマ帝国のルードヴィッヒ皇帝(1314年、フランクフルトで選出された)の対立と、フランチェスコ会修道士の皇帝への接近。そうした中で、フランチェスコ会修道士ウィリアムの弟子となった語り部アドソは、彼について北イタリアにあるベネディクト会の修道院を訪れる。ウィリアムは、近々そこを訪れる皇帝使節団の先遣隊のようである。しかし、彼らの到着直後、そこで若い写本絵師の墜落死体が発見され、僧院長は、「慈悲ある異端審問官として名高い」ウィリアムにその調査を依頼する。しかし、彼らが調査中を始めたのち、第二、第三の殺人事件が発生。それを探るウィリアムの推理と行動、そしてその背景となる教皇と皇帝の争いや異端派ドルチーノの反乱と鎮圧・処刑といった悲惨な歴史が、延々と語られていくことになるのである。

 とにかく中世の政治、社会、文化等に係る該博な知識に裏付けられた記述が続く。教皇と皇帝の争いや、それに関わる異端審問の詳細から、僧院が持っている文書館での貯蔵図書に含まれる記号論的な謎の数々。もちろん信仰を巡る教義に関わる会話にも事欠かないし、僧院での生活習慣が詳細に描かれていることも言うまでもない。殺人事件の捜査に当たるウィリアムが解き明かす僧院の隠された空間やそこに侵入するためのトリック。そして当時の異端審問の大きな事件であったドルチーノ派の反乱。僧院には、過去その異端派に関わった男もいる。そして上巻は、僧院に異端審問官が送り込まれると共に、アドソが街の貧しい娘と一夜の契りを結ぶと共に、新たな毒殺死体が発見されるところで終了する。

 下巻は、新たな被害者たちが「くすんだ指先」の症状を示している殺人事件について、ウィリアムがあれこれ推測するところから始まる。その傍ら、アドソは、若い娘との交情に罪の意識を感じながらも、その衝動について必死の省察を行っている。そして異端審問官ギーに率いられた教皇派使節団一行の到着。ウィリアムは、引続き殺人事件の鍵が蔵書の中にあると考えて文書を当たり続けている。他方、到着したギーの一行は、僧院の関係者を、アドゾが交わった娘と共に異端者と魔女として捕らえている。そして僧院では、教皇側の使節と皇帝側=フランチェスコ派との間でのキリストの「清貧」を巡る教理討論が繰り広げられているが、ウィリアムは、その討論よりも、殺人事件の鍵を握る書物の方が重要だと考えている。晩餐の席では長老ホルヘが、今回の一連の事件が反キリストの行いへの報いであるという長大な訓示をたれている。そしてウィリアムは、アドソに、異端審問の過程で、娘は、ドルチーノ派と呼ばれた男たちと共に処刑されるだろうと告げている。また新たな毒殺事件。しかし、そこで、ウィリアムとアドソは、僧院長から、この一連の事件は忘れ、翌朝早々に僧院から退去するよう告げられる。限られた時間の中で、彼らは最後の行動に移る。人が寝静まった深夜、僧院長の後を追い、彼らは文書館に向かう。

 こうして物語は大団円に入る。文書館の中で待つホルヘとの対峙。ホルヘは、僧院長は、文書館の秘密を知ったために、そこの迷路で閉じ込められ死んだと言う。そしてウィリアムに、今回のすべての事件の鍵を握る、アリストテレスの『詩学』の『第二部』を差し出すが、ウィリアムは、その罠を見抜いていた。ウィリアムとホルヘの最後の闘い。しかしそれは、僧院の焼失という悲惨な大団円を迎える。一連の殺人事件は、ホルヘの「笑い」への嫌悪(「キリストは決して笑わなかった」)がもたらした悲惨な結果であった。燃え上がる炎の混乱の中、ウイリアムとアドソは僧院を離れ、そしてミュンヘンで永久の別れとなる。アドソは、老境に差し掛かった時、改めてこの僧院の廃墟を訪れる。「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今残レリ」が、そこでのアドソの最後の感慨であった。

 私なりに、この長大且つ饒舌な小説を振り返ってみたが、私がこの作品を十分理解したかどうかは、全く自信がない。とにかく、この原作が、中世イタリアのキリスト教世界での表裏を様々な角度から蘇らせようという壮大な試みであることは間違いない。

