アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
映画日誌
その他
ミス・マルクス
監督:スザンナ・ニッキャレリ 
 前回映画館に足を運んだ8月は、コロナ感染が急拡大し、政府からは不要不急の外出は極力控えるようにとのメッセージが繰り返されている時期であったが、今回は逆に感染が急速に縮小し、今月1日より全国的に緊急事態や蔓延防止宣言が解除されるタイミングとなった。場所は8月と同じ渋谷であるが、今回は東口方向。かつて大学時代に結構頻繁に通っていた青山学院大学の近所にある小さな映画館である。狙いは、カール・マルクスの娘の一人を主人公にした作品である。

 カール・マルクスの子供については、今までそれほど多く語られることもなく、また個人的な関心もなかったが、彼が6人の子持ちであったことは、今回初めて知ることになった。そして映画は、その子供の内、末娘であったエレノアの晩年に焦点を当てた作品である。2020年制作、イタリアとベルギーの共作で、監督・脚本はイタリア人のスザンナ・ニッキャレリ、主人公のエレノアを、香港生まれ、シンガポール育ちの英国人女優モローラ・ガライ、その愛人エドワード・エイブリングを英国人のパトリック・ケネディが演じている。その他、晩年のエンゲルスや回想シーンでのカール・マルクスも登場するが、俳優を記載する必要はないだろう。

 1883年、カール・マルクスの墓で、エレノアが追悼と参列者への感謝の言葉を述べるところから映画が始まる。ヴィクトリア時代の英国の墓地。恐らくそこは、100年後に私が訪れることになるハイゲート墓地なのだろうが、先に逝った妻と共に埋葬された彼の墓の墓碑は、100年後のそれ(大きなカール・マルクスの顔が乗せられた派手な墓碑であった)とは異なる質素なものである。そして葬儀の後、エレノアが、父が残した遺稿の整理を行ったり、英国の労働運動支援や工場での児童労働の廃止に向けた運動、あるいは女性の権利拡大等、父親の意向を受けた社会活動を行っていく様子が描かれる。そうした活動の過程で、恐らく父親の信奉者であるのだろうが、劇作家のエドワードと出会い、惹かれ合い、同棲することになる。エドワードは、妻帯者であることから結婚はできず、エレノアもそれを知った上での同棲であったが、その後彼女はエドワードの不貞、そして彼の健康不安に悩まされることになる。そして1898年、使用人に劇薬を調達させた後、それを服毒し、自殺するところで映画が終わる(最後は、回想的に、カール・マルクスを囲み、娘たちが、自分の希望を語るところが挿入されるが、そこで子供のエレノアは「前へ進め」と言うのである)。享年43歳。あまりに早い人生の終わりであった。

 ということで、エレノアの悲しい人生を描いた作品ということで、全体としては暗い作品であるが、それを打ち消すためだろうか、映画の開始からBGMとしてパンクロックの激しい音(米国のダウンタウン・ボーイズというバンドとのこと)が節々に使われている。特に、自殺の直前、ウエールズでの療養から戻ったエドワードの治療をしながら、希望を失っていく場面では、あえてこのパンクロックの音楽に合わせてエレノアに狂ったように踊らせるという演出をしている。それまで挿入されてきた、彼女の社会運動家としての演説や、エドワードと演じるイプセン「人形の家」の語り劇(当初は、エドワードとの不仲を示す場面かと思ったら「劇中劇」であった)等の場面とあまりに違和感のある演出であるが、それは監督が敢えて意図的に入れた場面であろう。個人的には、あまり評価できるものではないが、この辺りは人によって感想が異なるところだろう。

 時折映される、19世紀末のヴィクトリア期のロンドンや郊外の雰囲気は、それから100年後にこの町に住んだ私にとってはたいへん懐かしいものであった。実際のヴィクトリア時代は、工業発展の結果、環境汚染も広がり、ディッケンズ等が描いた街の雰囲気はもっと暗かったと言われているが、この映画では、100年後とそれほど変わらない町という印象である。これがロンドンのロンドンたる由縁であろう。現在、ソ連の崩壊や中国社会主義経済の変質の中で、一旦は過去の遺物となっていたマルクスが注目され、新たな「資本論」が再び議論されているが、そうした風潮は無視して、マルクス一家が生きた英国の一時代を懐かしく眺めることのできる作品であった。

鑑賞日:2021年10月4日