マラッカ(馬六甲)歴史紀行(写真付)
2010年5月28日―29日
5月28日(金)が、Vesak Day(仏陀の誕生日―仏教の祭日)で祭日ということを認識したのがその前週末のことであった。三連休の週末。最近の市場の調整もあり、仕事面がやや暗かったこともあり、気分転換も兼ね、かねてから週末の小旅行を考えていたマラッカを訪ねてみることにした。
その週末、一週間後の一泊旅行のアレンジに入り、インターネットでまずホテルは予約できたものの、続いてバスの手配に入ったところ、これが全く甘かったことが判明した。28日(金)の朝発、29日(土)夕刻戻りのバスを探したが、行きが全く取れない。シンガポール近郊の人気スポットとして、こうした連休は相当前から予約が入っており、一週間前に思い立って簡単に取れるということではない、ということを思い知らされた。同僚から連絡先をもらったバス会社2社では全く手配できず、慌ててネットで他の会社を探し検索したところ、ようやくある会社で、28(金)午後7時半発のバスであれば取れるということが分かった。これだとマラッカへの到着は深夜になり、観光時間は翌日半日ちょっと、ということになるが、それでも三連休をシンガポールで怠惰に過ごすよりは良いだろうということで、これで確定させることにした。
マラッカは、言うまでもなく、15世紀以降、海峡の貿易中継地として、明朝の中国を始め、西欧列強各国が訪れ、香料などの東洋の産物が取引され繁栄した。1511年、ポルトガルの植民地となるが、その後もオランダやイギリスの植民地争奪戦の中に巻き込まれ、町は何度も破壊されたという。最終的には、この戦争で勝利を収めたイギリスの支配下に入るが、シンガポールが築かれると次第に衰退していった。しかし町の歴史はシンガポールよりも圧倒的に古く、その分歴史的遺産に恵まれている。ペナン島のジョージタウンと共に2008年7月、世界遺産に登録されたこともあり、シンガポールに滞在し、歴史に飢えている者にとっては手頃な観光地である。何人かのこちらの友人からも薦められていたことも、今回の小旅行の動機となった。
5月28日(金)
バスは、シンガポール中心部から少し東に行ったGolden Mile Complexというショッピング・センターを出発する。出発予定時刻の30分前までに来るように、とのネット予約のコンファメーションの指示に従い、若干早めではあるが、夕刻6時頃タクシーで自宅を出ると、6時10分にはこのSCに到着し、所定のカウンターで受付を済ます。次は、出る直前の7時25分までに戻ってくれば良いということで、待ち時間に、初めて訪れる然程大きくないそのSCの中を見て回った。最新のSCに比較するといかにも古めかしいそのSCは、タイ・レストラン(ホーカーズ)を始め、タイ・スーパーマーケット、タイCD屋、タイ・ディスコ等、タイ関係の店舗と、そこに群がるタイ人で溢れていた。ご多分に漏れず、タイ・マッサージの店も数件入っていたことから、時間もあるので、これからのバスでの長旅に備え6時半から30分、このマッサージ(S$25)で時間を潰した。
7時半、正面につけたバスに搭乗。バスは一列2席+1席のレイアウト。ネットで指定した2階建てバスの2階後ろから2番目の一人席に着く。以降、バスは、7時45分出発、8時15分コーズウエイ着、8時25分発、8時30分マレーシア入国ゲート着、8時50分発と、祭日ではあるが金曜日の夜でもあり、順調に国境を越えてマレーシアに入る。ここでバス正面のテレビで変なカンフーアクション映画が大音量で始まり、音楽を聴いている私にとっては隣の席のマレー系中年女性二人のマレー語での会話共々、ややわずらわしかったが、バスは高速をふっ飛ばし、10時には一旦高速を出て食堂、売店のある休憩所に到着する。10時30分発。それから1時間後の11時30分に、また高速を一旦降りたところで、バスは停止した。
運転手が通路を通りながら何か言っていったが、私は音楽を聴いていたので、何を言っていたのか聞き逃した。何人かの乗客が荷物を持って降りていったので、念のため外に出て、そこで降りた客の世話をしていた運転手に聞くと、そこはマラッカであるとのこと。慌てて席に戻り、簡単な荷物をまとめて降りることにした。
運転手は、バスの横に停車していたバンの運転手に、降ろした客をホテルまで送れ、と交渉しているようであるが、その運転手は、自分はダメだけれど、タクシーを呼んでいる、と答える。それを聞いて運転手は、それではタクシーが来るから、と言い残して、バスは走り去ったのだった。
