マグダレンの祈り
監督:ピーター・ミュラン
3月末に、自宅至近距離にあったレンタル店が閉店してから、旧作映画を観る機会が激減していたが、偶々立ち寄った川崎駅前の店で、以前から気になっていたこの作品を見つけた。かなり前に英文学専攻の友人から薦められたが、その時はその近所のレンタル店に在庫がなく、そのままになっていたものである。2002年の英国、アイルランド合作。同年のヴェネチア国際映画祭のグランプリを始め、数々の受賞を受けた作品で、監督はピーター・ミュランという初めて聞く名前であるが、彼は監督・脚本に加え出演もしているという。
1964年のアイルランド・ダブリン。結婚式と思わしき祝祭で、アイルランド音楽でコアーズなどでもおなじみの打楽器バウロンが奏でられる中、階上の別室で少女が従兄の男性に強姦されている。それを知った出席者の大人たちは、その若者を連れ出すが、同時に彼に犯された少女マーガレットも、ある朝大人たちに連れられ、車で自宅を後にする。
続いてある孤児院の柵越しに、若者の男たちがバーナデットをからかっている。バーナデットは孤児であるが、その美貌から男たちの関心を惹いているようである。しかしそこの管理者はそれを疎ましく思っているようだ。そしてもう一人、病院で赤ん坊を出産したばかりのローズが、ベッドサイドにいる母親から疎まれている。赤ん坊は私生児で、そこを訪れた男たちが、ローズに、赤ん坊を養子に出す、と詰め寄っている。一旦は合意したローズであるが、気が変わったと抵抗したが、結局赤ん坊は連れ去られ、彼女は悲嘆にくれることになる。そしてその3人が連れてこられたのは、マグダレンというカトリックの修道院で、映画では彼女らやその周囲の女性たちのそこでの生活が語られていくことになるのである。
マグダラのマリアを祀るその修道院での、マーガレット、バーナデット、ローズらの厳しい修行の様子が描かれる。聖書購読などの宗教教育に加え、洗濯や掃除に明け暮れる毎日。私語は禁止され、見つかった場合はシスターによる鞭打ちなどの処罰が容赦なく行われる。どうもその修道院は、性的な問題を抱えた女性たちを「改悛」させることを目的とした施設であるようだ。脱走を試みたウーナという女性は、逃げ帰った家から父親に修道院まで連れ戻され、罰として髪の毛を切り落とされている。バーナデットも、出入りの選択業者の若者を誘惑し脱走を試みるが失敗し、鞭打ちの処罰を受けている。また彼女たちを含む何人かが裸で並ばされ、シスターによる乳房や尻、はたまた陰毛などを評価されるという辱めなども受けている。3人と親しくなったクリスビーナは、やはり私生児を産んだことで収容されているようであるが、時々洗濯干しの時に、その子供を連れた姉が訪れ、首にかけた金属ネックレスを握りしめながら鉄扉越しの無言の会話をしている。しかしクリスビーナはある時に発熱しそのネックレスを紛失し、それをきっかけに精神を病んでいき、結局精神病院に移されることになる。街の祭りの際には、厳重に監視されながらそこに繰り出すが、そこの野外で行われるミサで、牧師が全身の痒みに襲われ、説教を中断し裸になり走り回るという場面があるが、これはマーガレットが、そうした食材を採取し、その牧師らに秘密に盛ったということなのだろうか?
