ホーチミン市旅行記(写真付)
2009年11月27日―29日
モスレム断食明けの祭り、ハリ・ラヤ・ハジで、金曜日が祭日の3連休を利用してホーチミン市を訪れた。ホーチミン市は旧サイゴン市。北の首都ハノイに対し、フランス統治時代から商業都市として、西欧の影響も受けながら発展し、そしてヴェトナム戦争では南ヴェトナムの首都として、数々のニュースの舞台となると共に、1975年、ここが陥落し、社会主義勢力による解放・統一が達成されることになった場所である。
私の社会的関心が芽生えたローティーンの時代、まさに新聞はヴェトナム戦争を巡る多くの記事で溢れていた。ホーチミン・ルートを使った解放軍の攻勢と、それに対抗する南ヴェトナム政府軍・米軍の北ヴェトナム爆撃(北爆)やナパーム弾・枯葉剤の使用。他方、その戦争に反対する米国内外の反戦運動は60年代末に最高潮を迎え、国内では小田実のベ平連の活動と、それに対する賛成・反対交錯した知識人・文化人の発言が新聞・雑誌を賑わせることになる。なかんずく個人的には、その頃聞き始めた米国ポップ音楽が、米国西海岸のフラワームーブメントと共に音楽的に進化していった背景に、このヴェトナム戦争が常に影を落としていたのが忘れられない。荒井由美の作品で取り上げられた映画「いちご白書」(1970年)は、まだ映画を見始めたばかりの私も、中で使われる多くのポップ・ソングに引かれて劇場に足を運び、そこでコロンビア大学の反戦運動が、警察権力に圧殺されていく様子に単純な怒りを覚えたものである。
1975年、戦争が終了し、今度は逆に、米国でもこの敗戦に終わった戦争をいろいろな観点で総括する動きが始まる。国際関係論的なアカデミズム的議論や軍事戦略論に始まり、知識人一般の戦争論、あるいはその後さかんになる「ヴェトナム症候群」と呼ばれる後遺症の、心理学・精神分析学的なものまで、多くの議論が行われることになる。
映画でも、前述の「いちご白書」のみならず、例えば映画の舞台は第一次大戦であるが、その衝撃的な内容で明らかにヴェトナム戦争を告発した「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)に始まり、続いてフランシス・コッポラが「地獄の黙示録」(1979年)で、その戦争の悲惨の中から生まれた奇怪な帝国を描き、そしてオリバー・ストーンは「プラトーン」(1986年)、「7月4日に生まれて」(1989年)そして「ドアーズ」(1991年)と続く「ヴェトナム戦争3部作」でこの戦争を問いかけることになる。また、それほど深刻ではないエンターテイメントの世界では、サイゴン陥落により引き裂かれた米兵とヴェトナム娘の悲恋をテ−マにした「ミス・サイゴン」がミュージカルとして大成功する。私も、この舞台を昔ロンドンで見たが、この前半のハイライトの場面で、舞台に降り立ったヘリに米兵が乗り込み去っていくのを、ヴェトナム娘が見送るシーンに感動したものである。
そして現代。再び「ヴェトナム症候群」が議論されるようになる。1973年3月の米軍撤退までに、「東南アジアの小国を相手に58000人の戦死者を出しながら味わった苦い敗戦」(松岡完著「ヴェトナム症候群」2003年。以下、引用は同書から)は、その後「米国民の自己認識や世界観を変えた。世界最強国家の民たる自信を打ち砕かれ、伝統的な価値観すら見失った。政府への信頼も、将来の楽観も薄れた。強い苛立ちと挫折感、無力感、孤立感が全米に蔓延した。」しかも、それはケネディ兄弟やキング牧師の暗殺、ウォ−タ−ゲ−ト事件、石油ショック、ドル安、経済不振、対外的影響力の低下、そして社会の荒廃と言った相乗効果により「ヴェトナム複合症候群」となっていったのである。1992年の湾岸戦争での「史上まれに見る大勝利」も、「ヴェトナム症候群」を払拭できなかった。そしてアフガンとイラク戦争の泥沼化の中で、改めてヴェトナムの記憶が首をもたげている。ヴェトナム戦争で初めて社会問題となった心的外傷後ストレス障害(PTSD)が、アフガンやイラクに送られた米兵の中で再び発生しているというのである。自らの国を遠く離れた、地理的条件も環境も異なる地での戦闘が人間に及ぼす破壊的な影響。それはヴェトナム戦争の過去が、決して過去になっていなかったことを物語っている。