当初の情報では、マラッカ・セントラル・バス・ステーションで下車ということであったが、そこはどう見てもただの高速の出口。だんだん不安になると、他の下車した乗客(私を含め6名)も同じ不安を抱いているようで、「本当にタクシーが来るのか?」とお互い言い合った。ちょうどその時、我々の前に空のタクシーが停止した。まず私が駆け寄り、ホテルの名前を言うとOKとのこと。続いて中国系のおばちゃん二人ずれが、やはりホテルの名前を言うと、そこは離れているのでイヤだ、と言う。やや後ろ髪を引かれる思いであったが、おばちゃんたちも「行って」というので、お先に一人で失礼することになった。料金は、到着が深夜になるので、事前にホテルに確認を取っておいた、セントラル・バス・ステーションからのタクシー代40リンギと同じ料金であった。こうして11時50分頃その場を離れ、午前0時10頃ホテル(Hotel Equatorial Melaka)に到着した。途中、深夜ではあるが、郊外から町へ入る道沿いにはきれいなイルミネーションの装飾がなされ、また街中に入ると、その落ち着いた町並みが照明を受けて輝いていた。なかなかきれいな町だ、というのが第一印象である。チェック・イン後リンギを調達(S$100=MYR226。1リンギ=29円程度)。0時30分に部屋へ入り、1時半頃就寝したのであった。
5月29日(土)
6時のモーニングコールで起床。6時半からの朝食ブッフェを済ませ、直ちに7時20分に町に飛び出した。時間が限られているので、まずオープン・エリアで入場時間のない遺跡等を早い時間から回り、それから9時以降開く博物館等を回ろうという戦略である。快晴の空の下、まずは残された唯一のポルトガルの要塞である「A Famosa」(日本語ガイドブックでは「サンチャゴ砦」)に向かう。徒歩で10分とかからず到着し、それを潜り抜け小高い丘の上に昇る。そこにはセントポール寺院跡。外壁だけ残して崩壊した教会であるが、ここにはフランシスコ・ザビエルの墓地があった(1553年にここで埋葬された)ということで、海に向かい彼の像が建っている。
(ホテル)
(サンチャゴ砦)
(セントポール寺院跡とその内部)
(丘から海を臨む)
丘の麓や上の広場では、土曜日朝ということもあるのであろう、多くの中国系住民が太極拳に興じている。既に空気は熱くなり始めているが、丘の上を通り抜ける風は清々しい。マラッカ海峡の海を眺めながら、また同じ道を下り、中心部に向かって歩き始める。まず目に入ってきたのは、民族建築風の木造の建物。ガイドブックにはない建物であるが、その前にある解説によると、Muzeum Istana Kosaltanan Melakaという、1456−1477年在位のマラッカのスルタンに関係する展示館とのこと。(1984年10月着工、1986年4月完成)。その正面には、きれいに整備された庭園が作られている(「Hidden Garden」との看板)。 Dutch Graveyardを見ながら丘を左に回り、8時過ぎに市庁舎である「スタダイス(Stadthuys)」(赤いオランダ風木造建築)の正面に出る。これは17世紀半ばに建てられた東南アジア最古のオランダ建築物で、かつては市庁舎として使われていたという。
(イスタナ博物館)
(Hidden Garden)
(スタダイス)
川を渡り、Jonker通り(Jalan Hang Jebat)を目指す。この時点ではJonker 通りという名前しか頭になかったが、幾つか調達した町の地図にはこの名前が載っていないことから、とりあえず早朝の閑散とした通りをブラブラ歩き回り、どこがこの通りかを確認しようとした。店も、一部の売店や食堂を除けば、まだ開店前である。今回の主目的のひとつである鄭和博物館が9時に開くとのことなので、この場所を確認すると共に、マレーシア出身のローカル・スタッフから薦められた食堂なども見つけておこうと思いたったが、博物館については、何人かの住民に聞く度に違う方向を言われるという状態で、3本平行して走っている通りを行ったり来たりする。通りの端に、大きな飾りがあり、ここがJonker 通りであることは確認できたが、博物館を探すには少し時間がかかった。その間、この都市最古の仏教寺院(Cheng Hoon Teng Temple)、モスク(Kampong Kling Mosque)、ヒンドゥー寺院(Sri Poyyatha Vinayagar Moorthi Temple)と、異なった宗教寺院が並んで建っている姿を見たり、中国の出身地別の会館がいくつもあるのに気がついたりしていた。東京にも銀座の讃岐会館ではないが、いくつか地方出身者の集合場所があるが、この小さな地域だけでも、福建会館、広州会館、潮州会館等々、多くの同種の看板があるのに、中国移民の結束の強さを感じたのであった。