いずれにしろ、マーガレット、バーナデット、ローズは、そうした異常な生活にうんざりしているが、ある日修道院をマーガレットの兄が訪れ、彼女は修道院から解放される。また彼女たちをいたぶっていた同じ収容者の老女が寂しく死んでいくのを見ていたバーナデットとローズは、「こんなところで寂しく死ぬのは嫌。私たちは4年も何をしていたの?」と呟き、それまでも何度か試みていた脱走を企て、街中での一般の人々に匿われたりして、ついに成功する。リバプールに向かうローズとダブリンに残り美容師としての人生を始めようとするバーナデットが、フェリーバスのターミナルで別れるが、バーナデットはその後街でシスターとすれ違い、複雑な思いでその横を通り過ぎていくのである。そして画面では、彼女たちのその後として、バーナデットは、スコットランドで美容院をオープン、結婚と離婚を3回繰り返し現在は独身、ローズは結婚し二人の女児が誕生、そして1996年に33年振りに別れた息子と再会したというルビが流れる。彼女は1998年に亡くなるまで熱心なカトリック信者であったという。マーガレットは、独身のままアイルランドの街の小学校で校長補佐となる。そして精神病院で症状が悪化したクリスビーナが映され、1971年24歳で拒食症により他界したとされる。アイルランドの女性収容施設には3万人が収容されたが、こうした施設は1996年に最終的に廃止されたというルビと共に映画が終わることになる。
実話を基にした本の映画化ということであるが、1960年代のカトリック社会であるアイルランドで、性的なトラブルを抱えた女性を収容するこうした施設が存在していたこと自体が驚くべき話である。マーガレットのケースは、もちろん強姦した従兄の若者は周りの人々にパーティから連れ出されているが、その後彼がどのような咎めを受けたかは描かれていない。それに対し被害者であるマーガレットが、逆に「家族の恥」ということで、この施設に送られるのである。バーナデットの場合も、単に男たちの性的関心を惹いたということだけが収容の理由である。そしてローズのような私生児の出産。この辺りはやや極端に描かれているということもあるのだろうが、それにしても当時のアイルランド社会における女性の性的モラルに対する対応は異常である。さすがに同じ1960年代の日本でも、こうした問題を抱えた女性を強烈に差別したということはないし、カトリック総本山のイタリアでも、ここまでの対応や施設があったという話は聞いたことがない。もちろん、欧米カトリック社会での離婚の禁止や中絶に関する議論は、こうした女性の性的モラルの現在でも残る問題ではある。またモスレム社会でも、あまり表面化しないが、この問題は結構厳しく捉えられているのではないだろうか?しかしそれにしても、アイルランドのカトリック社会というのは、やはり極端である。北アイルランドでの宗教紛争も、こうしたアイルランドのカトリック社会の極端な性格も一因になっているのだろうかと勘繰ってしまうような作品であった。
因みにこれを書いている最中の新聞朝刊で、2023年ノーベル平和賞を受賞したイラン人女性活動家著の「白い拷問」という著作の邦訳が紹介されている。これはイランの女性(あるいは一般の)刑務所における拷問などを告発した著作のようである。新聞の書評によると、ここに収用されている女性囚の罪状は「イランの反政府組織の運動への加担、バハーイー教の信仰や活動、スーフィー(神秘主義)信仰、国家の安全を脅かす陰謀、反政府デモへの参加」等、政治的、宗教的なものが主体のようで、この映画のような「性的モラル」は挙げられていない。しかし、中にはそうしたケースもあるのではないだろうか?そんなことも考えてしまったのであった。
鑑賞日:2024年6月7日
(追記)
この映画評について、二人の友人からコメントを頂いたので、追記しておく。
まず映画通の友人からの、監督であるピーター・ミュランについてのコメント。彼は監督としてよりも俳優として知られており、代表作は、ケン・ローチという監督の「マイ・ネーム・イズ・ジョー」という作品で、これで彼は、1998年のカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞しているということである。これはネット解説によると、「元アルコール依存症で失業中の中年男を主人公に、英国労働者階級の泥沼を描き出す社会派ドラマ」ということである。機会があれば観ておきたい。
次にこの映画を薦めてくれた英文学者の友人からのコメント。野外で牧師が、痒みに襲われる場面について、まず私は「牧師」と書いたが、この言葉はプロテスタント系で使われ、カトリックの場合は「神父」が正しいということである。特にこの映画は、アイルランドのカトリック社会を描いたものだけに、これは重要な指摘である。今まで「神父」と「牧師」の相違も知らなかった私にとって有難いコメントであった(ただ上記のオリジナルの評では、あえてこれを修正しないで残しておく)。また映画でこの神父が痒みに襲われるのは、Stinging Nettle と呼ばれている草を、収容されている女性が神父の洗濯物、またはシャツに入れたからで、その場面があったということである。ネット解説では「セイヨウイラクサ」という日本語が当てられているこの植物は、人間が触ると激しい皮膚炎を起こすが、熱を加え無毒化した上でリウマチ治療に使われたり、水に浸して殺虫剤として使われている。私も英国滞在時に、ブロンテ姉妹で有名なヨークシャームアー(荒野)等を歩き回ったことがあったが、この植物の被害を受ける経験がなかったのはラッキーであったということなのだろうか?
2024年6月19日 追記