他方、ヴェトナムそのものは、統一後は、歴史的な因縁である中国との国境紛争やカンボジア進攻による国際社会からの一時的孤立などを経ながらも、1986年以降は利潤追求を是とするドイモイ政策の下で日本を始めとする先進諸国の支援も受け、それなりに順調な経済成長を遂げている。ASEANにも参加すると共に、証券取引所を設置するなど国内の資本市場も整備し、民間資本も呼び込んできた。昨年のリーマン・ショックでは、この国固有の要因もあり、他の東南アジア諸国に先駆けて株価が急落したが、その分市場の落ち着きと共に先に回復し、現在はむしろ、インフレ懸念から中銀は金融を引締る方向に向かっている。いずれにしろ、私の現在の仕事でも、この国への投資は、運用成功の重要な鍵を握っている。
しかし、このように、私の青春期から、いろいろな意味で関心を引いてきたこの国を訪れる機会が今まではなかった。一つにはこの国の観光資源が戦争関係くらいしかない、ということで、アジアが好きといっても家族旅行で行くような雰囲気ではなかったこと、そして業務という面でもアジア駐在が初めての私にとっては、まだ先に行かなければならない場所が多かったことがその理由であった。しかし、他方でシンガポールから2時間で行けるホーチミンは気楽に行ける場所である。そんなことで、今回の3連休に、急遽この町を訪れてみようという気になったのである。
11月27日(金)
昼過ぎにシンガポール、チャンギ空港を飛び立ったSQ178便は、定刻通り午後1時、ホーチミン市のタンソンニヤット空港に到着した。つい先日初めて使ったジャカルタの空港などよりはずっと近代的な空港である。シンガポールとの時差は1時間。2時間弱のフライトである。到着便が多くない時間なのか、あるいはそもそも全体として乗降客数が多くないのか、入国管理の通過は短時間済み、出口で待っていた現地旅行会社の男性と合流、宿泊場所であるWindsor Plaza Hotelに向かう。市内に入ると、まず誰もが言うバイクの集団に驚かされるが、バンコクやジャカルタで体験したようなひどい渋滞はなく、午後2時過ぎにはホテルに到着した。12階の1228号室。窓から市内の様子を一望できるが、都市の境界は見えないくらい大きな町である。ガイドブックによるとヴェトナムの人口は2008年で8600万人。そのうちの約1割の800万人(ガイドによる。ガイドブックでは635万人とある)が、ホーチミン市在住で、むろん首都のハノイを凌ぎ、ヴェトナム最大の町である。
(バイクの群れ)
荷物を整理して、まずホテルの中を確認する。最上階部分の45階がフィットネス・ルーム及び屋上プールになっているが、プールはぜいぜい5×10メートル位の小さなもので、狭いプールサイドにアームチェアーが10台ほど並んでいるだけで、ややがっかり。気候は曇っているが、気温は30度を超えているということで、アームチェアーは欧米人や中国系と思われる客でうまっている。ここではあまり泳ぐ気はしないな、と考えながら46階のバーレストランを覗いてから、4階にあるレセプションまで降りた。因みに、このホテルを経営しているのは台湾系の資本であるという。
このホテルは、4階のレセプションから、そのまま同じ建物にあるショッピング・センターに接続している。途中に、ホテルのスパ・マッサージが入っているので、恒例のボディ・マッサージの値段を確認すると、1時間コースで20万ドン+サービス・チャージ10万ドンの合計30万ドンとのこと。1500円弱なので、タイであれば2時間できる値段であるが、取り敢えずテイクノートしてから、ショッピンセンターに入った。
An Dong Shopping Centerという4階まで店が入った建物である。一階は宝石屋や雑貨、二階・三階が衣料品、四階が土産屋やインテリア等で、特に一階から三階は、狭いスペースに店がひしめいているという感じであるが、雰囲気はシンガポールとは比較にならないが、まずまず清潔である。あまり触手を動かされるような品物はなかったが、取り敢えず安売りCD/DVD屋だけメモして外に出た。
通りは、来た時のようなバイクの群れが、ひっきりなしに駆け抜けている。ショッピング・センター前で待っていたタクシーに乗り、ドンコイ通りまで行った。ホーチミン市の銀座で、ブランド店が軒を並べているというので、まず見ておこうと考えた訳だが、男の一人旅ではあまり関心を惹くような店もなく、通りにあるカフェでココナッツ・シェークを飲みながら一休みし、電話でエージェントと翌日の予定などについて話した後、タクシーでベンタン市場に向かった。