(マラッカ川)
(早朝のJonker通り)
(世界遺産指定の表示)
(幾つかの仏教寺院)
(モスク)
(モスクとヒンドゥー寺院)
9時前に、やや大きめの土産屋で鄭和博物館の場所を聞くと、すぐ隣だという。そこは何回か通り過ぎた場所であったが、扉が閉まっていたこともあり、それとは気がつかなかった。丁度開いたところであったので、一番の客としてその鄭和(Cheong Ho)博物館(10リンギ)に入場した。
受付の若い男の子が、是非ビデオを見ろと薦めるので、小さな映写室に私ひとりで入り15分ほどのビデオを眺める。中々良く出来たビデオで、1377年生まれの鄭和が、朝貢貿易先を開拓するため、明の永楽帝の命を受け、大船団を率いて1405年から1433年の間に計7回、西方への航海を行い、ペルシャ湾のジェッダから東アフリカは、モガデシオ(そこから中国に初めてキリンを持ち帰ったという)からモンバサまで訪れたといった話を学ぶ。マラッカとの関係では、1403年に明の使節が初めて訪れ、1405年に鄭和が訪問、1409明朝と正式な外交関係樹立した。しかし永楽帝死後朝貢政策が終わり、明は鎖国政策に転換し、この鄭和が築いた関係が失われてしまったという。その後、閑散とした博物館で、ゆっくりと展示を楽しみ、40分ほど滞在してから、博物館の冊子(15リンギ)を買って外に出た。
(鄭和博物館とその内部)
10時近くなり、Jonker 通りには、徐々に人が出始めている。小休止を兼ねて、オフィスのローカル・スタッフに奨められた「Jonker 88 Museum Cafe」という小さな店で、Cendolといわれる小豆シロップのかかったかき氷(2リンギ)を食べ、その後アンティーク屋等の店を覗きながら、市庁舎前に戻る。その横のキリスト教寺院を眺め(1753年オランダ人が建築。コンサートの準備中で、アコギとピアノの音合わせをやっていた)、その横にあるアート・ミュージアムで15分(現代画中心。2リンギ)、市庁舎の横に入り口のあるマラッカ博物館で20分ほど過ごして(明朝の陶器など、結構見ごたえがあった。5リンギ)11時頃、正面に多数たむろしていたトライショーでホテルへ向かった(15リンギ)。既に相当の暑さになっていたことから、一旦シャワーを浴び着替えて、12時のデッドライン直前にホテルをチェックアウトする(朝食、税金込み:MYR425)。
(マレーシア風かき氷Cendol)
(マラッカ博物館の展示)
(トライショーのおじさん)
着替えや本などの荷物をホテルに預け、午後の部ということで、12時にホテルを出発。トライショーでジョンカー通り入口のレストランへ向かう(15リンギ)。これまたローカル・スタッフの推奨を受け、午前中に場所を確認していたチキンライスボールの専門店である(和記鶏飯―Hoe Kee Hainanese)。多少の行列はあったが一人なので簡単に相席に案内され、チキンライスボールとココナッツジュース(8リンギ)を注文する。シンガポールのチキン・ライスでは、ご飯が別の椀に盛られて出てくるが、これがないので文句を言うと、ライスボールというのは、言葉そのもののとおり、鶏の横に盛られている丸い団子のことであった。確かに食べてみると「ライスボール」であった。
(チキン・ライス・ボール屋とチキン・ライス・ボール)
