アユタヤ観光記(写真付)
2010年2月15日
旧正月の4連休を利用して、二泊三日でバンコクに向かった。今回は、直前まで仕事の都合で、シンガポールを離れることができるか不透明であったため手配が遅れ、結局空いているフライトがバンコク位しか確保できなかったということもある。しかし、バンコクは公私共々何度も訪れているが、そこから約76キロ北にある古都アユタヤには今まで足を運ぶ機会はなかった。そんなこともあり、唯一終日を使えるこの日、この旧都への観光に出かけた。
アユタヤは、言うまでもなく、タイ第二の王朝であり、「アジア読書日記」に別掲の「物語タイの歴史」によると、14世紀に「タイのナショナル・ヒストリーでタイ族の王朝の始まり」とされるスコータイ朝を飲み込む形で勃興し、15世紀半ばには、隣国クメール王朝を崩壊させるまでに成長したという。しかし、16世紀終わりには、ビルマのタングー朝の侵略を受け、15年間、ビルマの属国になる。その後、ビルマから再び独立し、後期アユタヤとして新たな隆盛期を迎え、支配地域も現在のカンボジア、ラオス、そしてミャンマーの一部を含むまで拡大することになる。しかし、その後は、オランダ、英国等のアジア進出先発組と、後発であるフランスの争いに加え、其々と結託した国内勢力の抗争から衰退し、最終的に1767年にビルマ軍による再度の占領を受け、400年を越える歴史を終え滅亡する。その後、タイではタークシン王のもとでビルマを駆逐するが、彼はアユタヤを再興させるのではなく、新たにバンコクを中心に国造りを行うことになったため、結局アユタヤは、この18世紀半ばのビルマの侵略により徹底的に破壊されたまま、再建されることなく現代に至ることになる。そして皮肉なことに、この旧都は「戦争により徹底的に破壊された姿を、戦争の悲惨として後世に伝える」という目的で、1991年、ユネスコの世界遺産の指定を受けるのである。
今回、バンコクしか逃げ場所がないという状況でこの町への観光を思い立ったもうひとつの理由は、やはり別掲している遠藤周作の小説で読んだ、山田長政所縁の地を一度訪れておこうという動機であった。「物語タイの歴史」によると、17世紀始め、この町は世界の大航海時代の幕開けと共に、林産品を中心とした集積地となり、「王室独占貿易という形で世界中から集まってくる商人に売却して利益を上げる」と共に、それを求めて集まってくる外国人の居住区を定め、日本の商人や山田長政ら義勇兵の住む日本人街は最盛期で1000−1500人に膨れたという。この小説で、アユタヤ王室に取り立てられ出世し、リゴールという州政府の長官にまで上り詰めるが、最後は毒殺されたという山田長政を、遠藤周作は、「超俗物の出世主義者」として描いたが、そうした過去の「国際化した日本人」の一人である山田長政の息吹も感じられたら、というのが、この観光のもうひとつの目的であった。
前日午後、バンコクのホテルに到着するや否や、翌日の観光の手配を行った。空港でもらってきた日本語ツアーのガイドと見比べながら、ホテルのツアーデスクで、結局往路はバス、復路はボートの一日観光(Bhts1,900)をアレンジした。個人でバスや電車を利用して自由に動くことも考えたが、ほとんど準備をしないまま出てきてしまったので、単独アレンジを行う気力はなかった。また山田長政らが住んだ日本人街は、彼が住んでいたと思われる場所に、彼を祭る記念碑と小さな「日本人町歴史研究センター」がある程度で、日本語ツアーもここは、単に「車窓より」とあるだけで、ほとんど時間は割いていない。そんなこともあり、時間とコストの面で多少メリットのある英語ツアーに参加することにした。
7時半ホテル・ロビーでピックアップ。その後チャオプラーヤ川沿いのRiver Cityで大型バスに乗り換えて出発する。旧正月2日目であるが、タイは公式の祭日ではなく、中華街などを中心に中国系が私的なお祝いをする程度であるという。むしろ週明けの月曜日とあって、早朝から町の中の渋滞はいつものとおりである。それでも高速に入ると、ラッシュと反対方向でもあり、バスはバンコク郊外の田園風景の中を順調に北上し、9時前に、最初の観光地であるバーン・パイン離宮(Bang Pa-In Palace)に到着する。
ここは、アユタヤからバンコク寄り約20キロに位置する、代々のタイ王室が離宮として使用してきた施設で、広大な敷地にいくつかの建築が散在している。そもそもは17世紀に時のプラサート・トン王が、チャオプラーヤ川の中州に宮殿を建てたのが始まりで、その後寺院やその他の建物が建設されたということであるが、アユタヤが1767年に滅亡した後は、約80年の間放置されていたようである。しかし特に19世紀になると、モンクット王(ラーマ4世―ミュージカル「王様と私」のモデル)のもとで離宮として再建され、その子供であるチュラロンコーン王(ラーマ5世)が、外遊時に見た西洋建築物を、帰国後、まだそうした建築を知らない家臣やタイ国民に知らしめるために多く建設していったという。現在でも、このいくつかの建物は国王ラーマ9世とその王妃が時々居所として使うと共に、賓客のもてなしに使っているとのことである。
