クーリエ
監督:ドミニク・クック
一週間に二度目の映画館。今回は川崎駅前の映画館で観たのは、1960年代の対ソ連諜報戦を扱った「クーリエ」。米ソの核戦争の危険が迫る中、MI6とCIAの依頼を受け、英国の普通のセールスマンが、ソ連の情報提供者とコンタクトし、ソ連側の核開発やキューバへのミサイル配備に関する情報を入手し、結果的に核戦争の危機を避けることに貢献したという、実話を基にした作品である。2020年制作、英米合作で、監督は英国人のドミニク・クック。主人公のセールスマンを英国人のベネディクト・カンパーバッチ、彼に情報を提供するソ連軍参謀本部の高官を旧ソ連グルジア出身のメラーム・ニニッゼが演じている。
この映画の直前に、MI6で長年ソ連に機密情報を流し続けたキム・フィルビーに関するノン・フィクションを読んだばかりであるが、この本のあとがきで、ル・カレが、この映画の素材となったペニコフスキー事件についてのニコラス・エリオット(MI6のフィルビーの親友で、彼の裏切りが暴露された後、フィルビーを尋問した男)の回想に触れている。この事件については、「ペニコフスキー文書」というタイトルの本が出版されたが、エリオットは、この本については「CIAが冷戦のプロパガンダとしてでっちあげた」と批判的で、ペニコフスキーはそこで描かれている様な英雄ではなく、「昇進できずに腹を立てていただけ」、またアメリカ側はペニコフスキーを相手にしなかったが、MI6の対ソ連作戦監督官が彼を信用し取り込んだのだ、と主張している。
これはあくまでフィルビー事件の関係者による回想なので、当然バイアスがかかっていると思われる。そしてこの映画では、主人公は、MI6とCIAの依頼を受け、詳しいことを敢えて尋ねずモスクワでペニコフスキーと接触し、彼が撮影した核ミサイルやキューバ配備関係のマイクロフィルムを運び出すセールスマン、グレヴィル・ウィンであるが、彼に情報を提供するペニコフスキーも、衝動的なフルシチョフが核ミサイルを持っていることを懸念し、また情報提供が米ソの核戦争を回避するために必要な行為であると信じる「英雄」として描かれることになる。
米ソ核戦争の危機が高まっているという背景から映画が始まる。MI6の男とCIAの
女が、ソ連にいる情報提供者から、どのように情報を運ぶかを議論している。「目立たない普通の人間を使おう」ということになり、英国商務省の役人を装って、ウインと接触する。ここでウィンにソ連のビジネスを引受けて欲しいという依頼を行い、今までソ連とのビジネスのない彼も、それを引受けることになる。この過程は、「なんで彼が?」という疑問を感じさせるが、それは敢えて横に置いておこう。そして、モスクワで二人は、ビジネス目的で接触し、またペニコフスキーは、西側も訪れ、そこでも接触する様子が描かれる。モスクワでは、ボリショイ・バレーも観劇するが、そこには来賓としてフルシチョフも訪れている。そして街を歩きながら、ペニコフスキーはウィンに、さり気なく情報を手渡すのである。それはソ連の核開発やキューバへのミサイル配備に関する情報で、CIAにとっては貴重な情報であった。
何度かそれが繰り返された後、ペニコフスキーの元にKGBの監視官が訪れ、ウィンとの接触につき警告が出される。それに気が付いたMI6/CIAの担当は、ペニコフスキー一家の亡命を画策するが、その計画を伝える役割を誰に任せるか。当初は、ウィンはこの任務から外すことを提案するが、彼は、あと一回だけ自分にやらせて欲しいと志願し、CIAの女と共に再びモスクワに入ることになる。しかし、既に彼らはKGBに監視されていた。亡命の実行日、早く家に帰宅したペニコフスキーを迎えたのはKGBの一団で、帰国の飛行機に乗ったウィンも機内で拘束、CIAの女も外交特権を主張するが、「ペルソナ・ノングラータ」として追放されることになるのである。
こうして以降は、監獄でのウィンの尋問が続けられることになる。帰国したCIAの女は、MI6の担当官と共にウィンの留守宅を訪れ、彼のモスクワでの拘束と、解放の努力を伝えることになる。結局、ウィンは、「自分は何も知らないただの運び屋(スパイではない)」との主張を貫き、6か月後に、ウィンの妻は、モスクワの監獄で彼との面談を許され(良い兆候だ)、そしてそれから1年後、捕虜交換で解放され英国に戻ることになるのである。その間、一度だけ監獄でペニコフスキーと面談するが、彼はウィンに対し、「君がしたことは、核戦争を回避するために貢献した。君は英雄だ」と述べる。ペニコフスキーはその後処刑されるが、彼の家族は、モスクワで生き延びたということである。最後に、解放された際のウィンの記者会見の実写映像が挿入され、映画が終わることになる。
フィルビー本を読んだ後であるので、このウィンやペニコフスキーの逮捕も、フィルビーからの情報に基づくものであったか、と考えたが、それはKGBが独自の監視から発覚したとの評価になっているようである。いずれにしろ、偶々図書館で見つけて読んだフィルビー物でさんざんに描かれた冷戦時の西側とソ連の情報戦が、相変わらず現代でも映画の素材として使われているというのは、この時代へのある種のノスタルジーの表れではないかという気がする。もちろん、冷戦後も、こうした陰での戦いは、9.11以降のテロリスト対応や、現在の中国の台頭に伴う情報戦等、形を変え依然続いていることは確かである。この世界は、映画にしろ小説にしろ、またいろいろな表現を与えられて出てくることになるのだろう(華為の副社長のカナダ・トロントでの逮捕を描いた短編映画なども、この系列の現代版と言える)。この映画では、ウィンは「ただの運び屋」ということで約1年半の拘束で解放されたので、ある意味、一般公開される映画に使い易かったということであろうが、この世界では、そうした幸運な者だけではなく、多くの命が犠牲になっていることに、改めて思いを馳せたのであった。
鑑賞日:2021年10月7日