ボロブドゥール観光記(写真付)
2009年7月10日−12日
アジア世界遺産の旅第二弾は、インドネシア、ボロブドゥール観光である。前回のカンボジア、アンコール・ワットは、旧正月直前に突然思い立ってアレンジをしたことから、フライトとホテル以外は場当たり的に動くことになったが、今回は、早めにアレンジを行なうと共に、現地での英語の流通度や公共交通機関での移動のアレンジに不安があったことに加え、やや体力的にも心配であったことから、現地での日本語ガイド付のツアーを申し込んでしまった。その分、刺激やこうした場所でよく発生するトラブルもほとんどなく、能天気な旅行を行なうことになった。結果的には、行ってからの個別のアレンジでは、相当ロス・タイムやトラブルが発生したと想像されたので、まあ今回はこうした「大名旅行」でも良かったかな、と思ったのであった。
7月10日(金)
シンガポール、チャンギ空港を定刻11時15分に出たエア・アジアは、2時間弱のフライトでジョグジャカルタ空港に到着した。1時間時差で戻り、12時10分の現地到着である。空港にゲートはなく、徒歩で小さなターミナル・ビルに向かうが、狭い入国窓口には乗客が殺到し、早くも混乱が始まっている。案内も何もないが、取合えず入り口横に「ヴィザ」と書かれた窓口が見えたので、そこに他の外国人たちと一緒に並ぶ。S$15で1週間のヴィザを購入するが、そこから列は全く動かない。ヴィザ不要の現地の人々が、新型インフルの消毒機らしきものを次々に通り過ぎていくので、そこに割り込んで、入国管理に行ったところ、ヴィザでもう一つ手続きがいるということで送り返されてしまったのが、今回唯一のトラブル。結局入国までに40分ほどかかったが、外に出るとすぐ名前を書いたカードを持った現地ガイドと合流、あとは能天気な時間を過ごすことになったのである。7人乗りの車の乗客は私ひとりである。
(空港ターミナル)
まずは、昼食。既にシンガポール時間では午後2時を回っていたことから、お腹はすいていた。空港からすぐのところにあるレストランに案内されるが、広い店内に客は私ひとり。ガムラン演奏の楽器が置いてあるステージを眺める席に座り、店内を見回すと、壁の至る所に肖像画やその他の絵画、飾りが展示されている。説明を聞くと、この店はSaptohoedojoという、インドネシアでは有名な画家の名を冠したレストランで、その画家の絵画を中心にしたギャラリーも兼ねているということである。一人では食べきれないような大量の料理が運ばれ、それでもお腹がすいていたので、それなりに食べてしまったが、ほとんど満腹状態である。スターターの野菜スープを含め、揚げ物も薄味で、胃にやさしいメニューであった。白米が、シンガポールの中華で出されるものに比べるとふっくらと炊き上がっておりそれなりの美味。最後にラーメンまで出てきたが、鳥だしスープとあっさりした麺で、これもなかなかの味であった。食後、ソフト・ドリンク代の12,000ルピアを払い、店内の展示をゆっくり眺めてから車で目的地に向かった。因みに、今回ルピアは、出発前のチャンギ空港で購入したが、S$201.50=Rp130,000で、円/S$を勘案すると、略100円=Rp1という分かりやすい換算レートであった。
(Saptohoedojo レストラン)
今回のガイドは、インドネシア人のアウグ(Augu)さん。運転手はリュー(Ru)さん。40代半ばくらいと思われ、17歳を筆頭に4人の子供がいるというアウグさんは、英語よりも日本語が楽、ということなので、以降ほとんど彼との会話は日本語になってしまった。リューさんは、インドネシア語だけである。
空港からボロブドゥールまでは約1時間とのこと。冷房の効いた車から、のんびりと町の景色を眺める。空港からそのまま郊外に向かっているのだろう、道路沿いには木造の小さな商店等が並んでいるが、近代的な建物はほとんど目に付かない。典型的なアジアの田舎の風景である。少し走ると、稲作を始めとする畑が広がっているのが見える。途中、中国人の町、と紹介された小さな市街地を抜けるが、店の看板に中国語はほとんど書かれていない。そこから石造店が並ぶ地域を抜け、川を二つ越えると、そこがボロブドゥールの町である。