(ドンコイ通り)
ここは確かにアジア的な庶民のマーケットだ。シンガポールにも、例えばブギスのオールド・マーケット等が同じような雰囲気であるが、これはその4−5倍の大きさである。先に見たホテルに隣接するショッピング・センターと売っているものは同じようであるが、人が多くもっとアジア的である。片側四分の一ほどが、フードコートになっている。ただ30分ほどブラブラしたが、あまり買おうという気を起させるものはなかった。
時間は6時半。お昼は機内食だったので、少し空腹感を感じ始めていた。ホテルに向かう車の中で、ガイドに、「観光客向けでない、ヴェトナム料理のお薦めレストラン」ということで教えてもらっていたレストランがこの市場の近所にあるということで、書いてもらった地図を見ながら店を探した。
やや迷いながらも何とか、その「Huong Rung 2」という店にたどり着いた。「2」というのは2号店ということだそうだ。明るい感じの店で、通りを眺められる窓側の席についた。内側の壁には、大きな水槽がいくつも置かれて、魚やエビカニの類が動いている、メニューはヴェトナム語だけであるが、少し英語が話せるウエイターがいて、彼と話しながら、お薦め料理を推薦してもらう。一皿がどれも30万―70万ドン(150―350円)ということなので、なんとなく一皿の量が少ないのかなと思い、いろいろな種類をトライしようということで、ウエイターが奨めるオイスターのガーリック焼き、エビ春巻き、焼きイカ、鶏カラ揚げ、焼きナスを頼み、ビールを飲みながら、料理を待った。周囲は、おそらく親戚も交えたパーティーのような10人以上の団体や、透明な酒―おそらくベトナム・ウオッカであろうがーを飲みながら談笑する中年男の4人組、それにカップルも何組か。確かに、私のようなへんてこりんな観光客らしき姿は全くない。
(レストラン内)
(注文しすぎた料理)
料理は、まずはスターターのオイスターから。ガイドからも是非と奨められていたので、やや不安はありながら、火を通してあれば大丈夫だろうということで注文したのだが、これが絶品。日本の牡蠣よりも二回りほど大きく厚いカラに肉厚の身が張り付いている。ガーリックとねぎで焼いただけの料理であるが、牡蠣をヴェトナムで食べられるとは思っていなかったので感激。続いてエビ春巻きが出てきたが、ここで失敗に気がついた。量が多いのである。一皿2−3本かな、と思い頼んだのであるが、出てきた皿には小ぶりであるが、16本も乗っている。もうこれだけでお腹は充分である。しかし、無慈悲にも注文した品は、それから一気に出てきてしまった。
焼きイカは、日本料理で出てくるものとほとんど同じで食べやすい。それから驚いたことに焼きナスも、素材は日本より大きいアジア一般のナスであるが、料理はジューシーで、これも全くさっぱりとした日本の味である。唯一、あれっと思ったのは鶏の唐揚げで、感触は鶏肉であるが、小さな足や細い骨を見ると、おそらく雀ではないかと思われた。残念ながら、英語の雀という言葉が通じず、結局最後まで何であったのかは確認できず仕舞いであった。そして、残念ながら、お腹は、これ以上は無理、ということで、雀や春巻きは相当残すことになってしまった。8時半を回り、奥のスペースも含めて、結構広い店内は満席である。私のすぐ横では、バイクに乗ってビニール袋を持ってきたおっさんが、中のエビをバケツに移し、店員と一緒に重さを量った上で水槽に移している。なかなか暢気な風景である。
ビール2本に大量の食事で、ほとんど動けず状態であったが、料金を払い、町に出た。胃の消化も兼ねてもう一回ベンタン市場を少し見て回った。先ほどはバイクがひっきりなしであった市場横の大通りで車が通行禁止になり屋台街となっていたが、もはやこれ以上口に入れられる状態ではないので、そのままタクシーでホテルに向かった。
いつものマッサージであるが、今回はホテルの周りにカジュアルな場所がちょっと見では分からなかったことから、面倒臭くなり、先ほど覗いたホテルのスパで、1時間30万ドンのコースでボディ・マッサージをやることにした。腕はまあまあ。タイ・マッサージほどきつくないが、その分少々物足りないかな、という感じであった。そのままホテルの部屋に戻り、その晩はゆっくり過ごした。
11月28日(土)
