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日の名残り
監督:ジェームズ・アイボリー 
 1993年に制作された英国映画で、監督はジェームズ・アイボリー、主演はアンソニー・ホプキンス。ネットの解説では、アカデミー賞の多くの部門にノミネートされたようであるが、受賞については触れられていないところを見ると、それは逃したようである。映画の前に、先ずはカズオ・イシグロの原作小説に触れておこう。

 この原作を読む前に、J.ル・カレの「リトル・ドラマー・ガール」を読んで感動していたが、この小説と同様、イシグロは、私のロンドン時代の悔いが残る作家である。ロンドン滞在中の1986年、彼が「浮世の画家(An Artist of the Floating World)」で英国の文学賞を受賞した際、長崎出身の日系若手作家ということで興味を持ち、このペーパーバックを購入したが、挫折してしまった。ル・カレほど、英語が難しかったという印象はないが、読み始めた後で、内容的にあまり興味を抱けなかったことが理由であったように記憶している。そしてこのパーパーバックは、ロンドンを去る時に処分をしてしまったと思う。

 その後1989年、彼は、この「日の名残り(The Remains of the Day)」で、英国の芥川賞とも言えるブッカー賞を受賞する。この時、私は既に日本に帰国済であったが、この報道は記憶している。日系作家が、英語圏最高の賞を受賞したことに、改めて印象深く感じたが、バブル経済の最中、私にはもう既にこうした世界に入っていこうという気持ちは持ち合わせていなかった。それから30年以上の歳月が流れ、仕事からの引退、日本への帰国、そしてコロナ禍での行動制限が重なる中、暇潰しのため映画通の友人から勧められたのが、この「日の名残り」の映画版(1993年制作)であった。そしてまずは、この原作本から入ろうということで、図書館にあったこの文庫本に目を通してみた。因みに彼は、2017年にはノーベル文学賞を受賞している。もちろんこの報道も目にしていると思うが、あまり印象的な記憶としては残っていない。そのくらい、最近は彼には関心を払っていなかったということであろう。

 さてこの小説であるが、英国貴族の屋敷に執事として仕えた男の回想が軸になる。その貴族(ダーリントン)は、第一次大戦から第二次大戦後にかけて、政権内部でも影響力を有し、自分の邸宅で多くの公式・非公式の会合を開いていた。そしてその邸宅の執事として長年に渡って仕えた主人公スティーブンスは、ダーリントンが逝去し、邸宅がアメリカ人に売られた後、新たな主人から休暇をもらい、英国内の自動車旅行に出かける。その過程で、かつての主人が開催したこうした会議や、彼の手足となって活躍した女中頭(ミス・ケントン)他の雇人との日々を回想していくのである。

 冒頭は、「何だ、英国の古い時代の召使いを描いた小説か。」ということで、今一つ期待感を抱けなかったが、この貴族が、第一次大戦後のベルサイユ体制への批判的活動を行っていたことや、それとは反対に、第二次大戦前は、モズレイに率いられた英国親ナチ勢力の影響下、駐英ドイツ大使リッペントロップらと共謀し、英国王のヒトラー訪問等も計画していたこと等が、執務中に目撃や漏れ聞いた会話として、主人公の口から語られることになる。主人公は、これらはあくまで「ご主人様」の世界であるが、そのご主人様に完璧に仕えることで、その世界に関与し、同時に執事としての品格が示されると考える。しかし、第二次大戦が終わり、その貴族が親ナチ的な活動を批判され、失意のもとで死んだ後、邸宅ごとアメリカ人に売り渡されたことで、英国内を回りながら、自分の人生について考えることになる。その中には、そうした時代に、時として自分とぶつかりながらも、完璧に仕事をこなし、しかし道途中で、結婚を理由に去っていった女中頭との思い出と、彼女との再会への期待、といった「等身大」の世界も語られることになる。

 既に過去のものとなりつつある英国貴族社会とその邸宅で働く雇用者たちの古い世界、あるいはもっと言ってしまえばかつての大英帝国の残照とその終焉を描いた作品と言えなくはない。最後に、主人公が、海岸の夕日を見ながら、過ぎ去った日々を回顧しながら涙する場面は、この小説のタイトルのとおり「過ぎ去った時代の名残り」と、主人公が語る「古き良き執事の品格」が時代遅れとなっていることを象徴することになる。その意味で、これは私がロンドンに滞在した80年代、既に英国が世界の覇権を失い、そして国内的にも停滞感が溢れていた(そしてそれをサッチャーが必死で取り戻そうとしていた訳であるが・・)時代を文学的に表現したものと見て良いだろう。「懐かしい英国」。しかし、それだけでは、この小説の評価を高めることにならなかっただろうし、私もいっきにこの作品を読み進めることにはならなかっただろう。英国内を旅行しながら回想するという「ロードムービー」的な楽しさ、あるいはそこで出会った人々との虚実入り混じった会話、そして最後に元女中頭ミス・ケントンとの再会と別れ等、大きな政治世界から日常的な庶民の生活や会話まで取り込んだ小説の進行は、なかなか読ませる力を持っていた。1960年に、父親の仕事で長崎から英国に移り、そこで教育を受けた後、1983英国に帰化したという、この私と同じ1954年生まれの日系英国人作家への興味を、これも約30年の歳月を経て蘇らせてくれたのである。