3時過ぎ、まず車が止まったのは、道路脇の広場に聳えるムンドゥという仏教寺院。一応売店が軒を連ね、入場料も取る遺跡であるが、我々以外は数人の外人がうろうろしている程度で閑散としている。インドネシアは火山国でもあり、地震の頻度もそこそこ高いことから、この寺院も過去の地震で崩落したものを再建したとのことである。階段を上ったところにある唯一の空間には石仏三尊像が設置されており、お線香を上げてお祈りをした。寺院の脇に聳える大きなガジョマロの木からたれた枝で、子供たちがターザンごっこをしている。
(ムンドウ寺院)
(ガジョマロの木)
20分くらい滞在した後そこを出発し、こうしたパック旅行の常で、銀細工の店に案内される。かつて、日本の現天皇夫妻が訪問し、それを記念した「美智子ブローチ」が人気であるなどと説明されたが、こちらはいつもの対応で、目ぼしい品物の値段だけ確認して、何も買わずに、次の予定であるホテルに向かった。ホテルに着いたのは丁度午後4時。この日宿泊する「マノハラ(Manohara)ホテル」は、ガイドブックによると、ボロブドゥール遺跡の敷地内にある唯一のホテルとのことである。22部屋からなるバンガロー風で、部屋は端正ではあるが、清潔な作りである。小さなテレビがあるが、インドネシア語放送のみで、ケーブルは入っていないようである。直ちに短パンとサンダルに着替え、レセプションで待っているガイドと合流し、徒歩でボロブドゥール遺跡に向かった。
全く至近距離である。5分と歩かずに遺跡の入り口に到着する。太陽はまだ強い日差しを投げかけているが、空気が乾燥しているので、時折流れる風が心地よい。
ガイドブックによると、この遺跡は8−9世紀に当地を支配していた仏教勢力が50年以上かけて建設したが、完成直後に、理由は不明であるが捨てられ、その後、1814年にイギリス人のT.ラッフルズにより発見されるまで、灰に埋もれていたという。灰を取り除いた後も毀損が激しく、結局ユネスコの支援を受け修復が終わったのは、スハルト時代の1983年。3層6階建ての構造になっており、第1層は4段からなる回廊で、そこに仏陀の母親マーヤが白い像が体内に入る夢をみて仏陀を身ごもったといった、仏陀の生涯や仏典を素材とする多くのレリーフが刻まれている。レリーフの一部に、クリアーなものは残っているが、多くは一部が既存したり、あるいは石の切れ目でレリーフがズレていたりする。アンコールもそうであったが、当初の建築自体、たいへんな驚異ではあるが、現代のこの巨大なモザイクの再建―膨大なジグソウの組立―も、それは気が遠くなる作業であったことは容易に想像できる。
(第一回廊のレリーフ)
ガイドの説明を聞きながら、次第に上の層に登る。カーラ(鬼面の守護神)が見下ろす階段を上がると、卒塔婆(ストゥーバ)が林立する第2層に至る。ガイドの説明によると、3段に渡り72の卒塔婆があり、その中には仏像が安置されている。この高さ1.5メートルほどの卒塔婆と、中央にある巨大な卒塔婆を加えた73という数字が、仏教の唯一神を示している、と説明されていたが、まあ、これはゴロ合わせといわれてもしょうがないだろう。中央の巨大な卒塔婆が第3層であり、ここには何も飾られておらず、悟りの境地を象徴する「空」を表しているというが、そこは立ち入り禁止で見ることはできなかった。一番高い位置から周囲を見ると、東に3000メートル級の火山が二つ。反対側は、寝仏を想像するという丘。北側には、また頂上付近を雲に覆われたやはり3000メートル級の火山に囲まれているのが見える。それに向かい、椰子を中心としたジャングルが広がっている光景は、ここが信仰の地であったことを良く物語っている。
(ボロブドゥール全景・裏から)
(ストゥーバ)
(頂上付近より東方向を望む)
(北側:雲の上から頭だけ出した火山)