今日の午前中は、パックに無料でついている「市内散歩観光」である。朝食ブッフェを済ませた後、8時半、ホテル・ロビーでガイドと合流。ガイドのアンさんは、小柄のヴェトナム人そのものという顔付きの、愛嬌のある女性である。3年間大阪に研修生として滞在し、昨年2月に帰国したということ。英語より日本語のほうが楽とのことで、以降の会話は日本語になった。まずタクシーで、次の客のピックアップに向かい、ベンタン市場に近いホテルで新潟からのOLっぽい女性二人が加わり、同じタクシーでドンコイ通りまで移動した。ドンコイ通りでタクシーを降り歩き始める。私は昨日も同じ道を歩いたことからあまり関心はないが、同行の女性二人はアンさんの話を聞きながら、後でゆっくりショッピングをする店の目処をつけていた。やはり日本からここに訪れる女性客は、ショッピングが最大の目的のようだ。
9時15分頃にはその端にある市民劇場が見えてくる。もともとはフランス統治時代の1898年に建設され、それを1990年にオリジナルに忠実に再建したオペラハウスで、今日は、正面入り口のポーチで、20人くらいの楽団が民族楽器で音楽を奏でている。建物の正面には、「目から涙を流す」という伝説のあるマリア像が、そして建物の横には来るイベントとして、ミュージカル音楽の夕べ「Music of the Night Concert」の宣伝が大きく掲げられている。面白いのは、コンサート用の席はせいぜい10席程度しか準備されていないが、バイクで集まった聴衆が、そのままバイクに座って音楽に聞き入っているという姿である。確かに、これであれば席を用意する必要はない。因みに、アンさんによると、前述したようにホーチミン市の人口は約800万人ということであるが、バイクの保有台数は400万台という。老人や子供の人口は分からないが、感覚的には大人は一人一台バイクを保有しているという感じのように思われる。一応公共バスも走っているが、彼らは圧倒的にバイクを利用することが多いようだ。ヘルメットの着用は、最近まで義務化されていなかったという。
(市民劇場)
(土曜コンサート)
(バイクからコンサートを楽しむ人々)
続けて大教会。この国の宗教ごとの人口構成は、仏教8割、キリスト教1割、ということであるが、後者はほとんどがカトリックということで、この教会もカトリック系である。アジアではあまり見かけたことがない、欧州の教会と同じくらい大規模な建築物である。1880年の建設で、外壁の赤レンガは、当時の宗主国フランスが、自国から持ってきたということであるが、少なくとも私の経験では、アジアでこれほどの規模のキリスト教会を見たのは初めてである。もちろん暑いとはいえ、穏やかな天気の土曜日の朝、ウエディング・ドレスを着たカップルが、至る所でプロと思わしき写真家による結婚アルバムの写真を撮影しているのが、この国の平和な現在を物語っていた。続いて教会のすぐ横にある、一見駅のように見える鉄のアーチ状の柱と天井をもった郵便局(1886−1891年完成)を覗いた上で、統一会堂に向かう。
(大教会)
(ウエディング・ドレスのカップル)
(郵便局)
(郵便局内部)
9時50分頃に統一会堂に到着する。ここは1975年の「解放」以前は南ヴェトナム政権の大統領官邸であった建物である。そもそもは1876年にフランスのインドシナ総督府として建設された建物ということであるが、1950年代に爆弾で破壊された後、1962年から66年にかけて再建された、100室以上ある4階建ての建物である。1975年4月8日、解放軍の戦車が鉄製の扉を押し倒して侵入した建物で、入り口から入って右側には、その時最初に突入した戦車(のパプリカか?)が2台、番号と共に展示されている。因みにヴェトナムが統一を宣言したのは、この突入(サイゴン陥落)から約2週間後の4月30日である。
(人民会堂)
(解放軍戦車)
一階から回り始めるが、近代的な、明かりがふんだんに入る作りになっており、もちろんそれぞれの部屋はそれなりに豪華な家具や装飾、照明が飾られているが、欧州の居城などと比較すると、むしろ近代的な普通の建物である。大統領の執務室には、地下に抜ける秘密の階段があり、非常時には地下の作戦本部に直接移動したという。また三階には、映画館や娯楽室があり、いかに当時の支配者たちが能天気であったかが分かる。また通路反対側の広い部屋にはヴェトナム戦争時の写真が展示されていた。屋上に上がると一部部屋になった部分と広いテラスがあり、そこではダンス・パーティーなどが開かれていたという。そしてそこから見下ろせる隣の低層階の屋上にヘリポートがあり、ヘリが一台展示されている。解放時に、ここから脱出したヘリの一台かな、と思い解説を読むと、そうではなく、1967年頃当時の大統領グエン・バン・チューが視察に使用したヘリと同じ型のヘリとのことであった。しかし、少なくとも、解放直前、南ヴェトナム政府関係者のみならず、米軍関係者がここから相当飛び立ったであろうことは間違いない。ここで、清涼飲料を飲みながら休憩している間、冒頭で述べたミュージカル「ミス・サイゴン」でのヘリコプター・シーンに思いを馳せたのであった。
