エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
監督:ダニエルズ
近所のレンタル店の閉店前に、気になっていた作品を観ておこうということで、久し振りの「準新作」として高い料金を払い借りたのが、この2022年制作のアメリカ映画である。第95回アカデミー賞では同年度最多の10部門11ノミネートを果たし、作品、監督、脚本、主演女優、助演男優、助演女優、編集の7部門を受賞した(ネット解説)とのことで、その記憶があったことに加え、主演がマレーシア出身の華人系女優で、かつて観た「The Lady」でアウン・サン・スー・チーを演じたミシェル・ヨーであることから気になっていた作品である。監督は、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナートというコンビから、「ダニエルズ」と呼ばれているようであるが、私は初めて聞く名前である。
映画は、ミシェル・ヨー演ずる、どこにでもいるような主婦然としたエヴリンが、伝票の束を前に、税務申告の準備に格闘している様子から始まる。彼女はコインランドリーを経営しているようであるが、年老いた父親ゴンゴンの世話や、家族のための食事の準備等に忙しい。夫のウェイモンド(キー・ホイ・クアン)は、優しいだけで余り役に立たず、エヴリンは離婚を考えているようである。また娘のジョイ(ステファニー・スー)は、同性愛者の様で、「恋人」のベッキーという白人女を連れて店を訪れているが、エヴリンは、ゴンゴンには二人の関係を紹介することができない。そこで、「Everything Part 1」というルビが流れ、本編が始まる。
エヴリンは、ウェイモンドと車椅子のゴンゴンを伴い税務署を訪れるが、エレベーターの中でウェイモンドが、変な装置を示し、税務署での対応を示唆するところから、映画がおかしくなる。そこの女担当官から、カラオケ機材の購入伝票が税金控除の対象として認められないので、直ぐに再提出しろ求められている辺りから、エヴリンの頭の中を数々の幻想が飛び交うようになり、そのディアドラという太った税務官の中年女を殴ってしまうのであるが、今度は、そこに駆け付けた警備員たちに対し、ウェイモンドが変身し、カンフーでの大太刀回りを繰り広げることになる。どうもウェイモンドは、別の宇宙から来た存在にとって代われているようで、彼の敵はディアドラや警備員たち。そしてエヴリンは、その別の宇宙でカンフーの技を教え込まれたエリートで、ウェイモンドは、彼女をその闘いに引き入れようとしているようである。そしてその闘いの最中に、今度は突然ギンギラギンのパンクっぽい化粧に身を包んだジョイが参入する。そのジョイは、エヴリンの敵の首領であるジョブ・トゥバキが乗り移っているようである。
こうして映画は、これらの人物の現世界の様子と、別世界の魂が乗り移った様子が交錯しながら進んでいく。派手な衣装に身を包んだパーティーやら、指がソーセージになった姿など、訳が分からない場面が挿入される。老人のゴンゴンまでもウェイモンド側で参戦し、エヴリンに、ジョブ・トゥバキが乗り移ったジョイを殺せと迫り、エベリンがそれを阻止している。そしてマンダリン歌手に変身したエヴリンは、今度は、それまでの日常世界で登場した男女などがジョブ・トゥバキ側となって押し寄せる中、カンフーの大太刀回りで対抗していくのである。そこで画面には突然「The End」という表示が流れる。「あれ、これでお終いなの」と思っていたら、それは劇中映画のようで、エヴリンは映画館から出ていき、映画自体はまだ続き、「Everywhere Part 1」とのルビが流れることになる。
旧正月の飾りで溢れるコインランドリーに、ジョイと恋人ベッキーがやってくる。エヴリンはウェイモンドに、署名をした離婚届を渡している。するとすぐさま別世界に移行し、エヴリンは、ジョブ・トゥバキが乗り移ったジョイに「娘を返せ」と迫っているが、ジョイは応じない。コインランドリーには、ディアドラが闖入し、税金取り立てで根抵当権を実行するとまくしたて、エヴリンを椅子に縛り付けている。別世界でのエヴリンとジョブ・トゥバキが乗り移ったジョイとの対決。と画面は突然、砂漠の丘陵地帯にポツンとおかれた石二つ。エヴリンとジョイが閉じ込められた石のようで、二人の宇宙観が交互に語られる。そして現実界では、ウェイモンドがディアドラを説得し、修正申告期限を延ばし、そして別世界ではエヴリンとディアドラが和解し、ディアドラが足の指でピアノを弾くのをエヴリンが眺めている。エヴリンとジョブ・トゥバキ一派との最後の対決。その中、現実界ではジョイはエヴリンの下を去ろうとし、砂漠におかれた石は、別々に崖を下って落ちていくが、エヴリンがジョブ・トゥバキ一派に勝利すると、現実界では再びジョイはエヴリンの下に戻り、ウェイモンドとの離婚も解消、そして父親もジョイの恋人ベッキーを認めることになる。
そこで「All At Once Part 1」のルビ。ベッキーが運転する車で修正申告を持って税務署を訪れるエヴリン、ウェイモンド、ゴンゴン、ジョイの4人。彼らにディアドラは「申告書は良くなっているが、明細はまだ微修正が必要」と友好的である。ただエヴリンはうわの空で、それをディアドラに「聞いているの」と問われるところで、最終的に映画が終わることになる。
いやはや何とも理解不能な映画である。ミシェル・ヨーは、普通のおばさんから、派手なカンフー使いやマンダリン歌手など様々に変貌する(考えて見れば、ミシェル・ヨーは、カンフーを軸としたアクション女優としてハリウッドで有名になった女優であった)が、アウン・サン・スー・チーを演じたような、正統的な演技は一切見せることがない。周りの共演俳優たちも、それなりの実績がある連中のようであるが、特に娘のジョイは、デブ、ブスの女優で、もちろんジョブ・トゥバキが乗り移ったパンックっぽいジョイであれば兎も角、映画で「普通の娘」を演じるような女優という感じは一切ない。そして何よりも、現実と別世界が交錯する画像は、ほとんど脈絡がなく展開しているが、悪く言えば、多忙な日常生活の中で夫や娘との関係に問題を抱えていた主婦が、別世界との接触を通じて、彼らとの関係を修復し、最後はめでたしめでたし、というだけの映画である。これが何でアカデミー賞の多くの部門で入賞したの?というのが正直な感想である。おそらくその理由は、AI的な未来とカンフーやマンダリン文化といった東洋志向をミックスしたところにあるように思われるが、それらは私にとってはさして特別の関心がある要素ではない。そうした私の感覚は、既に現代映画の最前線からは遠く置き去りになれてしまったのだろうか?眼の手術を目前に控えた片目で見るには辛い映画であった。
鑑賞日:2024年2月22日