10時半まで自由に見学と言うことで、強い日差しの中、適当に歩き始める。ツアー参加者の中で、年長の人々は敷地内の移動のためにゴルフのカートを借りているが、こちらには必要ない。ローカルの小中学生くらいの集団がここそこに見受けられるのは、学校による見学にも使われているからだろう。時折日本語ガイドを連れた日本人の観光客がいるのは、アジアの観光地のどこでも見られる風景であるが、気が向くと彼らの後ろで、現地ガイドのやや変な日本語による説明も聞いたりする。ちょうど中間地点にある立ち入りが制限されているロココ風の建物は、王室が使用している建物なのであろうか。その向かいにあるパゴダ(ラーマ4世が天体観測に使ったという「天文台」)に昇ると、この離宮が一望できる。いくつかの建物の中にある調度品は、なかなかのものので、一瞬かつて欧州の宮殿で見た家具や装飾品を思わせるものもあるが、これらはラーマ5世ら、近代の王たちが収集したコレクションなのであろう。確かに、シンガポールはその典型であるが、こうした王室文化のなかった、あるいはアユタヤがそうなのであろうが、あったとしても、度重なる侵略により破壊・略奪されてしまったアジア地域の中で、こうした遺産を見ることは少ない。その意味で、観光資源としては貴重なのであろう。入り口を背に、左回りに敷地を回り、途中、誰も人がいないこの離宮の展示館等も早足に眺めながら、入り口に戻った。
(ロココ風宮殿)
(池に突き出した台座)
(ポルトガル様式の「天文台」)
(天文台より寺院を眺める)
10時半にここを出て、アユタヤの町に入る。バスが町に入りかけた頃を見計らって、ガイドの男性が町の全般的な解説を行う。「かつてアユタヤが最盛期にあった頃、この町に500以上あった寺院は、18世紀の数次にわたるビルマによる占領で、ほとんどが完全に破壊されてしまった。その後、首都がバンコクに移ったため、この町の遺跡は荒れ果てていたが、1991年ユネスコに、その廃墟を、戦争が文化を破壊するという人間の悲惨な記憶としてそのまま維持するということで世界遺産に指定された。従って、この町の遺跡は原則再建されることはない」とのこと。また「最盛期には多くの外国人が出入りしており、町の各所にチャイナタウンや日本人街などの外国人居住区が建設されたが、それも現在は全て破壊され何も残っていない」と前置きされ「日本人の山田が住んでいた家も今は何も残っていない」とコメントしていた。ツアー参加の日本人は私だけであったが、それを意識したコメントであったかどうかは分からない。その後の自由行動時に、そのガイドの男性に、もう少し詳しく当時の日本人街がどのようになっているかを質問してみたが、彼自身はそこには行ったこともなく、また山田長政が地方長官として上り詰めたリゴール州というのが地図のどのあたりにあるのかも知らなかった。一応日本語のツアーには、車窓からではあるが、旧日本人街視察とあったので、そこを目撃するには日本語ツアーの方が良かったかもしれないな、と思いながら、まずはアユタヤ最大の廃墟であるプラ・マハタート寺院(Wat Phra Mahathat)の散策を開始する。
14世紀に建設された古い寺院ということであるが、ほとんどが破壊された廃墟である。ガイドによると、この寺院には、タイでも珍しく違った国の仏教建設様式が狭い範囲に建設されたということで、タイ、カンボジア、スリランカ3カ国の建築様式を一か所で見られるという地点に案内された。またその横には、アユタヤの廃墟の象徴である、ヨウ樹に絡みとられた仏像が、観光客の絶好のカメラ・スポットとなっていた。残された20分ほどで、廃墟の中を放浪する。ガイドの説明にもあったが、壁の内側に立ち並ぶ仏像のほとんどが、首や手を破壊された状態で、まともな形で残っている像がないのは、確かに悲惨である。傾いた仏塔の横をすり抜けながら、バスに戻る。
(左から、スリランカ、カンボジア、タイ様式の遺跡)
(ヨウ樹に絡まれた仏像)
(寺院の廃墟)
(破壊された仏像)