 そうしてこの原作を読了した翌日、終日小雨が降ったり止んだりの肌寒い一日、予定のテニスも雨で中止となり時間を持て余したことから、早速近所のレンタル店に行ったところ、先日観たタイ映画とは異なるメジャーの作品であったのだろう、直ぐに在庫が見つかり借りることができた。

 映画は、イシグロの原作の主要エピソードをほぼ忠実に再現しているが、オックスフォード地域にあるというマナーハウスは、映像で写されると、まさにロンドン時代に数多く訪れたこうした郊外の屋敷を懐かしく思い出すことになった。こうした貴族の館は、私の滞在時には多くが、個人では維持できなくなり、国の管理機関(National Trust)に寄贈され、私のような一元の観光客に公開されていたのであるが、映像では、こうした館が実際どのように使われ、また管理・維持されていたかを、文字で読むよりもありありと語ってくれる。そうした雰囲気の中で、映画が進んでいく。

 原作でも描かれている通りの、「プロ意識」に貫かれ、それが執事の「品格」であると確信しているスティーブンスを、A.ホプキンスが、それこそ原作以上に厳格に演じている。重要な国際会議の夜、父親が倒れ、そのまま逝去しても、仕事を優先し、あるいはエマ・トンプソン演じる有能な女中頭が、プロポーズを受入れ屋敷を辞めるかどうか悩み相談しようとしても、一切の感情を混ぜず、冷たく了承するだけである。このあたりのホプキンスの演技は、主人公の性格を、小説の中よりもより極端に表現している。他方、エマ・トンプソンも、表面は有能で強いが、一人でいる時には女性的な弱さも表す性格を巧みに演じている。そしてダーリントン卿のジェームズ・フォックスは、使命感を帯びて各種の公式・非公式会議をアレンジし、またスティーブンスら雇用者には気遣いを示す善人でありながら、戦後は「裏切り者」のレッテルを張られて失意に沈んでいく様子を好演している。かつてこの邸宅での会議に加わり、ダーリントン卿亡き後、新たな邸宅の主としてスティーブンスが仕えるアメリカ人ルイス、あるいはスティブンスの父親等、その他の俳優も、それぞれの雰囲気を醸し出している。そしてそれがミス・ケントンとの再会で、「名残りゆく日々」として終わる時の映像は、小説よりもより感傷的に伝わってきたのである。

 いくつかのネットでも指摘されているが、原作中の邸宅での大きな国際会議二つの内の1923年、ダーリントンがベルサイユ体制を批判するために開いた会議が、映画では1935年、既にヒトラーが勢力を増している時期に変えられているのは、確かにダーリントンの「正義感と善意」が、第二回目のリッペントロップらとの会議で「ナチの駒」となっていく悲劇を語るには、やや不適切である。また映画では、その1935年の会議で、ひとり、多くの参加者が賛同したドイツ融和策を「シロウト」の発想と批判するスミスが、ダーリントン亡き後の邸宅の主人となっているが、これは原作とは全く異なっている。これは、この米国政治家に先見の明があり、その結果として、結局この館を手に入れた、という筋書きにしたかったのであろうが、あまり意味はないように感じた。また彼が旅の途中で出会う田舎町の人々が、彼がダーリントン卿の邸宅から来たと言うと、「ダーリントンは裏切り者」というコメントするが、原作では、民衆にダーリントンの名前が知られている訳ではように描かれている。この辺りも、主人公の過去への悔恨をより強く印象付けるための強調なのであろうが、実際は、原作で描かれた「主人公の漠然とした過去への喪失感」を薄めてしまったように感じた。その他、細部では、主人公が新しい主人から借りて旅行に出る車が、原作のフォードからダイムラーに変えられていたが、その理由は分からない。

 そんなことで、原作との相違はいくつかあるが、「黄昏」感が漂う、主人公が旅する英国の田舎の風景の数々は、なかなか趣があった。雨のバス停での、主人公とミス・ケントンの最後の別れの場面では、つい目頭が熱くなるのを感じていた。ミス・ケントンは、実はかつてスティブンスに淡い恋心を板いていたのであろうが、彼はみずからの「品位」でそれに気が付くことはなかった。そしてミス・ケントンも再会後に、彼は全く変わっていないことを感じたのである。この二人の関係が、この映画がレンタル店で何故か「ドラマ」ではなく、「ラブ・ストーリー」のカテゴリーに入っていたことの理由なのだろうとふと思ったのであった。

鑑賞日:2021年5月15日