そのまま反対側から下に降り、周囲を回るように散歩をしながら、ホテルに戻ったのは5時半頃。レセプションでジャワ・ティーと小さなクッキー風のお菓子を食べながら、アウグさんと今後の予定を確認する。これから翌日昼前に迎えにくるまでは自由時間ということであるが、他にやることもなさそうなので、翌朝の「サンライズ・ツアー」を申し込んでから、彼と別れた。
軽くシャワーを浴びてから、町に繰り出すことにした。既にあたりは暗闇に包まれている。灯りがないので、ホテルの敷地から通りに出るまでも足元が不安なくらいであったが、通りに出ても明るさには大差がなかった。ホテルに来る途中に小さな商店街があったのを見ていたので、そこを目指して歩き始めたが、しばらくはまったく開いている店はなく、時折通る車やバイクを除くと光も少ない。10分ほど歩いて、ようやく小さな商店や食堂(Warung)が現れる。まだ時間が早いのか、人の通りもほとんどなく、食堂もガラガラである。商店街が切れたところで、折り返し、あたりをつけていた小さな食堂を覗いてみる。店の奥にいた若い女の子が出てきて、ご飯を電機釜から盛りながら、片言の英語で、入り口のカウンターに並んでいる惣菜を指しながらどれにするというので、揚げチキンと揚げ芋を選んだ。水のボトルと併せRp17,000。味はごく普通であった。昼食時にも感じたが、ここでも白米はまあまあ美味しかった。帰途、別の食堂でお兄ちゃんが店頭でサテを焼いていたので、これを3本だけ、といって注文(Rp5,000)。そしてその後コンビニで、ホテル用にポカリスエットとポテトチップスを買い(Rp.9,000)、7時半頃ホテルに戻った。部屋の前の小さなテラスで、チャンギ空港の免税店の割引で買ってきたビールを飲みながら、ポテチを食べ、テレビを見たが、つまらないので本を読んでいたら、そのまま眠くなり、10時頃には寝てしまった。翌朝が早いので、まあいいかな、などと考えながら。
7月11日(土)
4時に依頼していたモーニング・コールが鳴る前に目を覚ました。「サンライズ・ツアー」は4時半にロビー集合である。既に欧米人を中心に5−6組が集まっている。昨日チャンギ空港でチェック・インした際に、私の前にいたドイツ人の女性二人もいる(後で少し話したら、キェ―ル出身で、シンガポールで働いているとのことであった)。丁度出発の時間にモスレムのお祈りが、町の至る所にあるスピーカーから流れる中、懐中電灯を持ってボロブドゥール遺跡に向かう。昨日行っているので、場所は迷いようがないが、一応ガイドが先導する。昨日は、下層の回廊を回りながら上に登ったが、今日はいっきに頂上まで昇ると10分もしないうちにそこに着いてしまった。ガイドに日の出の場所と時間を聞くと、暗闇に薄いシルエットが見える2つの火山の間から、5時半過ぎに陽が昇るという。暗闇の中、少し遺跡を散策するが、すぐ飽きて、日の出が良く見えそうな場所に腰を落ちつけて待つことにした。
朝起きた時に気温が下がっているのを感じて、一応長ズボンで出かけたが、上はTシャツ1枚である。動いている間は感じなかったが、座ってじっとしていると、次第に寒さが身に凍みるようになってきた。時間はまだ5時を少し回ったところである。最初に来た時は、我々のグループ以外は数えられる程度の人が集まっているだけだったが、次第に人が増えてくるのが分かる。日本人の家族やおじさん、おばさん、若い二人連れ等も集まってきて、日本語が周囲を飛び交うようになる。5時半を過ぎると、東の空に鮮やかな朝焼けが輝き始めるが、まだ気温は低い。内心「こんなことだったら5時半頃来れば良かったな」と感じている内に、6時過ぎ、ようやく正面の2つの火山の間から太陽が顔を出し、そして一旦陽が出ると、あとはあっという間に昇っていったのである。
(夜明け前から日の出まで)
周囲がいっきに明るくなり、また気温も上がる中、昨日と逆に、遺跡の上から各回廊を回り、レリーフを眺めながら下に降りる。本来は、この遺跡の開門は6時であるが、その前に「日の出」ツアーと称して追加的にRp150,000をせしめるだけのツアーだったな、などと考えながら、ガイドブックに博物館があると出ていたので、警備員に確認しながら公園の中を歩く。海洋国家インドネシアの航海史を展示する館と、遺跡関係を展示する館の2つを手短に見てからホテルに戻ったのは7時を少し過ぎたあたりであった。