(室内)
(ヘリポート)
一休みした後、今度は地下に降りる。そこにあるのはまさに戦争時の指令本部である。作戦地図が壁に貼られた大統領指令室から作戦会議室、古い機材が並ぶ通信室等々。そこから地下に伸びるトンネルの入口があるが、ガイドのアンさんによると、「これがどこに繋がっているかは今でも秘密。一説には(私も昨日降り立った)空港まで繋がっていると言われるが、真偽のほどは不明」とのこと。独裁者たちは、常に逃げることを考えていた、と思わせるような構造の建物であった。
1時間ほどで人民会堂の見学が終わり、徒歩でベンタン市場に回った。ここも昨日訪れているので、私はあまり見る物もない。ドリアンの試食などもやっていたが、連れのOL風二人連れもあまりこうしたところは関心がないらしかったので、早々に切り上げ、エージェントのオフィースに向かった。時間は11時半を回ったところ。途上で、ガイドが「刺繍屋を覗いてみるか」というので立ち寄った店の刺繍が見事であった。今回あまり自分のための土産も考えていなかったので、これを一つ買うことにして、80万ドン(4000円)程度の額入りの、小枝にとまった小鳥のデザインの刺繍を購入した。パッキングに少し時間がかかるということだったので、いったん旅行会社のオフィースに帰ってから、後でピックアップすることにした。
旅行会社のオフィースで、これから別行動のOL二人連れがアオザイ試着をしている間に、私は午後のツアーの前の腹ごしらえに出かけた。午後は私一人のツアーで、午後のガイドは、昨日空港に迎えに来た男性のノックさんである。34歳。5歳の男の子と生まれたばかりの女の子の二人の子供の親ということであるが、顔つきはまだ20台の優しそうな青年である。アンさんと同様、過去に3年日本に滞在したということで、やはり英語より日本語のほうが楽とのこと。まずは12時過ぎにオフィースを出て、サービスで入っているというシクロ(自転車で押す籠型の乗り物)に乗って、またベンタン市場へ。のんびりと走るシクロの前後左右を、ひっきりなしにバイクが通り過ぎていく。5分ほどの長閑なドライブである。シクロを降りて、市場の横にある観光客向けの小ぎれいな食堂に入る。ヴェトナム麺であるパオの専門店で、後でホテル正面の向かいにも店があることが分かったチェーン店である。そこでPho Gaと呼ばれる鶏肉のパオを食べたが、鶏のダシとさっぱりした麺が絶妙の味である。シンガポールでも、オフィースのそばにパオ・レストランがあり、偶に行っているが、やはり本場のものは違う、等と思いながら、食事を済ませ、帰りに先ほど購入した刺繍をピックアップした。
さて、午後の部である。ノックさんとセダンの車に乗り、12時半に旅行会社のオフィースを出た。約1時間半のドライブだという。最初は、例のとおり、バイクの混沌の中を見事に進んでいく運転に見とれたり、スリルを感じたりしていたが、30分ほど走ると眠気に襲われ、うとうとしてしまった。ふと気がつくと、車は既に都市部を出て、農村風景が広がっていた。インドネシアでも感じたが、稲の畑が多い、一昔前の日本の田舎の風景である。四角で中が空洞になっている石が多く並んでいるのは墓地だという。またしばらく行くと、今度は次第に木立が多くなる。道路沿いに木が整然と並んでいる林はほとんどがゴム林で、例の受け皿が木の下の部分についている。アジアでは良く見る風景である。突然柵で囲まれた広大な木のない土地が現れたが、これは建設中の工業団地とのこと。そして、そうした田舎風景が徐々に変わり、道路の周辺がうっそうと茂る森になる頃に、午後の目標であるクチ・トンネル歴史遺跡に到着した。時間は丁度2時である。
