終戦のエンペラー
監督:ピーター・ウェーバー
直前に観た韓国映画と併せて、レンタル店で何となく選んだ作品。今年10月に76歳で亡くなった西田敏行が出演者に載っていたことも、その場で借りた理由であったが、観るまではこれは邦画だとばかり思っていた。しかし、観始めると直ぐにこれは英語ベースの米国映画であることが分かった。その後ネットで見ると、2012年製作で、監督は英国人ピーター・ウェーバー。原題は「EMPEROR」ということで、流石に直訳の「天皇」では、日本では支障があったということで、邦題はこれになったのであろう。
1945年マリアナ諸島テニアン島の米軍基地を離陸するB29が広島に原爆を投下し、キノコ雲が膨れ上がる様子と、破壊された地上の風景の白黒映像から映画が始まるが、これはよく目にする実写フィルムであろう。そして8月30日、マッカーサー率いる占領軍が厚木基地に到着し、車列が廃墟の街を通り、意図的に爆撃を避けたという皇居前の第一生命ビルに入る。占領政策の始まりである。マッカーサー(俳優は、トミー・リー・ジョーンズ)は直ちにA級戦犯に指定した約30名の逮捕を命じているが、その副官にフェラーズ(俳優はマシュー・フォックス)という准将がいる。マッカーサーは彼に「前に日本に来たのはいつだ?」と尋ね、彼は「5年前です」と答えている。フェラーズは日本通ということで、マッカーサーは彼に「天皇の戦争責任について、早急に報告をまとめろ」という指示を出している。
こうしてフェラーズの動きを中心に、「天皇が真珠湾攻撃の命令を下し、開戦に責任を負うかどうか」の調査が描かれる。彼は、自殺未遂の末逮捕され巣鴨刑務所に収容されている東条英機(火野正平)、近衛文麿(中村雅俊)、木戸幸一(伊武雅刀)(しかし、彼は約束の場所に現れない)、関屋宮内次官(夏八木勲)らと面談するが、彼らは曖昧な証言しかせず、マッカーサーがフェラーズに求める「明確な証拠に基づいた有罪・無罪の判断」を得ることは出来ない。並行してフェラーズの回想が断片的に挿入されるが、まずは1932年、米国の大学での日本人女性島田あや(初音映莉子)との出会い。そして1940年、帰国し静岡で英語教員をしていた彼女との再会と相愛(これが冒頭の「この前日本に来たのは5年前」という言葉に繋がる)。この時、フェラーズは、「日本兵の精神構造」に関する論文を執筆しており、あやから彼女の叔父で大将である鹿島(西田敏行)―駐在武官としてワシントンに2年滞在したことになっており、堪能な英語を語っている!、また鹿島夫人は桃井かおりが演じているーを紹介され、彼の話も受けながら論文を書き進めたが、情勢が緊迫する中、あやと別れ、「敵性外国人」となる中、急遽帰国したのである。そして今回占領軍の一員として日本で活動を始めたフェラーズは、冒頭、担当として着いた日本人通訳高橋(羽田昌義)に、「これは私的なお願いだ」としてあやの行方を捜すよう依頼するのである(このあやとの関係は、ネット解説によるとフィクションとして挿入されたようである)。
マッカーサーが要求する、天皇の戦争責任についての明確な証言が得られずフェラーズは苦しむことになる。また彼が、日本人あやと恋愛関係にあり、戦時中に、あやの勤務する静岡への爆撃を意図的に避ける指示を行ったことから、彼の報告は「日本贔屓」になるという、同僚からマッカーサーへの密告も届けられている。そうした中、思い余って再び鹿島を訪れたフェラーズはあやが静岡の爆撃で死んでいたことを知り、落胆するが、一方で、鹿島と、一回は約束の場所に現れなかった木戸との面談で、天皇の開戦指示は明確ではないが、降伏の受諾は、御前会議が3対3で分ける中、天皇自身が下した、そしてその後、降伏に反対する軍部の皇居攻撃がありながらも、それを阻止し8月15日の玉音放送に至ったことを知り、少なくとも天皇はそれ以上の日米双方の犠牲を忌避したとして戦争責任回避を決めるのである。その報告を受けたマッカーサーも、初めは「証拠のない感情に基づく推測だ」としながらも、それを受入れる方向で「天皇と会う」ことを受諾する。こうしてあの有名なマッカーサーー天皇(片岡孝太郎)会談が行われるが、事前に関屋次官が、「日本の礼儀で、天皇とは握手をせず、写真撮影も禁止」等々と要求するが、実際の会談では、それらが自然に行われたという落ちがついて、あの有名な両者が並んだ本物の写真が映されることになる。そして最後に、東条の処刑、近衛の自殺、木戸の恩赦と1977年の死去等、日本側関係者のその後の報告と、他方、マッカーサーの1951年の司令官解任やフェラーズが、日本の勲二等などを受賞する等、その後も順調な人生を送ったことがルビで示されるのである。
天皇の戦争責任問題は、日米では特に微妙な課題で、少なくとも日本ではこうした映画は作れなかったと思われるし、ネット解説では、米国でも「天皇の戦争責任回避を正当化する映画だ」という批判は多かったようである。西田を含めて、日本からも名だたる俳優が出演しているが、これもー特に天皇を演じた片岡孝太郎等はー個人的にいろいろあったのではないかと想像される。ただ話の結末は、誰もが知っている通りであるので、これはあくまでそこに至る経緯をアメリカ側の視点で追ったということが売りの映画ということになる。しかし、御前会議での天皇の降伏受諾を受けて、軍部強硬派が武装蜂起を行い皇居に侵入し、発砲事件となったことは私は知らなかった。本当だとすると、確かにそれを阻止した皇宮警備隊の功績は評価されるものであろう。
天皇の意味合い自体や存在感が大きく変わっている現在、こうした映画は余り現代性を持たないのだろうが、夫々の俳優は頑張っていた。特に前述したとおり、今年亡くなった西田の英語はなかなかで、彼の器用さを物語っていた。
鑑賞日:2024年12月26日