いったん、ホテルでブッフェの朝食を食べてから、ホテルの周囲をうろうろしていると、「Audio Room」と書かれた部屋が目についた。入り口の男に聞くと、今ビデオを上映している、というので中に入ると、まさに日本語での遺跡解説のビデオをやっており、いま少し前に遺跡の頂上で見かけた日本人たちが見ているところであった。早朝起きと朝食後ということで、時々うつらうつらしながら、30分程度それを眺めてから部屋に戻ったのであった(あとでガイドブックを見たら、一応有料のビデオであった)。
ガイドのアウグが迎えに来るのは11時、ということで、まだ2時間以上ある。このホテルはプールがないので、部屋のテラスで上半身裸になって、日光浴をしながらゆっくりと読書で時間を潰す。空気は爽やかであるが、直射日光は強いので、しばらくすると体がほてってくる。部屋に戻り、ベッドで横になると、今度は睡魔に襲われる。それが過ぎた頃また外に出て読書、と怠惰な時間を過ごし、最後にシャワーを浴びて出発に備えた。
11時ホテル発。まずは、昼食レストランに案内するという。朝もブッフェでそこそこ食べてお腹は空いていないが、しょうがないので任せることにする。約1時間、ジョグジャカルタ市内に向かって車で移動する。今日は、ガイドのアウグさんは、やたら果物の木の話をする。インドネシアは、多くの果物が野生でなっているということで、あれがドリアンの木、あれがマンゴの木などと、次から次に説明する。運転手さんが、道端の売店に立ち寄ったときは、道端に生えている木を指して、これがジャック・フルーツの木と指差すと、そこにスイカほどの大きさの実が無造作に成っているのが分かる。「これだけ大きな実がなっているのに、誰も取ろうとしないのは不思議だね」と言うと、「そこらじゅうに成っているから、誰も取らないよ。」と返された。確かに、その後も、この実が数十個なっている木を見かけたので、ここでは全く自然に生育していて珍しくもないもののようである。
12時過ぎに、ジュグジャカルタ市内にある昼食のレストラン(Restaurant Sintawang)に到着。シーフード・レストランということだが、昨日同様、広い店内に客は、私以外は若いカップルだけ。昨日の昼食と同じようなメニューで、3人分くらいに思われる量が出てきたので、さすがに今回はもったいないとは思いつつ無理をしないで、ほとんど残すことになってしまった。
昼食後は、昨日アウグさんに依頼していたインドネシア・マッサージである。住宅街にある閑静なマッサージ屋に案内される。色々なメニューがある中から、「Javanese Full Massage」75分、Rp190,000を選択する。以前バリ島で体験したのと略同じ、オイル・マッサージである。タイ式のような関節マッサージではなく、指圧スタイルで、うつ伏せと仰向け半々で、うとうとしているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。
2時半にそこを出て、またいつものとおり「バティク工房」案内である。売店もさっと眺めるだけで、何も買わず、この日のホテルである、シェラトンに向かった。
道すがら、アウグさんとインドネシアの王様(スルタン)の話になる。彼によると、ジャワ島には3人のスルタンがいるが、その一人の最も有名なスルタンの先々代(8世)は妻が22人、子供が78人、先代(9世)は妻が5人、子供が22人、そしてジャカルタ市長を努めた後、現在は砂糖会社の社長となっている現在のスルタン(10世)は妻一人、子供は5人、ということであるが、真偽のほどは不明である。
そうこうしている内に3時40分頃シェラトンに到着。前日のホテルにプールがなかったことと、この日も心地よい快晴であったことから、アウグさんには少し待ってもらい、直ちに水着に着替え、プールに飛び込んだ。但し、形がラップ・プール型ではなく、水遊び型プールであったことと、水が濁っており余り気持ちが良くなかったことから、早々に切り上げ、4時半にアウグさんと合流。次の目的地であるプランバナン寺院に向かった。