このクチ・トンネルは、まさにヴェトナム戦争で、ヴェトコンが米軍を悩ませた地下トンネル(ホーチミン・ルート)の最も旧サイゴンに近い部分である。ベンユゥック・トンネルとベンディ・トンネルと二つのトンネルがあるが、私が訪れたのはベンユゥックで、ここはこの地域の解放軍部隊であるサイゴンジャディン最高司令部・軍事委員会の地下本部であったとのこと。簡素な入り口から入り、大きなトンネル(これは新しい普通のトンネル)を抜けると、そこはうっそうとした森の中である。ガイドの男性の案内で歩き始めると、まずは、通路沿いやところどころにあるテントの中にいろいろな爆弾や武器が展示されている。大きなテントには米軍の戦車が置かれているが、ここの男性ガイドは外国語ができないので、ノックさんが解説するが、それによるとまさにそこで解放軍により破壊されたものを、そのまま残してあるということである。もちろんキャタピラや内装はほとんどない、ただの鉄の塊である。解放軍が、米軍から奪取したり、拾ったりした武器を再利用して新たな武器を作っている様子を人形で再現した展示や、煙を出さないように工夫して作られた地下のキッチン等。あるテントでは、米軍のジープのタイヤから靴(サンダル)を作る実演など。そして、ここの目玉であるトンネル。
(破壊された米軍戦車)
(戦闘が行われたジャングル)
木の枯葉に覆われた、何の変哲もない場所で、ガイドの男が、枯れ草に隠れた縦横20×30センチくらいの木の蓋を持ち上げると、そこがトンネルの入り口である。ガイドが蓋を頭にかざしながら穴の中に入り、その蓋をすると、そこは外から見るともとの枯葉の吹き溜まりである。例え、米軍がこの入り口を見つけたとしても、太った米兵はその入り口からは中に入れないということである。お前もやれ、ということで、私もその穴に体を突っ込む。米兵よりは痩せているということだろうか、かろうじて私の体もその穴を抜け、足が下の地面に着く。胸くらいの深さだろうか。ガイドがやったように、蓋を頭の上に持ち上げ、中にもぐり蓋をすると、そこは当然ながら全くの闇。取り敢えず、もう一度蓋を開け、光を入れて中に潜ると、そこからもう一段下がったところから、トンネルが延びているのが分かる。しかし、そこはこれ以上進む場所ではなく、もう一度手を上で合わせながら体を出し、外に出る。
(トンネルに入る現地ガイド)
この入り口が、この界隈では最も小さい入り口ということで、それ以外に普通に入れる入り口があり、今度はトンネルの中を潜ることができるという。15メートル・コースと30メートル・コースがあるが、どちらにする?というので、15メートルで良い、といって男性に続いて中に潜る。最近、イスラエルに封鎖されたガザで、武器やその他の生活物資をエジプト側から運ぶためのトンネルについてTVで見たことがあるが、そのトンネル以上に、ここのトンネルは狭い。屈んでゆっくり歩くのが精一杯という狭さで、実際の戦争時は、解放軍兵士が思い武器を持って、この中を縦横無尽に動き回り、思わぬ場所で突然現れて、米軍を攻撃したという。しかもこのトンネルは全長200キロに渡ってクモの巣のように掘られたというのだから驚きである。
このトンネルに行く途上で、ジャングルに仕掛けられた実際の罠や、その他の罠の例を展示したものもあった。実際の罠の一つは、落とし穴で、草で覆われて見えないが、足を踏み入れると回転盤が回り、削った竹が刺さっている穴に落ち込むような仕掛けである。それ自体は致命傷にはならないが、動物の捕獲と同様に、その穴に落ちて注意がそがれた瞬間に攻撃するという代物である。他方で、ジャングルの中には、B52が落とした爆弾でできたクレーターが、少なくとも観光通路沿いに二箇所、直径7−8メートル、深さ2メートルくらいにわたって抉られていた。まさに、この地で、こうした米軍の最新兵器による攻撃と、解放軍の知恵を絞った戦略での攻撃が火花を散らしていたのである。その結果、もちろん解放軍側にも多数の犠牲者は出たものの、それ以上に米軍側に、その後「ヴェトナム症候群」と呼ばれる大きな後遺症を残したのである。冒頭に述べたヴェトナム戦争映画の多くで描かれている、米軍兵士が骨身に染みるほど味わったジャングルでの戦闘の恐怖の小道具が、ここクチ・トンネルには残されているのである。もちろんヴェトナム側から見れば、まさにこの地域は、巨大な大国との戦争に勝利したヴェトナム人の栄光の痕跡ということになる。
