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Blood, Sweat & Tearsに何が起こったのか?
監督:ジョン・シャインフェルド 
 この夏の長引いた猛暑が一気に秋の雰囲気に変わった9月の最終週末、突然思いついて、このロックバンドをネタにした映画を観ることになった。2日前の27日(金)から国内で公開されたばかりの新作で、以前から宣伝を見て気になっていた作品である。2023年製作の米国映画で、監督は、ジョン・シャインフェルド。会場は、初めて行く新宿にあり、10月には、「ピーター・バラカンが選んだ音楽映画フェスティヴァル」で「キング・クリムゾン世界」といった作品上映が計画されているなど、音楽関係映画に力を入れているという感じである。週末の午後、こんな映画の2,000円のチケットを買う奴がいるのかと思いながら席に着いたが、50-60人程度と、思ったよりは客が入っている。もちろん中高年のオヤジがほとんどである。

 Blood, Sweat & Tears(以下「BST」。この話を伝えた友人からは、「BTSか?」と返されたが、こちらの方が間違いなく現在はメジャーである)は、まさに私がロックを聴き始めた60年代末から70年代初めを駆け抜けた所謂「ブラス・ロック・バンド」の先駆けである。当時、「スーパー・セッション」(私もなけなしの小遣いをはたいてLPを買ったものだ)などで、「ロック革命」を先導していたアル・クーパーが創設したバンドで、その1stアルバムは、アル中心に演奏されていた。しかし、2枚目では彼が脱退し、カナダ人のデヴィッド・クレイトン・トーマス(以下「デヴィッド」)がボーカルとして加わり、そこからの3曲がシングルとしても大ヒットし、一躍スターダムに上り詰めることになった。正確な時期は忘れたが、その頃来日し、私も武道館公演を観た記憶がある。しかし、その後3枚目の作品を出した後失速し、同じ「ブラス・ロック」先駆者のシカゴが、現在まで継続的に活動しているのに対し、BSTは、既に70年代終わりにはほとんど名前を聞くことがなくなっていた(一応今でもメンバーを変えながら活動しているということではあるが・・・)。私は単純に音楽的な展開が出来なかったからと考えていたが、今回の映画では、このバンドの人気絶頂期に起こったある事件を中心に、その失速の要因を、メンバーのインタビューも交えながら描こうとしている。

 彼らを失速させた最大の要因としてこの映画が取り上げているのが、1970年に、彼らが行ったユーゴスラビア、ルーマニア、そしてポーランドという東欧3か国でのライブである。もちろん当時は冷戦最中で、「鉄のカーテン」がこの地域と西欧を画然と切り離していた。そこで彼らは、この東欧諸国でのライブを行った初めての欧米ロック・バンドとなったのである。

 しかし、当時は一方でベトナム戦争への反対運動を核にした「カウンター・カルチャー運動」の真っ盛りである。言うまでもなく、特に米国では多くのロック・バンドがこれに共鳴し、反ベトナム戦争、反ニクソン政権の立場を鮮明にしていた。そしてBSTがこの東欧3か国でのライブを行ったことが、彼らに対する大きな政治的批判を招くことになったのである。それはある意味分かっていた。しかし彼らは何故この公演を受けたのか?

 実は、このバンドが人気絶頂であった時期に、ボーカルでカナダ人のデヴィッドの米国滞在を可能とするグリーン・カードが期限を迎えていたのである。そして彼の米国滞在を確実にするため、当時の敏腕マネージャーが、国務省からのこの東欧公演を取引材料として受けたというのである。当時国務省は、冷戦最中ではあったが、それを補完する文化面での施策として、音楽などを壁の向こう側の人々へ届ける活動(「文化交流プログラム」)を行っており、BSTの音楽も、反欧米の文化統制が強い東欧の人々に、米国への親近感をもたらすものとして利用できると判断された。東欧の政権側も、それが過度の親欧米感情を強めない限りにおいて、独裁下で楽しみのない国民への「ガス抜き」を行うものとして、多くの条件をつけながらであるが許容していたという。そして既にクラシック音楽から始まり、政治的色彩のないジャズなどの「輸出」が始まっていた(ジャズでは、ディジー・ガレスビーが参加したとして、この映画にも登場している)。そして今回、デヴィッドのグリーン・カード問題を材料として、BSTをこれに使うことになったのであった。