プランバナン寺院は、ボロブドゥールと異なりヒンズー寺院である。ボロブドゥールと同じ8−9世紀に建立されたが、度重なる地震で崩壊し、今も最大の建物を含めて再建中で入場が制限されていたり、あるいは瓦礫がそのまま積み重なっているところが多い。中に入れる建物は1つだけで、その中の空間には、ヒンズーの聖なる動物である牛の像が置かれている。しかし現在は観光客の子供たちが跨っては写真を撮るだけの像である。中に入るというよりも、夕暮れ時の建物のシルエットを楽しむ感じで公園内を大きく一周しながら、30分くらいで切り上げ、車に戻った。
(プランバナン寺院正面)
(寺院側面)
夕食に行く前に、買物が出来ていないので、ガイドの薦めに従い途中のカレフール(町の中でも数少ない近代型スーパー。市内に二店舗あるという。)に立ち寄り、ジャワ・ティやコーヒーなどを少し買い込んだ。アウグさんは、7時の礼拝のため失礼するといって、どこかに消えていった。あとで聞くと、スーパーの正面の空き地でお祈りをしていたという。そこから王宮横にあるレストラン(Royal Garden Restaurant)に向かい、くれぐれも量は少な目に、と言ったせいか、このパックでは初めて一皿盛りの適量な夕食が提供された。さすがに、この日は土曜日の夕方ということもあり、屋外の席に何組かの客が入っている。途中から演奏を始めた4人組のバンドが、「昴」や「二人でお酒を」を日本語で歌ったのは、一般的なレパートリーなのか、私へのサービスなのかは分からない。食後は、インドネシア名物の影絵劇場へ。一方通行と土曜日の夜の渋滞でやや時間を要したが、実際にはレストランから至近距離にある社で行われている影絵を見た。始めはつまらないかな、と思っていたし、実際途中で入ってきた日本人のおじさん、おばさんたちは15分くらいでさっさと出て行ったが、影絵の正面と、ガムラン楽器の演奏と影絵師が見える反対側の双方から見ていると、インドネシア語でストーリーは分からないものの、それなりに楽しめ、結局1時間弱ここに居ることになってしまった。ホテル帰宅は9時半。翌朝も早いこともあり、日本の家族への絵葉書を書いただけで、早めに就寝した。
(影絵・正面)
(影絵・裏面)
7月12日(日)
ということで、5時に起床。レセプションに頼んでおいた朝食のボックスで簡単な食事を取り、5時45分に迎えに来たアウグさんの車に乗る。空港までは僅か15分。アウグさんと別れ、チェック・インした後、免税店など全くない、狭いゲートの待合室で出発を待つ。6時半頃に、我々の搭乗便であるエア・アジアの機体が到着し、乗客が降りてくる。これから機内整備を行なって搭乗ということだと1時間くらいかかるかな、と思っていたところ、30分もしないうちに搭乗の案内があり、結局定刻7時35分よりも15分早く飛行機は飛び立ってしまった。チャンギ空港への到着も、定刻から15分早い10時半。最近業績を伸ばしているこのマレーシアの格安航空会社の効率性の良さを感じながら、11時過ぎには自宅に帰りついたのであった。
今回の旅行は、ボロブドゥールが目的の旅行であったが、この遺跡自体は、アンコール・ワットに比べると構造が単純であることから、その建設やその後の歴史や再建にいろいろ想像は巡らせられるが、それほど観光に時間を要する遺跡ではない。またアンコールのように、周囲にその他の遺跡が無数に点在するということもない。その意味では、実質1日半の今回のスケジュールで十分であった。