朝食ブッフェで結構食べていたので、この軽いお昼を短時間で済ませ、12時半にはそこを出て、灼熱の中、川沿いにある水車などを眺めながら、ホテル方向へ歩き始める。目的は、ホテルの横にあったモダンなショッピング・モール。10分とかからずDataran Pahlawan Melaka Megamallという、このSCの町に近い建物の入り口に着く。因みに反対側にあるビルの入り口はホテルのすぐ前であり、この二つの建物の間は、地上は広い芝生になっている。一般のSCのビルの店舗は、シンガポールにもあるSCと同様、特段変わった品物が置いてある訳ではない。しかし、SCに入り、中をホテルに向けて歩き始めると、この二つのビルの間数百メートルが地下でつながっていることが分かった。しかも、そこは、アジアで多く見られる屋台のバザール街が、延々と広がっていたのである。冷房が効いた、清潔なバザール。やや「アジアの混沌」を求めるものにとっては拍子抜けするが、売っているものは、例えばタイのナイトマーケットなどで見かけるのと同じような品物である。早速見つけたCD/DVD屋で廉価版を購入。一般の店舗も含め、ホテルのロビーに飾られていた動物等のチューターを安く買えないかな?と思い探したが、これは見つからなかった。
(川沿いの水車)
(ショッピング・モールのホテル側)
冷房が効いているとはいえ、午後1時半も過ぎ、やや足も疲れてきたので、見つけたマッサージ屋を覗いた。この時間であれば1時間はゆっくり出来るかな、と期待したが、まず最初に覗いた通り沿いの店(60分:40リンギ)は、狭くて余り清潔でないにもかかわらず最低30分待ち。続いてバザール内で見つけたきれいな店は1時間待ち。結局、マッサージは諦めることになったが、昨年12月に訪れたランカウイと同様、どうもマレーシアでは、私はマッサージとの相性が悪いようだ。
結局時間が空いてしまったので、疲れた足を引きずりながら、道を挟んだ向かいにある別の大規模SC(Mahkota Parade Shopping Complex)へ向かう。ここはシンガポールにあるSCとほとんど変わらない雰囲気であるが、最初のSCに比べるとずいぶん閑散としている。20分ほど彷徨い14時40分頃ホテルに帰りついた。預けた荷物を受け取った後、ロビーで販売されていたチューター購入し、迎えのバスを待つ。予定では15時半のピックアップであるが、15時10分にバスが到着。私の名前の登録はないが、同じ会社のバスであり、私と同様ロビーで待っていてそのバスに乗り込んだ4−5人のグループに聞くと、彼らも15時半予定のバスでシンガポールへ帰るという。「登録はないけれど、席はあるから乗って良いよ」というガイドの女性の招きで乗り込んだが、もし私が、少し遅れてホテルに帰ってきたら、登録されていない私は置き去りになり、バスは行ってしまっただろう、と考えると、ややヒヤッとしたのであった。
(帰途のバス)
もう一箇所のホテル・ピックアップを終え、バスは15時半に市内を出る。昨晩、閑散としていた深夜の道は、土曜日の午後とあって渋滞。高速に入るまで30分くらい要したが、その後は順調に流れ、日中歩き回った疲れもありウトウトしていると、17時10分、行きに止まった同じ場所で休憩。17時40分にそこを出ると、18時50分にはマレーシア側出国窓口へ。19時過ぎにコーズウエイに入り、19時15分にシンガポール側入国窓口へ。さすがに土曜日の夕刻とあって、通関の長い列があったのに加え、私の二人前のインド系若者が通関にトラブり、私は最後のバス搭乗者になってしまった。19時40分発。そしてふと気がつくと、バスは高速を出て、私の住居の前を通り過ぎ、20時5分、近所のコンコルド・ホテル裏に停車した。そこから自宅までは徒歩5分。「ラッキー」と心で言いながら、20時10分には帰宅したのであった。
今回の小旅行は、いつもながらではあるが、衝動的にアレンジしたこともあり、滞在時間が短かったのが残念であった。マラッカ博物館などは、もう少し時間をかけて見学する価値があるように思われたし、また前を通りながら時間の関係で覗けなかった博物館もいくつかあった。しかし、それでも、この歴史に溢れた町の様子を知るには十分であった。丁度、イスタンブールがそうであるように、交通の要路にある重要な拠点として列強が争奪戦を繰り広げ、その結果、多様な文化が重層的に展開された様子が、町の至る所に感じられたのである。またペナンがそうであるように、町で見かける人々は、圧倒的に中国系が多いように感じた。海洋貿易の重要拠点として中国から渡った人々が、シンガポールよりも早くここにコミュニティーを作り、その商才によってこの地の経済の実権を握っていった姿が想像された。
シンガポールからのバス旅行が気軽であるということが分かったこともあり、今後改めてこの地は、家族と共にゆっくり訪れてみたいという気持ちを抱いた小旅行であった。
2010年6月1日 記