こうして、30数年前まで続いた激戦への思いを感じながら、休憩所にたどり着く。ソフト・ドリンクを飲み、ノックさんと話しをしていると、突然銃撃の大きな音が響き渡り、ギクっとさせられる。もちろんここに来る前にも音は聞こえていたのであるが、休憩所のすぐ横にある実弾射撃場の音で、そばで聞くとまた一層恐怖感を抱かせる音である。ノックさんが、「やりますか?」と水を向けてきたが、殺人兵器の実演などご遠慮、と考え、帰路に向かうコースへ進んだ。地下病院や既に述べた「煙の漏れない地下キッチン」、あるいは爆弾のクレーターなどを眺めながら、最後に、解放軍が戦争中主食として重宝したというタロ芋を食べ(ややお腹が空いていたので出されたイモを全部食べたら、逆に結構お腹一杯になってしまった)、出口に向かった。時間は3時過ぎ。1時間ちょっと、ここにいたことになる。
出口で待っていた車に乗り、市内に戻る。再び1時間半のドライブということで、また途中でうとうとしていたら、気が着いた時には、バイクが群れる市内に戻っていた。この日の最後は戦争博物館である。夕方の渋滞も少しずつ広がる中、4時半にこの博物館に到着。5時閉館ということなので、早足で展示を見て回った。
2階建ての近代的な建物で、展示の多くは、第二次大戦後のフランスとの戦争から、米国との戦争を経て解放・統一に至る歴史を、主として写真で示したものである。もちろん、主要な部分は米国との戦争の記録である。写真の多くは、米軍の従軍カメラマンによるもので、その中には、例えばピューリッツア賞を受けた、「ナパーム弾から逃げ惑う裸の少女」、といった有名な写真もいくつか含まれている。「ソンミ村虐殺」の被害者の写真など、直視に耐えない残虐な写真も多い。また同じ日本人として、戦争に従軍し、死亡した沢田教一による「川をわたる家族」(1965年)という写真(これも1966年のピューリッツア賞を受賞した有名な作品であり、博物館のパンフレットにも掲載されていた)や、彼の顔が入った身分証明書の写真も記憶に残ることになった。その他、日本人では峰ヒロミチというカメラマンの「味方の誤爆で墜落する米軍機」という写真も展示されていた。
5時になり、閉館のベルが鳴る。他の入場者と一緒に外に出て、最後に博物館の庭に展示されている米軍機や戦車を眺めて回る。改めて輸送用のヘリの大きさにびっくりさせられたくらいが、特記事項である。
(戦争博物館)
(屋外に展示された戦車)
取り敢えず、今日の予定は終了。明日は早朝の出発で帰るだけなので、あとは今晩の食事くらいである。車の中でノックさんに、昨日食べた牡蠣が美味しかった、という話をすると、ホテルから然程遠くない場所に、庶民的ではあるが美味しい牡蠣専門のレストランがあると教えてくれた。またその近所には、やはり庶民的な魚料理の店もあるということで、地図にホテルとこれらのレストランの場所を入れてくれた。昨日食べ過ぎたので、今日は気をつけよう等と考えながら、またクチ・トンネルで食べたタロ芋でそれほどお腹は空いていないので、まずは一旦ホテルに戻り、出直すことにした。
6時前ホテルに戻り、シャワーを浴びて、しばらくゆっくりしてから、7時過ぎに、街に繰り出した。まずはホテル隣接のショッピング・センターに行き、昨日目星をつけておいたCD/DVD屋で、洋楽DVDを何枚か購入(値段はあえて伏せます)。次に、朝の散歩の際に、ドンコイ通りのしゃれた店にあった漆がこの国の特産という話しを聞いていたので、土産物屋で小さな漆の花瓶を購入した。一旦ホテルにそれらを置いてから、レストラン探しに出発。やや迷ったが15分くらいで、通りに牡蠣料理の写真のサインボードを出している店が見つかった。言葉の出来ない外国人が入ると違和感があるかな、という不安を感じながら、開け放しの入り口に近いテーブルについたが、そこで食事を始めている既往客―家族連れ、カップル、そして一人で黙々と牡蠣を食べている男などーは、特段こちらに関心を払うでもない。これであれば大丈夫と周囲の料理も指差しながら、何とか英語で昨日食べたガーリック焼きとクリームソース焼きを注文した。ビールを飲みながら待っていると、出てきた牡蠣は昨日よりもまた一回り大きなもの。一皿にそれが3枚はいっているが、味は決して大つくりではなく、紛れもない牡蠣の味である。それで思い出したのは、昔ロンドン時代に、英国の友人の自宅で、彼が産地の町まで出かけて仕入れ、御馳走してくれた肉厚のコルチェスター・オイスターである。しかし、殻の大きさはそれ以上で、ビールにぴったり合い、最高のつまみである。