 個人的には、やはり背景となっているドルチーノ派の反乱が、青春の記憶を蘇らせる。学生時代に、この事件を取上げた樺山紘一著の「ルネサンス周航」に惹かれ、その後のロンドン勤務時代に、友人と共にミラノから、電車とバス、タクシーを乗り継ぎながら、ポー河をアルプスに向かい遡り、ドルチーノが最後に砦として籠り、そして全滅した「反逆者の山(モンテ・レベルス)」を目指したことがあった。樺山の本に掲載されたその地の写真だけが唯一の頼りであったが、結局それらしき場所には到達できず、それでもその近くまでは行ったという自己満足に浸ったものであった。その意味で、この作品で繰り広げられているのは、イタリア中世の壮絶な歴史であると共に、私自身の青春の歴史でもあった。原作の出版から約40年、邦訳の出版から30年経って、この作品に触れ、そうした感慨を抱くことができたのは幸運であった。まだまだ未知の世界は広がっているのだ。

 こうして原作に圧倒される中で、映画版を見ることになった。映画版は、フランス、イタリア、西独の共作で、監督はジャン=ジャック・アノー、主人公のウィリアムをショーン・コネリーが演じている。ジャン=ジャック・アノーは、どこかで聞いたことがあるなと感じていたら、先日見た「スターリングラード(別掲)」の監督であった。俳優陣は、S.コネリー以外には、聞いた名前は見当たらない。

 原作を読んだのちの映画版の感想を一言でいうと、原作より圧倒的に分かり易い。原作の饒舌な文体で、物語の展開が遅々と進まないことにやきもきさせられたのに対し、映画は、修飾を排し、物語の展開をつぶさに追うことができる。中世北イタリアの山頂にある僧院という舞台は、景観としてたいへん素晴らしいが、それが映される時間は僅かで、話が室内や夜を中心に展開していくことから、画面が全体に暗いのが気になる。

 こうして原作に従い、次々に発生する僧院内の殺人事件の謎にS.コネリー演じるウィリアムが挑んでいく。アドソ役の少年が、彼に従っている。その中で存在感があるのは、盲目の老僧ホルヘで、盲目の眼がアップで映し出されると、その威圧感が画面から伝わってくる。そして、ドルチーノ派の嫌疑を受けて逮捕される男の奇妙な外見も、頭に残ることになる。こうしたヨーロッパ中世の奇妙な人間を描いているのも、この映画の特徴であろう。アドソと交わり、そして異端審問官ギーに魔女として逮捕される農民の少女は、各場面暗い中で登場することから、その姿をはっきりと見ることはできない。

 原作で延々と繰り広げられている教皇派とフランチェスコ派との教理問答も映画で挿入されているが、これは飾りといった程度で、むしろドルチーノ派の嫌疑をかけられた男や娘の異端審問に多くの時間が割かれることになる。そして彼らが、連続殺人の犯人として十字架の上で火刑に処されるタイミングで、ウィリアムとホルヘの最後の闘いが繰り広げられ、僧院が炎に包まれる。その混乱の中、炎から生き延びたウィリアムとアドソが馬に跨り僧院から立ち去ろうというその時、娘が道端に立ち、アドソと最後の別れを行う。娘は処刑を免れたということで、アドソは、娘の名前も知らぬまま僧院を去ることになるが、物語自体はハッピーエンドを迎えるのである。私が見逃しているのかもしれないが、原作では、こうした娘の生存や、あるいは異端審問官ギーが、僧院からの逃亡時に村民に襲われ、崖下に突き落とされて死ぬような場面はなかったのではないか、と思われる。その意味では、映画版は、繰り返しになるが、この壮大な原作の展開部分を要領よくまとめ、そして同時に観客に感慨をもたらす様な物語の修正を加えたのではないか、と思える。それが、私の原作の読込み不足によるのではないか、という懸念を消し去ることはできないが・・。

 いずれにしろ、やはりこの映画版も大作であることは間違いない。中世ヨーロッパのキリスト教世界の表裏を浮かび上がらせた秀作である。

鑑賞日:2021年3月24日