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監督:ギャヴィン・フッド 
 2019年に英米合作で制作され、2020年8月に日本で劇場公開された作品。昨年末に、映画通の友人から薦められたが、その時には既に首都圏の劇場公開は終了していたために見逃してしまったが、今回レンタル店で、新作DVDとして借りることができた。2003年、米英軍によるイラク侵攻作戦の開始前夜に、英国で起こった情報リーク・告発事件の実話で、監督ギャビン・フッド、主演のキャサリンをキーラ・ナイトレイという女優が演じている。

 英国の諜報機関GCHQ(政府通信本部)に勤務する、本業は北京語機密情報の翻訳を任務とするキャサリン他のスタッフに、米国NSA(国家安全保障局)からのEメールが転送される。その情報公開自体は、GCHQ内部での承認を得たものであったが、それを見たキャサリンは、ブッシュとブレアが、イラク戦争の合法性を得るために、国連安保理事会のメンバー諸国に対する違法な工作を行っていると憤慨し、悩んだ末に、昔からの友人である反戦活動家に、マスメディアへのリークを依頼する。情報を受け取った英国の一般紙オブザバー担当記者マーティン・ブライト(マット・スミス)は、社内での反対意見はあったものの、リークから二週間後、それを一面スクープ記事として掲載する。その記事を巡っては、当然ながら英米両国の政府から各種の圧力がかかることになり、オブザバー紙もメディアとしての議論に巻き込まれるが、それ以上にGCHQ内での情報リークの犯人探しが行われる。担当官との面接で、いったんは自身の関与は否定したキャサリンであるが、同僚が何度も何度も問い詰められる姿を見て、自身がやったことを申し出る。そして以降は、キャサリンの取り調べと、彼女の支援を引受けた弁護士らの作戦を交えながら、彼女の運命が展開していくのである。

 実話ということであるが、どこまで脚色しているかは定かではない。オブザバーの記事に引用された米国からのEメールに、米国英語ではない、英国英語が使われている(favorではなく、favour)ので、「このメールは捏造」との批判が出るが、それは新聞社内の若い校正担当者が「通常通りの単純な英語校正を行った結果」であった、というのは小さな笑い話である。

 しかし、それ以上の見所は、政府側からの数々の揺さぶりと、それを受けてのキャサリンの苦渋、そしてキャサリンを支援する弁護士エマーソン(レイフ・ファインズ)の対応である。
 政府側は、起訴まで時間を置くことで、キャサリンの不安を煽る。またキャサリンは、亡命申請が認められなかったクルド系トルコ人と結婚し、彼の英国定住を確保しているが、政府側は、その彼を突然拉致し強制送還させようとする。彼は、すんでのところで解放されるが、このあたりのキャサリンの不安に揺れる心をキーラ・ナイトレイが好演している。

 他方、弁護士のエマーソンは、同僚たちと彼女の裁判戦略を練っている。彼は有罪を認め、情状酌量で減刑を目指すか、はたまた無罪を貫き、戦争の違法性を主張するかの選択をキャサリンに問うが、彼女は徹底抗戦を主張する。後者で勝訴を勝ち取る時に鍵になるのは、英国政府のイラク戦争参戦(戦争の法的正当性の承認)がいつの時点で決定されたのか、ということであるが、政府内でこの参戦に反対し辞職した政治家を訪問し、決定的な事実を引き出すことに成功する。こうした戦略が、最後の法廷での結末をもたらすことになる(それは観客的には、ややあっけないものであったが・・)が、もちろんその裏には、この戦争を政治化したくないという政府側の最終的な判断があったということでもある。

 映画は、実際のブッシュやブレアのコメント場面やイラク侵攻の様子もふんだんに挿入しながら進むが、まさにこうした映像は、約20年前のあの戦争をありありと思い出させてくれる。フセインは拘束され、その後処刑されたにも関わらず、侵攻の理由であった大量破壊兵器は見つからなかったこの「大儀なき戦争」の背後に、こうした市民の抵抗があったことを、この映画は伝えようとしている。映画の最後には、裁判後の本物のキャサリンの映像も映り、この事件が英国では結構世間を騒がせたことを伺わせるが、残念ながら、日本でこれが大きく報道されたという個人的な記憶は全くない。しかし、そうした国民レベルでのブレア政権に対する批判が、この映画の結論につながると共に、その後の「ブッシュのプーシーキャット」と嘲られたブレアの評価となったことは間違いない。政権獲得時は、「ニューレイバー」且つ若い論客ということで期待されたブレアが、結局この戦争で汚点を付けたことで失速し、その後のブラウン政権への移行を早めることになったのは、ブレアの同世代の私としてはたいへん残念なことであった。考えてみれば、ル・カレもこの戦争には反対で、先日読んだ「サラマンダーは炎のなかに」でも、主人公二人に、この参戦への反対とブレアへの批判を語らせていたものである。しかし、他方で、これが「大儀なき戦争」であったにもかかわらず、ブッシュは、ウォーターゲート事件の際のニクソンのように、任期途中で辞任を迫られることもなかったのは、この戦争が米国では9.11の弔い合戦として政治的に正当化されたことを示すことになった。その意味で、こうした事件は英国でしか起こり得なかったとも言える。

 ブレア政権が、英国内での世論やEUからの反対にも関わらずイラク戦争に突き進んだ裏で繰り広げられた一人の女性の闘いを、英国らしい冷静な視点で描いた秀作であった。

鑑賞日:2021年6月1日