今回の私的旅行の付随的な関心としては、前週7月8日に行なわれた、インドネシア大統領選挙後の状況について、何か肌触りが感じられると良い、という思いがあった。しかし、車窓から町の中を眺めていると、ジョグジャカルタの市内で、大統領選挙のポスターがまだ剥がされずに残っているのを時々目にしたくらいで、それ以上に選挙の余韻が残っているという感じはなかった。ガイドのアウグさんに、そうした政治家絡みの話題を投げてみたが、「ユヨドノさんは清い人で人気がある」だの、「スハルトさんは30年も大統領をやっていたので、問題が起こってしまった。息子は今、監獄にいるよ」といった程度の話が聞けたくらいであった。1億7000万人の有権者による、直接投票での大統領選挙としては世界最大のものである先般の選挙であったが、庶民ベースでどれだけ盛り上がっていたかは、これからだけでは余り想像することができなかった。また私の仕事に直接関係するインドネシア経済に関しては、周辺アジア諸国が今回の米国発の金融危機で経済が軒並みマイナス成長に落ち込む中、インドネシア経済はプラス成長を維持しており、株価は6月末で、年初来49.5%、ルピアの対米ドル為替も同期間で9.4%の上昇と健闘している。しかし、ジョグジャッカルタの街をみる限りは、まだまだ成長の恩恵は受けていないという感じである。もちろんこうした成長の目に見える結果は、まずジャカルタのような主要都市で顕在化し、それからこうした地方都市に移ってくると思われるので、まだ時間がかかるのだろう。
しかし、そうした経済成長の波及効果に不安を感じながらも、実際に今回目にしたアジア的現風景はなかなか心地よいものであった。ガイドのアウグさんの優しい人柄と、真面目な信仰心から、素朴なこの地の人々の性格が想像される。経済成長に時間がかかっても、むしろこうした人々が平和に生活できている限り、このアジアの原風景はそこを訪れる人々の心を癒してくれるのだろう、と感じたのである。
2009年7月15日 記
追伸
これを書いた後の7月17日(金)朝、首都ジャカルタ市内にある米国系ホテル、マリオットとリッツ・カールトンの2か所で立て続けに大規模な爆発が発生し、週末までの報道によると、ホテルで朝食を食べていた外国人宿泊客を中心に双方で計9人が死亡し、50人が負傷したとのことである。マリオットは、6年前の2003年8月にも、モスレム・テロ組織であるジャミア・イスラム(JI)のテロを受け、12人が死亡している。またインドネシアでの大規模な爆弾テロとしては、日本人観光客も巻き込まれた2005年10月のバリ島テロ以来、4年振りということである。犯行は監視カメラの映像から自爆テロに間違いないということであるが、現時点で犯行声明は出ておらず、ユドヨノ大統領も、犯行を非難すると共に、まだ背後関係については不明で、徹底的な調査を行う、と言うに留めている。
ユドヨノ政権になってから、警備の強化と経済のそれなりの成長でテロは抑え込まれてきた。しかしここにきて、反政府勢力が選挙後の政治流動化を意図した動きに出た、というのが一般的な解説であるが、この世界最大のモスレム人口を抱える海洋国家が、こうした暴力的反政府活動を完全に抑え込むにはまだまだ時間がかかるようだ。自分がこうした事件に巻き込まれなかったことを感謝しながら、それでもこれからこのアジア国家に公私とも更に深くコミットしていく中で、こうしたリスクも抱えていることは忘れてはならないのだろう。
2009年7月18日 追記
2010年10月26日、ボロブドゥールから眺めていた火山、Mt.Merapiが噴火し、現在までで、少なくとも近隣の住民30人が死亡した他、多くの住民が避難を強いられることになった。火山の多いジャワ島でも、最も噴火の可能性が高いものの一つと言われていたこの火山であるが、ボロブドゥールも恐らくは相当の火山灰を被ることになったなったことであろう。そもそも、この遺跡が火山灰に埋もれ長らく放っておかれたのも、この火山の噴火が原因であった。
丁度この噴火の前日には、スマトラ沖で、またマグニチュード7.7と推定される地震があり、それにより発生した津波で、スマトラ島西岸の島々を中心に100人以上が死亡、日本人一人を含む500人以上が行方不明になっている。火山国インドネシアの厳しい自然の一端を垣間見ると共に、他方ではボロブドゥールから、この火山の噴火を見てみたかったという勝手な想いも抱いたのであった。
2010年10月27日 追記