 バンド側に、自分たちが批判する米国政権に協力することに対する抵抗がなかった訳ではない。特に、アルと共にこのバンドを立上げ、2枚目以降も参加していたギターのスティーブ・カッツ(以下「スティーブ」)は、この公演に反対したことが、本人の証言と共に、映画では紹介されている。しかし彼以外のメンバーは政治的には穏健な、音楽だけに関心を持つプレーヤーで、結局マネージャーの判断に従って、この公演は実行されることになる。出発当日、米国の空港で、デヴィッドが、付き合っていた女性を恐喝した疑惑で突然逮捕されるという事件が発生したが、その疑惑はすぐ晴れて、彼も遅れて中継地ロンドンで他のメンバーに合流。そして彼らは最初の公演地であるユーゴスラビアのザグレブに向かう。「鉄のカーテン・ツアー」の開始である。

 既にユーゴスラビアでの公演から、メンバーたちは、欧米での公演と異なる雰囲気を感じることになる。ユーゴスラビアでのそれは、聴衆が欧米のロックに慣れていないことから、公演途中で飽きて会場から退出するくらいであったが、続いたルーマニア、ブカレストでのそれは、到着直後から、警察などの物々しい監視に晒される。そして公演自体は観衆から熱狂的に支持されたものの、興奮した観衆を鎮めるために警官が会場になだれ込み、それに不満を持つ聴衆と小競り合いが発生する。そしてそれを受け、翌日の公演では、「ブカレスト宣言」と揶揄される、聴衆を刺激しないための10項目を受入れることを余儀なくされる。時のルーマニアの独裁者チャウシェスクは、ソ連からの自立を模索するため、米国に接近、しかし国内では厳しく反対派を取り締まるという政策を取っていた。他方、米国政府も、そうしたルーマニアのソ連離れを促すために、東欧諸国の中では唯一ニクソンが公式訪問していたこともあり(広場での大衆を前にした二人の会見フィルムが挿入される)、チャウシェスクを刺激しないよう注意を払っていた。そうした米国国務省の指示をバンドは受け入れざるを得なかったのである。そして最後はポーランドはワルシャワでの「洗練された」聴衆を迎えてのライブでこのツアーが終了する。

 しかし、その後の帰国直後に行われたメンバーの記者会見が、その後の彼らの人気に大きく水を差すことになる。共産主義圏の厳しい独裁の雰囲気に批判的なコメントを行ったことが、バンドが「国務省に政治的に利用された」として左派からの批判を招き、米国内のライブが反対派の示威行為に晒されたのみならず、右翼共和党員からも、「こんな左翼的なバンドに公費を使うのか」と、双方からの政治コメントの餌食となっていく。そして映画は、彼らの「God Bless The Child」が静かに流れる中、「このバンドは政治の波にさらわれた」というコメントと共に終わるのである。

 ベトナム戦争やそれに反対する学生運動、そして冷戦時のケネディ、ニクソン、フルシチョフの演説や、かつて私が詳細なレポートを書いた1968年のソ連軍のプラハ侵攻等、当時の政情を映す多くの映像が使われ、ある意味懐かしい雰囲気を醸している。そしてこの公演時の各地での映像も、今回初めて公開されたというが、実は当時、このツアーの映画化が企画されたが、特にチャウシェスクを刺激しないようにとの国務省の事実上の「検閲」が入り、お蔵入りとなったということである。スティーブや、バンドの事実上のリーダーであったドラムのボビー・コロンビー等が、まだ当時の面影を残しながら飄々と語るのに対し、デヴィッドはすっかり太った禿げの爺さんとなっていることに、大いに時間の経過を感じつつ、週末で人の溢れる新宿の歩行者天国を通り家路についたのであった。先日の友人たちとの「オールディーズ」を楽しむ会で借りてきた、彼らの1969年のYouTube映像を、もう一回眺めようと考えながら・・・。

鑑賞日:2024年9月29日