(肉厚の牡蠣)
1時間ほどそこにいて、次にこれまたノックさんお薦めの魚料理屋に移る。これは、牡蠣屋のすぐ側で、やはり大きく看板が出ているのですぐ分かった。歩道に置かれた低いテーブルの低い椅子に、通りを眺める向きに着席する。ヴェトナム語でいくつか魚の名前を書いてもらった紙を見せると、しばらくして40センチほどの立派な魚を持ってきて、これで良いか、という仕草をするので、それでOKと返事をして料理を待った。
ビールを飲みながら、変わった味の小さなフルーツをつまむ。前の通りは9時近くになっているとはいえ、土曜の晩ということもあるのだろう、相変わらずバイクがひっきりなしに通り過ぎていく。隣の席では、ティーンエージャーくらいの男女を連れた4人家族が、豪快にエビや蟹を食べている。時折バイクのお兄ちゃんが乗りつけ、テイクアウトを注文し、料理が出来ると袋をブラ下げ去っていく。昨日もそうであったが、何とも長閑な風景である。
しばらくすると、店の女性が、卓上コンロに火を灯す。と、大きな皿にスープと共に盛られ、形が見えなくなるほどの細切り野菜で覆われた魚が運ばれてくる。言葉は分からないが、おそらく一旦茹でた魚をもう一度コンロで暖め、野菜と一緒に食べろということだと思われる。野菜は、ネギやにんじんにチリらしき赤い細切りが入っている。また後で食べて分かったのであるが、中国クラゲのような茸や海草系も入っていたようである。
昨日の大量注文に懲りて、ここではこの魚だけの食事にした。しばらくしてスープが煮立って箸を付け始めたが、期待通り、結構締まった白身魚と野菜・スープのしっかりした、しかし胃に優しい味付けが口の中に広がる。油はほとんど使っていないので、食べやすく、またビールを飲みながら結局一人でほとんど食べきってしまった。昨日に続いてお腹は一杯である。また同じ間違いを犯してしまった、と思いながらも気分は最高であった。
(野菜のたっぷり乗った魚。向こうは通り)
(魚料理屋の「130」)
勘定はビール2本が入って30万ドン=約1500円。ホテルに向かって歩き始める。ここと同じ並びに似たようなレストランが何軒かあるが、土曜日の夜ということか、どこもたくさんの人々で大賑わいである。10時を過ぎているが、一般の店もまだまだ開いている。ここが一応社会主義の国であることを忘れさせてくれるようなアジアの宵であった。途中、何軒かの店をひやかしながらホテルに戻ったのはもう11時近く。明日は早朝の出発なので、無理をせず、荷造りをした上で就寝した。
11月29日(日)
帰国日である。10時のフライトのために、エージェントが7時ホテル・ピックアップというのにうんざりしたが、取り敢えず送迎付きなのでしょうがない。5時半に起き、朝食を取り時間通りにチェックアウト。7時丁度に迎えに来た車に乗って、ホテルを後にする。日曜日早朝とは言え、既に道はバイクで溢れている。空港には40分で到着。免税店を一通り見た後は、やることもなく、本を読んで過ごし、定刻のフライト(SQ171)に搭乗した。シンガポール着は時差が戻り、午後1時。それでも2時には自宅に帰り着き、この短い旅は終わり、この日の夕刻は、シンガポールでのいつもの定例テニスに汗を流したのであった。
今回の旅は、初めての国、初めての都市ということもあり、あまり冒険はせず、一般の観光スポットだけをさっと回った旅であった。目的は、まずはヴェトナム戦争の爪跡を見るということであったが、終戦後既に30年。現地ガイドを含め、現地の人々にこの戦争の話しを立ち入って聞くような雰囲気もなく、その意味では、この戦争もいまや歴史と化しているという感がある。他方、自分のビジネス対象としてのヴェトナムということでは、それこそ週末の観光では、ほとんど情報もなく、むしろ今後の業務出張時の基本知識や地理感覚を得たというだけのものであった。
しかし、それでも現地ガイドやレストランの人々の対応は非常に親切で、ほとんど嫌な思いを感じることがなく、何よりも社会主義国にいるという感覚を全く抱かず過ごせたのは幸運であった。一般的に、この国は日本に対しては友好的であるという話しもあるが、まずはこの国も、タイやマレーシアと同様基本的にアジアの同胞で、顔つきも然程違わない我々にとっては基本的に溶け込みやすい社会なのだろう。美味しかった食事の思い出を胸に秘めながら、またここに帰る機会が来ることを期待したのだった。
2009年12月5日 記