11時半にここを出発して、10分ほどのドライブで、次の寺院、ナー・プラメーン寺院(Wat Na Phara Mane)に移る。この寺院は2回のビルマの占領時にビルマ軍が本部として使ったことから、アユタヤでは珍しく建物や装飾がそのまま保存されたという。そしてここの見所は本堂に坐している巨大な金色の仏像であるが、この仏像の様式はタイでも珍しいスタイルになっているという。ガイドブックによると、これは、「華やかな冠に王の装いをした珍しい宝冠仏」とのことであるが、私の印象としては、やや「テクノ」っぽい、現代映画にでも出てきそうなモダンな表情をした仏像といったところである。またこれもガイドが説明していたが、天井の装飾は「ニルバーナ(涅槃)」を象徴しているとのことで、これも破壊されずに残ったのは幸い、ということであった。
(破壊を免れたナー・プラメーン寺院)
(テクノっぽい仏像―背後の像)
(涅槃を象徴する天井の飾り)
12時過ぎに、最後の廃墟である寝仏(ロカヤ・スター寺院―Wat Lokkaya Sutha)に移動する。廃墟の中に横たわる巨大な寝仏であるが、廃墟に数百年に渡り棚晒しにさせられたこともあろう、表面の装飾はほとんど消え失せ、ただの巨大な石の塊といった感じである(後でガイドブックを見たら、1956年に一応復元されたが、その後また風雨に晒され、今の状態になってしまったようである)。寝仏としては、バンコクのワット・ポー(涅槃寺)にあるものが、屋内で保存も良く残っているが、これは言わば、そうした後代の仏像の、荒んだ原型であると言えるのであろう。
(巨大な寝仏)
それこそ15分の短期滞在でそこを出発。その前に暑さでのども渇いてきたことから、20バーツのココナッツ・ジュースで喉を潤す。ガイドブックには、まだそれ以外に数々の寺院が紹介されているが、今回のツアーはこれで全てである。遠藤周作の小説で、陰謀に巻き込まれた国王らが、読経が続く中処刑されていった場所として描かれているワット・プラミンコ・プラーヤという寺院も、もし途中にでもあればと思っていたが、結局ガイドブックの地図でも見つけられないままであった。しかし、アンコールと同様、いくつか見た後は、廃墟の景観というのは、ほとんどどれも同じである。取り敢えず今回のアユタヤ観光もこれで良しとしよう。
帰りはボートでバンコクまで戻る予定であるが、川で囲まれたアユタヤであることから、すぐボートに乗り換えるのかな、と思っていたら、波止場までは30分以上も走ることになった。それまで炎天下にいたこともあるのだろう、バスの中ではすぐにウトウトしてしまった。そして、ボートに乗ると直ちにブッフェの昼食。独りでの参加者3人は一つのテーブルに集められたが、私の他はクアラルンプールのアクセンチュアで採用を担当しているスペイン人女性とバンコクの米国大使館勤務の米国人女性。それにブラジル出身で、現在韓国で勤務しているという中年夫婦と、離れていたので話しはしなかったが中国系のカップルが同じテーブルである。スペイン人女性は私と同じで、旧正月で静かなクアラルンプールから逃げてきたとのこと。とんでもないデブの米国人女性は、アフリカはモザンビークでの3年の勤務を終え、二か月前にバンコクに転勤してきたばかりである。ブッフェの昼食を取りながら、アフリカやスペインの話に花を咲かすことになった。
バンコクまでの船旅は、約2時間。1時間ほどで食事が一段落したので、それからは三々五々に時間を過ごす。私は、始めはボート後部のデッキでチャオプラーヤ川の雄大な眺めを楽しんでいたが、その後先頭部のデッキにも出られることが分かったので、結局バンコク到着まで、短いコーヒータイムを除き、ほとんどそこで過ごすことになった。日射しは強いものの、広い川面を走る船に吹く風は清々しく、流れゆく両岸の景色を眺めているうちに、3時半にバスで出発したRiver Cityに到着。同行者たちと別れの挨拶を交わして、其々のホテルに向かうミニバスに別れていったのであった。
(チャオプラーヤ川のボートから)
今回は、仕事のプレッシャーが結構ある中での短い休暇であったことから、能天気なツアーに便乗してしまい、結果的に、山田長政所縁の場所は訪れることができないまま戻ることになってしまった。しかし、僅かな時間の滞在ではあったが、確かに、アユタヤの最盛期の姿は相当なものであっただろう、ということは実感できた。言わば、寺院に溢れていた京都の町が徹底的に破壊され、そのまま現代に至ったといったところだろう。それは戦争の悲惨であると共に、文化というものが、如何に脆弱であるかをも物語っている。破壊され捨てられた町。そしてそうして捨てられたことで世界遺産に指定され、そのままの姿を晒し続けることを運命付けられた町。バンコクの喧騒から離れて静かに佇むこの廃墟の町から、かつての栄華の香りが少しだけでも漂ってくることを感じつつ、またそこの宮廷で渦巻いていた陰謀の数々を想像しながら、帰宅後、都会の喧騒のど真ん中にあるバンコクのホテルのプールサイドで夕刻の時間をのんびり過ごしたのであった。
2010年2月19日 記